scene:99 ヴィクトールの誤算
リヒャルトを攫った男たちは、雑木林の奥へと逃げ込んだ。その先に潜んでいたのは、バラス領の領主親子だった。ヴィクトールは、気を失い男たちに担がれているリヒャルトの顔を見て驚いた。
「お前たち、なぜリヒャルト殿を攫ってきた!」
今度は逃げてきた男たちが驚く。
「そ、そんな。こいつはデニスじゃないのか」
どうやら攫う者の顔も知らずに、誘拐を引き受けたらしい。ヴィクトールはダリウス領のならず者たちを雇ったことを後悔した。
「これはどういうことですか!」
リヒャルトの護衛が追い付き大きな声を上げる。
ヴィクトールは舌打ちをして、追い付いた護衛とデニスたちを睨んだ。次期領主のカミルが、リヒャルトの首に短剣を押し付け脅迫した。
「デニス、こいつの命が惜しかったら、ヘルムス橋の図面を寄越せ」
デニスが前に出て答えた。
「馬鹿な真似を……これが王都に知られたら、領地がなくなるぞ。分かっているのか?」
ダリウス領のならず者がデニスの姿を見てざわついた。
「おい、あいつがベネショフ領の次期領主だったのか。クソッ、兵士に変装して誤魔化していたんだな」
デニスの耳にも聞こえた。別に変装していたわけではない。兵士たちと同レベルの服が彼の普段着なのだ。ヴィクトールがならず者たちを睨んで黙らせた。
「は、早くしろ。図面だ、図面を出せ」
カミルが強張った顔をして喚く。この中で一番自制心を失っているのは、この男のようだ。
その時、気を失っていたリヒャルトが目覚めた。ぼんやりとした目に光が戻り、カミルの顔を見る。
「……な、何事だ?」
自分の首に短剣を押し当てられている状況が、理解できないらしい。
「動くな。さもないと貴様の首を掻き切るぞ」
「冗談はやめろ。準男爵の息子が男爵の後継者である私に、そんな真似をしていいと思っているのか?」
「五月蝿い、黙れ!」
カミルが短剣を少し動かした。リヒャルトがピクッと震え、その首から血が滴り落ちる。
「図面を渡すから、やめろ」
デニスは背負っていたリュックを手に持ち、中から紙の束を取り出した。
「ほらっ」
デニスが紙の束をカミルに向かって投げる。受け取ろうとするカミルは、リヒャルトの首から短剣を離した。その瞬間、デニスが一歩で傍まで跳び込み、リヒャルトの腕を取って引き寄せた。
カミルが紙の束を確認する。その間に、デニスはリヒャルトと一緒に後退した。
「騙したな」
デニスが投げた紙の束は、白紙の紙だった。
カミルが短剣をデニスに向けて投げた。その短剣がデニスに当たる直前、イザークの長巻が叩き落とした。
「デニス様に、何をしやがる!」
イザークの口から、ドスの利いた怒声が飛び出した。永らく苦しい生活を強いられたベネショフ領の民に、希望を与えてくれたのがデニスだ。そのデニスに刃を向けたカミルを許してはおけなかったのだ。その相手が貴族だとしても。
「貴族に向かって、無礼な」
ヴィクトールが叱責するように声を上げた。その言葉を聞いたデニスは、怒りがこみ上げる。
「このことは国王陛下に報告する。そうなったら、あなたたちは貴族ではいられない。それを分かっているんだろうな?」
ヴィクトールが顔色を変えた。
「承知の上だ。しかし、それは貴様らがここから生きて帰れたらの話だ」
デニスは鋭い目でヴィクトールを睨みつける。
「僕たちに勝てると思っているのか?」
ヴィクトールが醜い笑いを見せた。
「貴様が武闘祭の優勝者といい勝負をしたのは、知っている。だが、これならどうだ?」
準男爵が片手を挙げた。その瞬間、雑木林の奥から弓矢を手にした兵士三〇人ほどが姿を現した。
「卑怯な。初めからここに誘い込んで殺すつもりだったのだな」
ヴィクトールが立てた作戦を、デニスは見抜いた。ならず者にデニスを狙わせたのは、本気で攫わせるつもりではなかったのだ。
デニスに撃退されたならず者が、ここに逃げ戻ることを想定し、追ってきたデニスたちを弓兵で仕留める作戦だったらしい。
リヒャルトと護衛たちが青い顔をしている。これだけの弓矢から狙われているのだ。絶体絶命だと考えるのも当然だった。弓矢など眼中にない様子で、ヴィクトールを睨んでいるデニスが規格外なのである。
「リヒャルト殿たちを守れ」
デニスがイザークたちに命令した。イザークと兵士はリヒャルトたちの前に出て長巻を構える。彼らの顔にも絶望感はなかった。
その顔がヴィクトールの気に障った。
「気に入らんな。怯えた顔で命乞いをしてみろ。もしかしたら、気が変わって命だけは助けてやるかもしれんぞ」
