クロと朔
- 朔 -
月の一日に始めて蘇なり
すべての始まりを意味する
いきものかたり~朔
朔
画:リカオ様
ポカポカと心地よい陽だまりの中、お気に入りのキャットタワーで寛いでいた黒猫がふわぁと欠伸をする。
厳しかった残暑もそろそろ終わりが見え始め、夏の間は敬遠していたこの場所で過ごす時間が心地良い。特に今日は、少しだけ開いた窓からそよそよと流れこんで来る風が気持ちいい。
黒猫はぐぅーんと伸びをすると、トンッと軽やかにキャットタワーから飛び下りた。
ビロードみたいな真っ黒な毛並みと真っ直ぐな尻尾に、くりっとした金色の可愛い瞳。
首には細く編みこまれた赤い組紐。叶蝶結びをアレンジした結び目には金色の鈴が一つ。
金色の鈴は、黒猫が歩くたびに結び目のアクセントにもなっている短い房とともに、チリリンと涼やかで邪魔にならない程度の可愛い音を立てて揺れている。
姿形、立ち居振る舞いはモデル猫顔負けで、鳴き声も鈴を転がすように可愛らしい。外を歩けば猫も人間も、誰もが振り向く綺麗なメス猫は、至って単純なクロという名で呼ばれている。
あまりにもセンスの無いこの名前の名付けの理由は至って単純。ひねりもなにも全くない。黒猫だからクロ。ただそれだけの理由でクロと名付けられたのだ。
なんとまぁ、センスのないことか――。
とはいえ、そんな事は今更である。以前の飼い主も、そして今の飼い主――もといパートナーも、その辺のところにはとんと疎いのだ。そんな二人に名付けのセンスを期待する方が無理なのだ。
とはいえ、クロは自分の名前が嫌いというわけではない。
――なんというか、センスがなさ過ぎるのよね。この組紐くらいのセンスを発揮してくれてもいいと思うんだけど。
足音を立てず、その代わりにチリリンと鈴の音を立てながらクロは階段を下りていく。
階段を降り、左右に分かれた廊下を左に曲がり、障子を器用に開ける。そこにいる完璧くつろぎモードのパートナーにすりすりと鼻先をこすりつけ、甘えた声でお願いという名の命令を出す。
『朔~! お散歩行くから連れてって』
「空調の効いた部屋の中ならともかく、まだ外は暑いってのに、しかも、こんな昼間から?」
よしよし、と喉元を撫でながら冷茶を一口飲んだ朔にクロの態度が一変する。
『今日は全然暑くないわよ。今日みたいな日は暖かいって言うの。風も気持ちいいじゃない。お散歩日よりよ』
「あ~、そうかもな。よし、じゃ、一人で行ってこい。クロなら一人でも大丈夫だろう」
『ひ~ど~い! 私一人で大丈夫なんて、なにそれ、酷すぎる! こんなに可愛い私を一人で外に出すの? 私がオス猫にあれこれされてもいいわけ? 他所の人間にかどわされる可能性だってあるのよ。昔ならいざ知らず、今は車にでも乗せられたらもう逃げられないのよ。連れて行かれた先で虐待されてもいいっての? 第一、そろそろ朔だって本業しないとだめじゃない!』
的を射たクロの言葉に、朔がぐっと喉を詰まらせる。それでも知らん顔をしようとする朔に、カプッと甘噛みする。
「痛っ、おい、こら、止めろって」
『だったら分かってるわよね?』
念押しのように膝にもぎりっと爪を立てると、朔は観念したかのようにハァァ……と盛大な溜め息をつき、大きく伸びをしてから立ち上がる。
「はいはい、分かりました。連れて行きますよ、お姫様」
『よろしい』
「でもな、これだけは言っとく。俺は夏の間もちゃんと仕事してたぞ」
『夕方や夜にちょこっとしかしてなかったくせに』
再びぐっと喉を詰まらせた朔の肩にクロがぴょんと飛び乗る。もぞもぞと動き、居心地のいいポジションに収まり、尻尾を振って「行け」の合図。
朔はその体をひと撫でしながら玄関に向かい、朔自身にとってはまだまだ暑い外へと一歩踏み出した。
この朔という男は名義上は住居兼用の焼肉店の店長である。とはいえ、本人は調理など一切出来ない。勿論、経営等はどんぶり勘定でしかできないダメ店長だ。
見た目もまた珍妙である。
長い前髪で顔を隠し、背中の中程まである髪を組紐で首の後ろでひとまとめにし、服装に至っては着流しである。
とはいえ、それが似合わないというわけではない。平均的な身長に、ほどよく筋肉の着いたしなやかな体躯。前髪で隠しているすっきりとした切れ長の瞳には色気があり、顔全体もさらさない方が世間が平和だと思われるくらいに整っている。
男に言わせれば隠してくれてありがとう、女性に言わせれば何故隠すのだ、隠すのが勿体ないと言われるほどの美形である。
その朔に代わって調理や仕入れは勿論、経理や青色申告をしているのは、朔が開店前にスカウトした調理人の陣である。その陣も、店に来ることを承諾したときは、まさか自分が店の一切合切を請け負うことになるとは思ってもいなかっただろう。
