アルファゼト
昇り始めた日が背中を温めてくれている。タムの山小屋は少し前に見えなくなった。先ほどチーズとハムをのっけたパンと昨夜の残りのスープという、昨夜より少しだけ豪華な朝食を済ませて出発したばかりだ。
結局、稲穂は地球には戻っていなかった。タムに起こされた時、目覚めた稲穂の視界に真っ先に入ってきたのは鼻で軽くため息をつく彼の姿だった。
「どれくらいかかるの?」
稲穂の問いにタムはしばし考えるそぶりを見せると、「おれだけなら8〜10時間くらいだが、おまえもいるからな、半日くらいだろ」と答えた。
頷いて了解の意を示すと、稲穂は改めて辺りを見回した。そういえば、昨日は地球から移動してきた先が室内だったから外を見るのは初めてだ。山小屋には上のほうに小さな窓しかついてなかった。
「空とお日様は地球と変わらないね」
ぽつりと、独り言かタムに向けてか、特に考えずに呟いたのを彼は拾ってくれた。
「おれらには当たり前だから、空すらない世界なんて想像できなかったが。そうだな、おまえの世界はアルファゼトと似ているのか?」
ここは山の上だから、街がどうなっているかはわからないが、少なくとも稲穂には根本的なところ、つまり自然はそんなに変わらないと思った。その旨を伝えるとタムは感慨深げに頷き、「どの世界でも絶対必要なものっていうのは変わらないんだな」と結論づけていた。
「地球の話をしてくれよ。おれはアルファゼトのほとんどの国に行ったことがある。新しい世界を知りたい」
タムの要望にお答えして、稲穂はどう言えばいいか考え考え語り出す。
「地球は、水の惑星とか、緑の惑星とか言われてるの。宇宙空間の中で青い惑星は目立つのよ、写真を見たことがあるけど。海が地球が青く見える理由なの。すごく広くて、地球全体の7割が海。空には朝はお日様が照るし、夜は月と星が輝く。わたしは日本っていう国に住んでる。春夏秋冬の四季があって、天気もいろいろ。晴れた日、雨の日、曇り、雪……。それからね、山の多い国。海に囲まれた島国。いいところだよ。ユキコさんはいろんな国を見たらしいけど、やっぱり日本が一番だって言ってた」
稲穂に合わせて歩きながら、タムはまぶしそうに目を細めた。太陽は後ろから照っているが、地面に反射した光が顔を容赦なく照らす。
「話を聞くだけでいい国だって伝わるな。おまえのような人間が育つなら悪くないとは思うが」
それ、どういう意味?と純粋な好奇心で問うと、「いや、うん」とはぐらかされしまった。
「地球に魔女はもういないのか」
稲穂もそれ以上は聞かず、新たな問いに答えてやることにした。
「ユキコさんが世界最後の魔女だったからね、もういないと思う。新たに生まれない限りは」
「魔女ってどうやってなるんだ?」
「えぇ?さあ……、ユキコさんはいつも抽象的に言うだけで詳しいことは教えてくれなかったからなぁ」
「そうか。こちらの世界にも一応、魔法という価値観はある。まじないとしての要素が強いが。まじない師もいるしな。まじないなら街に行けばそこら中に溢れてる」
話のついでついでにこの世界のことを教えてくれるタムに、稲穂は頷きながらも昨夜のことを思い出した。
「あれ?でも昨夜は信じもしないって言ってたよね?みんながみんな信じてるわけじゃないの?」
その問いにタムは苦虫を噛み潰したような顔つきになった。しまった、というような。
「………まともに生きてるやつは信じてるよ。まじないってのはナルックの大陸宗教、つまりは聖女王を抱く宗教の中のものだからな」
あなたは?と聞きたいのを稲穂は一生懸命抑えた。タムは昨夜からいろいろなことを教えてくれる。そのタムが教えてくれないことにはきっとなにか事情があるのだ。だから稲穂は聞かないことにした。それに彼は嘘をつかない。稲穂には嘘か本当か確かめる術も知識もないが、少なくとも、わかる範囲では嘘をつかれなかった。たった一晩で、稲穂はタムをすっかり信用していた。