デニスがニヤリと笑う。そんなことがあるわけがない、と知っていたからだ。そして、なぜヴィクトールが、そんなことを言ったのか考える。デニスたちの顔を見て不安が芽生えたのだと悟った。
「ベネショフの兵士に、弓矢を怖がる者などいない」
デニスが答えた瞬間、ヴィクトールの挙げていた手が振り下ろされた。「放て」の合図である。三〇ほどの矢がデニスたちに向かって一斉に放たれた。
何本かの矢は、剣や長巻により斬り落とされた。だが、ほとんどはデニスや兵士たちの身体に命中する。
ヴィクトールはデニスが死んだと思った。だが、突き刺さるはずの矢が、ポトリ、ポトリと地面に落ちる。デニスたちの身体は装甲膜で守られており、矢が突き刺さらなかったのだ。
「クッ、矢が刺さらないほど強力な防御用の真名を持っていたのか」
ヴィクトールが顔面蒼白になって呟いた。
デニスはイザークたちに弓兵を始末するように命じた。長巻を持つイザークたちは、素早い動きで弓兵に襲いかかる。そして、長巻を振り回し蹂躙した。
アッと言う間に弓兵のほとんどが地面に倒れた。数人は雑木林の奥に逃げたようだ。その様子を見たならず者たちが逃げ出そうとする。
「逃がすか!」
それを目にしたリヒャルトの護衛が、ならず者たちに襲いかかった。ならず者たちも短時間で血反吐を撒き散らして地面に倒れた。
敵で生き残ったのは、ヴィクトール親子だけとなった。デニスは前に進み出て、二人に告げる。
「企ては失敗したようだな。おとなしく武器を捨て降参しろ」
突然、カミルがキレた。血の気が失せた顔で剣を抜き、デニスに斬りかかる。その剣は緋爪により払い除けられ、反射的に反撃するデニスの剣がカミルの胸を斬り裂く。
「カミル!」
ヴィクトールが倒れた息子を抱きかかえた。そして、凄まじい憤怒の表情を浮かべ、デニスを睨む。
「貴様、よくも息子を」
デニスはヴィクトールを睨み返す。ここでヴィクトール親子を逃がすことはできない。逃せば、将来に禍根を残すことになる。
「自業自得だ。陛下の命令で縛り首になるより、戦って死んだ方がマシだろう」
デニスが挑発とも受け取れる言葉を発した。ヴィクトールの顔が、怒りで真っ赤に染まる。ゆっくりとした動作で剣を抜くヴィクトール。
「デニス、貴様だけは許さん!」
喚きながら斬りかかってきた。デニスは襲いくる剣を受け流し、体勢が崩れたヴィクトールの胴に緋爪の刃を滑り込ませた。
宝剣の刃は異常なほど鋭い。胴体の半分を斬り裂き、大量の血が地面に流れ落ち、その血の海にヴィクトールが倒れた。永らくバラス領を支配していたブラバラス家の最後である。
イザークがデニスに近寄り小声で問う。
「殺して良かったのですか?」
「陛下の前で、変な言い訳をされるより、いいだろう。今回はリヒャルト殿という証人もいるのだから」
あまりにも呆気なく、敵対していたバラス領の領主一族が消えることになり、デニスは何とも言えない気分になった。貴族と言えども、行動を誤れば消えることになるのだ、と気を引き締める。
この場所は、ミンメイ領の領地である。デニスは近くの村に立ち寄り、遺体をバラス領に運ぶように頼んだ。初めは嫌がったが、手間賃を多めに出すと承知した。
「あなたに迷惑を掛けることになってしまいました。申し訳ありません」
デニスはリヒャルトに謝った。ベネショフ領の兵士たちの強さを目にしたリヒャルトは、デニスを敵に回したくないと思ったので、その謝罪を受け入れ水に流すことにした。
デニスたちは旅を続け、王都に到着。
国王に報告があると申し出て許された。白鳥城に入り、国王の前に進み出たデニスとリヒャルトは、旅の途中でヴィクトール親子と争った状況を説明した。
「何、ヴィクトール準男爵が、そんなことを……」
その知らせは国王にも衝撃的だったようだ。しばらく無言で考えていた国王が、王都予備軍のゲープハルト将軍を呼んだ。
そのゲープハルト将軍が現れ、国王の前で片膝を突く。
「将軍、バラス領の準男爵が問題を起こして死んだ。ブラバラス家の内情を詳しく調べよ」
ゲープハルト将軍は、詳細を聞いてから去っていった。
国王はデニスとリヒャルトに目を向けた。
「そちたちも、ヘルムス橋の図面を持ってきたのではないか?」
デニスとリヒャルトが肯定し、持ってきた図面を国王に渡す。
「これで、八件の提案が持ち込まれたことになる。余が検討した後、どれを採用するか決める」
デニスたちは国王の決定が下されるまで、王都に留まることになった。




