教えなさいよ!
本日の営業が終わった深夜。
クロは一番後に風呂を使っている朔が戻るのを、キャットタワーの上で待っていた。
明日も早いリリアと陣は順番に風呂を使い、早々に自室に引き上げている。慣れない環境に追い込まれた実も同様だ。
やがて微かな軋み音が聞こえ、クロはぴょんとキャットタワーから飛び降り、ふすまの前にちょこんと座る。ほぼ同時に音も立てずにふすまが開き、頭からすっぽりとバスタオルを被った朔が浴衣姿で入って来た。
『朔、お帰り~』
「ただいま。足音を消していたのによくわかったな」
『猫の聴覚をなめたらダメよ。確かに朔は足音を消してたけど、ちょっとだけ軋み音が聞こえたもの。それより、まだ髪の毛濡れてるじゃない。乾かした方がいいわよ』
そう言ってクロはドライヤーを収納している棚をちょいちょいと前足で示してみせる。朔はその様子にクスッと笑い、さっと印を結んで部屋に結界を張り巡らせた。
『なによ、朔。私、おかしなことした?』
「いや。お前がお前だった時も同じこと言われたなと思ったら、何となくな」
朔の言葉にクロもクスクス笑う。
『そう言えばそんな事もあったわね。朔っていつもずぼらで髪に櫛も入れなかったりして、見かねた私がよく梳いてあげてたよね』
クスクス笑うクロに朔も笑みを深くする。棚から取り出したドライヤーでさっと髪を乾かし、荒目の櫛でさっと髪をとかす。
『朔、そんないい加減な梳かしかたじゃ駄目よだめよ』
「お前、毎日煩いな」
『毎日言ってもいい加減だから言うんでしょう。ほら、もう一回ちゃんとして』
「はいはい……」
朔は仕方なしにクロの監視の下、きっちりと髪を梳かしていく。
「これでいいか?」
『まあまあね。ほんと、人の髪は器用に整えるくせに自分のはずぼらなんだから』
放っておくと延々と続きそうだ。朔はクロをひょいっと抱き上げると膝の上に載せ、その体を優しく撫でさする。
「お前は変わらないな……」
『どうせお節介だとか言いたいんでしょ?』
「確かに昔の俺ならそう思ってたかもな。でも、今はそれが凄く懐かしい」
『うん、そうだね……』
二人の間にしんみりとした空気が流れ、つかの間感傷に浸る。それでも、今は何を言っても無駄なのだ。それを理解している二人は直ぐに沈んだ気持ちを立て直した。
「クロ、布団敷くからキャットタワーの上に行ってろ」
『うん』
クロはぴょんっとキャットタワーの上に飛び乗り、朔は押し入れの中から布団を出して丁寧に敷いていく。その姿を見ながらクロはまたクスクスと笑う。丁寧に敷いた掛け布団をまくり上げ朔がごろんと横になると、クロはぴょんっと飛び降りた。
『朔、今夜もお布団に入れて』
「ああ、来いよ」
一緒に寝るのはいつものことである。朔は、クロが自分の胸元で寝心地のいいポジションを探している間にふわりと上掛けをかける。
『ん~、朔、あったかくて気持ちいい~』
「クロの方があったかいだろ」
朔は再び印を結んで布団の周囲に結果を張ると、優しい仕草でクロを撫でさする。
『ねぇ、朔。ずっと気になってたんだけど、なんで毎晩部屋の周囲だけじゃなく、布団の周囲にも結界張ってるの?』
「安眠妨害を防ぐため」
折角寝心地の言いポジションに陣取ったというのに、朔はひょいっとクロを抱き上げ、自分の胸の上に載せて再びクロの背中を撫でる。
もうっ、と思いながらも、再び朔の胸の上で体制を整える。
『ああ、魔? でも、この辺で朔より強そうなのいたっけ?』
「いや、この辺にはいないな。いや、まあ、それもあるけどな。でも、一番の理由は――」
朔の手がピタリと止まる。どうやら言いたくないことがあるらしい。
なかなか応えない朔の胸元に軽く爪を立てて促してみる。
『わかったわかった。言うから爪立てんな』
朔の口からげんなりしたため息が零れ、爪の力の緩んだクロの体を撫でる。
『――女でも男でも、隙を見つけては俺の布団に忍び込んで来る奴が多かったんだよ。毎回追い払うより二重結界にしておけば安心だろ?」
『ああ、そっか。そっちの方ね。確かにその方が安心ね。リリアなんて毎晩朔の部屋に入ろうとしてるもん。……――ん?』
クロの引っかかりを察知したかのように、朔の手が背中をポンポンとする。まるでそれ以上突っ込むなとでも言いたげだ。
勿論、そんな事で追及の手を緩めるクロではない。
『ねえ、今、男もって言った?』
無言である。仕方ないので、再びぎゅっと爪を立てると、チッと軽い舌打ちの音。
「――言わなくても悟れよ、この暴力猫が」
『へ~……、ふ~ん、そう……』
あくまで口を割ろうとしない朔に、更にギリギリと爪を立て、ついでに甘噛み以上の強さで噛みつく。そうこうするうちに、ようやく朔が音を上げた。