タムと話していたら時が経つのは早く、足の疲れも和らぐようだった。とはいえかなり長い距離を休憩をはさみながら歩き、アッカの町についたのは日も暮れようかという頃だった。一日中一緒だった太陽が沈むのを真正面で捉えながら、背後からは夜が迫ってくるのを感じていた。
「どこに泊まるの?」
この世界にホテルなんて代物があるのだろうか、と疑問に思ったので一応尋ねると行きつけの宿があるのだと言う。野宿にはならないようでひとまずほっとすると、まだベッドの上ではないのにどっと疲れが押し寄せてきた。街に入って安心したのか、急に足取りが重くなった稲穂を見てとったのか、タムは「あと少しだからがんばりな」と励ました。
アッカの街並みはレンガを土台に、材木を積み重ねてできた家が並んでいるものだったが、暗かったし、なにより疲れていたので、稲穂に街を見回す余裕はなかった。
「さあ、着いた。ここだよ」
周りの家と代わり映えのしない、一軒の家でタムは立ち止まった。周りの家との違いは、強いて言えば少々大きな家だというほかは、小さな看板が戸口にぶら下がっていることぐらいだろうか。「宿り木」と書かれた看板が風に揺れている。
タムが扉を押し開けると、ベルがカランカランと鳴り、中の主に来客を告げた。
「いらっしゃい。おや、タムじゃないか」
1階はどうやらバーになっているらしく、カウンターの中に初老のマスターが立っている。彼は稲穂に目を止めると、グラスを磨いていた手を止め、なにやらてきぱきと行動し始めた。
「まあ、おかけなさい。今あったかいものを出すから。夕食はまだだろう?」
「ああ、頼む」
タムがカウンター席に座ったのを見て、稲穂も倣い、隣に座った。マスターがはちみつを溶かした白湯入りのマグを目の前に置いてくれる。こちらに来てから、タム以外の人に会ったのは初めてなので多少緊張している。
「お嬢さんは珍しい髪色をしているね。綺麗な黒髪だ」
いきなり話の矛先が稲穂に向いたから少し身じろぎしてしまったが、気づかれていないだろうか。どう答えてよいものかわからなかったので、「そうですか?」と無難な答え方になってしまった。
「グレーなら時々いるけどな。北の大陸は暗い髪色が多いらしいけど」
タムがマグを片手に揺らしながら会話に入ってフォローしてくれた。
「おや、お嬢さんは北の大陸から?」
「いや、昨日久しぶりに帰ったら家の中にいた。本人曰く、異世界から来たらしい」
彼があまりにもさらりと言ってしまうから、こちらの世界では普通のことなのかと錯覚しそうになったが、マスターの反応を見るにそうではないらしい。案の定、一瞬動きを止めて稲穂のほうを見てきた。ここで目を逸らすのもはばかられたので、見つめ返すと先にマスターのほうが逸らした。
「それはまた。まじないの力にはそこまで力があったのかねぇ」
「ばあちゃんが魔女だったらしいんだが、そのばあちゃんも亡くなっちまって帰り方がわからないらしい」
マスターの反応は信じているのかいないのか、いまいち掴みきれない。タムは気にせずに話を続けていたが、稲穂は気になって仕方がない。白湯を飲みながら何度もちらちらとマスターの顔を盗み見ていた。
「そこでだ、マスター」
タムが今までの口調と変えて、一段と真剣な口調になった。
「聞きたかないよ」
タムがなにか言う前にマスターは遮った。
「お前さんの頼み事は毎度面倒だ」
「でも引き受けてくれるだろう?」
タムがにやりと笑うとマスターはもはや諦めたような、呆れたような渋い顔をする。
「聞くだけなら聞こうかね」
感謝、と言い置いてからタムは"頼み事"をした。
「ワタリ、ああ、こいつな。こいつをしばらく預かっててほしい」
タムが言い終えたのは稲穂が白湯を飲み終わったのと同時だった。
「え?」
彼女が思わず声をあげてしまったのも無理はない。いきなり異世界に来てしまって、信頼できると思ったのがタムだったのに、離されてしまうのでは不安を感じてしまうのはもっともなことだ。