その陣とともに、店を切り盛りしているのは、あとから入ったギャルバイトのリリアである。彼女は少し訳あり難有りだが、店内の事は一人で切り盛りできるしっかり者だ。
この二人がいなければ、この店はいったいどうなっていたことか。いや、考えなくても分かる。なにもできない、いい加減な朔一人ではとっくに潰れていただろう。
『朔って絶対経営者向きじゃないのに、なんで焼き肉店の店長になったわけ?』
ほんのり秋の香りのする風を朔の肩の上で堪能しながらクロが尋ねると、朔が軽く首を傾げる。
「……なんとなく?」
『あっきれた~。陣さんとリリアがいなかったらとっくの昔に潰れてたわよ』
「そうだろうな」
事実をあっさり認め他人事のような返事をする朔に、クロは脱力するしかない。
『相変わらず、ずぼらすぎ……』
朔はそんなクロの頭をポンとして、特に目的もなく散歩を続けていく。
クロと朔の間では会話が成立しているが、クロの言葉を人語と理解出来るのは朔一人だけだ。
とはいえ、それは双方の間だけで成立していることで、周囲の者はクロが『ミャア、ニャァ』と鳴き、朔がその声に勝手に話しかけてといるだけにしか見えない。
なぜ、クロと朔の間で会話が成立しているのかと問われると、色々と事情があるとしか答えられない。尤もそんな事を聞いてくる者はいないだろうが――。
『ん~……。ポカポカのいいお天気~』
「そうだな。思ってたより日差しもきつくないし、いい風が吹いてる」
最初は面倒臭がっていた朔も、久しぶりの真昼間の外出が思ったよりも快適な物だったので、知らず知らずのうちに口元が綻んでいる。
『でしょう? 私、季節問わずにお外の空気って好きなのよね~』
「その割には自分で歩くことはしないくせに」
『あら、いいじゃない。可愛い私を肩に乗せる栄誉を与えてあげてるんだもん。満足でしょ?』
「――はいはい、その通りで。しかし、ここ数年の暑さは異常すぎるな。まるで……」
何かを言いかけ、口をつぐみ、前髪に隠された瞳がすうっと細められる。
『朔?』
「――いや、なんでもない。つくづくエアコンってものは良いもんだなと思ってな」
『ほんと、あれは文明の利器よね~。昔じゃかんがえられない、――あれ……?』
かすかに感じる気配にクロのひげがピンと伸びる。そして何かを探るようにひくひくと鼻を蠢かせる。
――なに、これ? どこか懐かしい、この波動は……。これは一体――。
「どうした?」
クロの異変に気づいた朔が声を掛けても、クロはその声さえも耳に入らないように周囲を探り続ける。
――どこ? 一体どこから――。
キョロキョロと周囲を彷徨っていた瞳がある一点で止まる。妙に引き寄せられる波動に吸い寄せられるようにクロは朔の肩から飛び降り、その波動に向かって一気に走り出す。
「ちょっ! おい、クロ! 待てって! ん……? これは……」
朔はクロが走って行くその先にある物の正体に直ぐに気がつき、クロの後を追いかけていく。
クロは駆けつけた先でふんふんと鼻を蠢かせ、やがて確信する。
『やっぱり……。朔、お願い、助けて! 彼、私の前の飼い主なの!』
「前の飼い主? そりゃまた……。ん~……。この状態だとかなり微妙だな……。まぁ、やってみるか……」
朔はさっと周囲に結界を張り、気を集中すると、そこ蹲っている魂に向かって呪を唱え始める。
それは魂を呼び覚ます為の呪――。
朔の唱える呪が蹲っている魂の上に降り注いでいくうちに、あとほんの少しで消えかかっていた魂だけのそれが、徐々に元の姿を取り戻していく。
『やっぱり彼だ……』
もどかしい思いでその様子を凝視ししていたクロは呟き、再び霊体の様子を注視する。
徐々に形を取り戻しているものの、あともう一息という所になっても彼が目覚める気配がない。
隣では朔がただひたすら呪を唱え続けている。
朔のような呪を唱えることができない自分にできることは、こうして見守っていることだけ。
でも――。それでも――。
『もう駄目。もう我慢できない!』
我慢限界。
『ここまで元の姿を取り戻しているのになんなのよ! なんでここで止まるのよ! 世話が焼けるんだから!』
クロは殆ど実態を取り戻してきた彼の体の上に飛び乗った。ニャアとしか聞こえないのを承知で大声をあげる。
『実! いつまで寝てるのよ!! さっさと起きなさい! ってか、こんな所で何してんのよ! なんで前の住居からこんなに離れた所にいるのよ!』
ニャアニャア鳴きながらシャツの上からギュッと爪を立て、体のあちこちに遠慮無く噛みついていく。
それらの痛みからなのか、はたまたクロの大きな鳴き声のせいなのか。どちらかが刺激になったらしい魂がゆっくりと目を開ける。
その瞳はまだ焦点を結んでいない。
そんな状態の彼に向かってクロはしっかりしろというように、一際大きい声でニャアニャアと鳴き続けた。