「痛っ、おい、こら、止めろ。未遂だ、未遂! 男なんかに襲われてたまるかっての。あいつら、やれ風雅だ、主従の誉れだ、粋だなんだと勝手な理由つけやがって……」
クロの脇の下をぐいっと持ち上げ、自分の胸から引き離しながら、朔が心底嫌そうに言う。この様子では随分その手の被害に遭っていたのだろう。朔のこの顔では無理もないことだ。
日本の男色は日本書紀の頃からあったものである。平安時代には僧侶と稚児は当たり前、果ては公家社会まで広がっていた。戦国時代に至っては男女の交わりより男同士の交わりが主従の絆を深くすると言われ、盛んに行われていた時期もある。
そういった輩が朔の顔を見ればどうなるか……。
想像しなくとも分かる。その気が無くとも、朔の顔にふらりと吸い寄せられる男も多かったに違いない。
そして、恐らく女はそれ以上だったに違いない。
そこまで考えたクロの胸の内に、モヤモヤとした物が広がっていく。
『ねぇ……』
「だから未遂だって言ってるだろ」
少々ふてくされたようにぷいっと背中を向けた朔の体に乗り上げ、更に問う。
『そうじゃなくて。そっちの方、あれからしてないの?』
「――お前なぁ……」
朔が脱力したように布団に突っ伏す。恐らくどっと疲れたという顔をしていることだろう。
そんな朔の気持ちなどお構いなしに、クロは朔が勘弁してくれというような質問の山を投げつけていく。
『あれからどれだけ経ってるのよ。何もない方がおかしいわ。あ、もしかして、男にあれこれされて女には役に立たなくなったとか?』
「なんでそうなるんだよ……。さっきから何遍も未遂だって言ってるだろ」
『朔のその顔じゃ、説得力無いわよ。ねえ、未遂ってことは際どいことがあったってこと? それで? 女の方はどうだったのよ、ねえ』
無言である。
ノーコメントを貫くつもりらしい。これは疚しいことがあるとみた。
『ふーん……。そういうこと。ま、男って色事に対しては人も動物も似てるしね。男はさておき、積極的な女もいたでしょうし……』
「ねえよ! するわけねえだろう!」
そこまで我慢していたらしい朔が、上掛けを乱暴に跳ね除け、飛び起きた。
若干目が据わっている。
これは少々やり過ぎたか。朔は逃げ出そうとするクロをがっしと捕まえ、布団の上に胡座をかく。そして、クロを膝の上に載せると額をピンッとはじく仕草をする。
「お前、いい加減にしろよ。俺は、俺の中にお前の魂の欠片を封印してるんだぞ。その状態でそんなこと、できる訳ないだろう」
『……』
「そしてな。俺は好きな奴以外にその気にはならない。迫ってきた奴は、男も女もきっちり追い払ってきたから、いい加減変な妄想するな」
なんともこそばゆい。ここは素直に喜ぶべきなのだろうか。
『――でも、それが一番の理由じゃないでしょ?』
「……」
『あ、黙った。やっぱり他に理由があるんでしょう? 教えなさいよ!』
クロの追及に「はぁぁぁ……」と大きなため息をついた朔が、再びクロを抱きかかえてゴロンと布団の上に横になる。そして、クロを自分の隣に置き、肩肘をつきながらぽつぽつと話し始めた
「ったく、もう……。あのな、お前の魂の欠片は全部、水晶玉の中に保存してあって、その水晶玉は俺の体内に封印してある。水晶で保護しているのはお前の自我の部分だけで、記憶に関する部分は共有するようにしてある」
『あら、そうなの。でも、なんで?』
「お前が復活した後、魔に関することをいちいち説明するのはめんどくさいからな。だったら共有してた方が手っ取り早い。つまりだ。お前は俺の記憶の全てを受け継いだ状況で復活してくることになる。そんな状態で復活したお前が真っ先に何をするか、考えなくてもわかるっての」
朔の人差し指が、つんっと軽く鼻を押す。
『そうね、まぁ、若干、鬱憤ばらしの攻撃はするわね』
「若干ねぇ……」
クロの言う、若干の憂さ晴らしの標的になったことのある朔は、つんつんっとクロの鼻を押しながら心の中で思う。
その若干が半端ないのだ、あれのどこが若干などという可愛いものなのだ。避ければ更にエスカレートするし、まともにくらえばただでは済まないじゃないか。
勿論、言えばどうなるか身にしみて分かっているので、声に出しては言わないが――。
『そうそう。あくまで若干よ』
しらっと言ってのけるクロに朔は大きなため息をついた。
「だからだよ。お前が復活したら、すぐに待ち構えているものがある。その前に無駄な力を使いたくない」
『なあに? 何があるの?』
「――魔との最終決戦だ」
魔との最終決戦――。
その言葉に、クロは遥か遠い昔、自分がまだ人間だった頃に思いを馳せる――。