「大丈夫、マスターは信用できるよ。おれはちょっくらお前の帰り方を探してくるから」
タムはそう言うけれど、稲穂は不安を拭いきれない。それを見てとったのか、マスターは「まあまあ」と話を一旦中断させて、できあがったスープとサラダ、それから柔らかなパンを出してくれた。
「とりあえず食べなさい。お腹が空いては頭も働かないからね」
タムはそれもそうだな、と食べ始めた。結構早く食べているのでお腹が空いていたのだろう。稲穂も「いただきます」と丁寧に手を合わせてから食事に手をつけた。
「へえ。いただきます、か。なるほどね」
タムは気にしなかったようだが、マスターは稲穂の様子に感慨深げに頷いている。
「こちらでは言わないんですか」
「うーん、熱心な教徒は女王の加護に感謝してから食べるけどね。まあ、日々の糧は自分で得るものだという意識が強いからかな」
文化の違いを知るのは稲穂にとって苦痛ではなかった。むしろ様々な価値観に触れるのが好きな稲穂だったからこそ、祖母のことを大好きだと思えたのだろう。この世界に来てもさほど取り乱したりすることもなく、どころかタムの話を聞いて楽しんでいる節さえ見られる。
「おもしろい子を連れてきたね、タム」
マスターもそういった類の人間だったのだろうか。「いただきます」から始まって、稲穂からいろいろな話を聞きたがった。稲穂はタムに地球の話をしたように、マスターにも同じような話を繰り返した。
「世界にはいろんな国があって、仲良くしたり戦争したり。わたしが生まれた国は昔、戦争をしていたけれどもう二度としませんって誓った国なんです」
だとか。
「この世界にも宇宙にはたくさんの星がありますよね。地球もその中のひとつなんです。もしかしたら遠い宇宙のどこかに地球はあって、宇宙でこの世界と地球は繋がっているのかもしれませんね」
だとか。
「行事ですか?正月、節分、七夕……クリスマス、いろいろですね。日本は信じる神もまちまちですし、割となんでも受け入れるので。初詣は神社、結婚式は教会、葬式はお寺だったりしますし。全部違う宗教ですよ」
「はー、神様がそんなにたくさんいるのかね」
「わたしが住んでいる国では八百万の神、つまりいろいろなものすべてに神が宿るとされています。なので割と他の国の宗教も受け入れる国民性なんだと思います。他の国では唯一神のところが多いんですが」
「なるほど。アルファゼトの宗教はわかっているのだけだと、三つだけだ。ナルック大陸ではひとつの宗教を信仰している。聖教と呼ばれていてね、聖女王を奉り、まじないや魔導の力を信じる。ほかの大陸では七星教と呼ばれるものや、樹根教と呼ばれるものなどがあるらしいけどね」
「ずいぶん少ないんですね。人口が少ないんでしょうか」
「さあ。大陸同士の親交はそんなに深くない。貿易などは行われているが、それぞれが独立した世界のようなものだからねぇ。存在しか知らないで、どういうところなのか知らない人もたくさんいるよ。タムはだいたい行ったみたいだがね」
自分の名前が出てきたので話に割って入るタイミングを伺っていたらしく、食べるのに集中していたタムが顔を上げた。
「もういいだろ。長ったらしいな。結局どうなんだ、マスター。引き受けてくれるのか」
話を邪魔されたのでマスターは少しむっとしたようだが、今度はあっさり「いいよ」と快諾した。
「ワタリ、と言ったかい。いい子だしね、店を手伝ってくれるのなら」
マスターのおかげで忘れかけていた不安がまたにょきっと顔を覗かせた。すぐ顔に出る稲穂を見て、タムは困ったように頭を掻いた。
「まあ、明日は約束通り街を見せてやるから。とりあえず今日のところはマスターのところに世話になろうぜ」
詳しい話は明日すればいい、と言うタムに稲穂も頷いた。とても眠いし、疲れている。そう自覚したらもう耐えられないほどの眠気が襲ってきて、稲穂はそのままテーブルに突っ伏して寝てしまった。