3
物理学用語などが出てきますが、作者は専門的に勉強したことがありません。
もし間違っていることなどあれば、優しくご指摘いただけると幸いです。
これほど積極的に関わってくる依頼人も珍しい、とリヤンに半ば呆れのような評を下されるほど頻繁に、仙波いりなは《獏》の家を訪ねるようになった。
その相手をする役は当然のように千歳に回ってきた。幼い子どもの相手はほとんどしたことがなかったのだが、好奇心旺盛さに伴ってだろうか、仙波いりなの語彙はかなり豊富で、千歳のほうが却って拙く感じられる時もあるほど、話し方もかなり筋道だっていて、しっかりしている。そういった点では、経験値の少ない千歳でも、接しやすい相手といえた。
そうしているうちに、懐かれたのかどうなのか、「チトセ」と呼び捨てされるようにまでなってしまった。親しみがこもってるんだよ、と窈などにはフォローされたが、頼りなく見られる所為だろうなと千歳本人は思っている。しかし話し相手としては最適な位置に落ち着いたのか、徐々にコアな部分を話してくれるようになった。
仙波いりな、小学三年生。市内の公立小学校に通っている。
予言を始めたのは幼稚園に通っていた五歳ごろから。一年ほど前に週刊誌に載った後から、様々なメディアでも紹介され始め、有名になったのだという。
「チトセはわたしのこと知ってた?」
そう問われて、少し考えた後素直に首を横に振った。やはり嘘は苦手だった。
だが、少し嬉しそうに彼女は顔を綻ばせた。
「ちょっとね、色んな人に会う度に予言しろって言われたりしてヘキエキしてたんだよね」
「……そっか」
想像できなくもない事態である。だが、彼女にとっては不思議だったらしい。
「どうして皆、知りたがるのかな?」
「試してたんじゃ」
「わたしを?」
きょとんとした後、彼女は少し不敵そうな笑顔を作った。
「わたしを試してもしょうがないんだよ。わたしが視えるのは、ホントは未来じゃないんだから」
「え?」
「未来はカヘンだって言うじゃない。わたしも賛成なの」
未来は可変。そう謳う人間は多い。けれど。
予言少女らしからぬことを言い始めたいりなにひたすら困惑した視線を向けると、彼女は思案気に目を斜め上にやった。
「わたしが視えるのは、ひとつじゃないの」
「……いくつも?」
「えっとね、しっかり視えるのはひとつなんだよ。だけど、ぼんやりしたのもいくつか重なって視えるの」
「ん……何となく、分かる」
千歳には、本当に何となくだが、分かった。いりなもそれを感じたのだろう、何度か頷いて、続けた。
「その一番はっきり視えることを、わたしは言うだけ」
「な、何か、パラレルワールド絡んできたような話……」
呆然としたような窈の言葉に、確かにと千歳は頷いた。
空想科学小説に出て来る、“今此処”以外にも“今”が多重に存在するという概念。『あの時ああしていたならば』という仮定が叶った世界、という表現がよく引き合いに出される。
たくさんの未来が視えるという言葉は、自然そんな多重を連想してしまう。
「難しいね」
「それですむかなあ……」
はあ、と窈は深い溜息を吐いた。ますます、荷が重いような感覚が増えてしまった。
「未来は確定できると思う? それとも不定だと思う?」
何となく級友に問い掛けると、羽咋零は秀麗な眉を顰めた。決まっているわけないと一笑に付すだろうと思っていたのだが、難しげに考え込んでいる。意外な反応だった。
「……カオス理論、っていうの、知ってる?」
やがて発せられた単語に、全くもって聞き覚えが無いので素直に首を振る。
「元々物理学用語だから知らなくても当然かもね。僕だって槐先輩の受け売りだし」
「……仲良いんだ」
「冗談止めてくれる?」
口元を引き攣らせて羽咋零は言い放った。そうかなあ、とは口の中でだけ呟くことにして、ただ千歳は首を傾げた。とりあえずそれに答えることにしたのか、零はひとつ息を吐いて語りだした。
「それによると、よほどミクロな世界でもない限り、未来は確定しているということになる」
「……へえ」
「でも、同時にどんな優秀なコンピュータでも、未来を知るのは非常に難しいという結論にもなる」
「………………フェルマーの最終定理みたいなもの?」
何か確固たる理論体系があるのだろうとは考えられる。何となくなんてものではないだろう。だとしたら、成り立つけれど証明しにくいということだろうか。
零は「ある側面似てるかもね」と頷いた。
「カオス理論っていうのは、簡単に言えば帰納法的に未来が予測できるんじゃないかっていう考え方なんだよ。……サイコロを振ったとき、出る目を予測するとする。僕らが数学で解く問題だと、一つのサイコロにつき目が出る確率は等しく六分の一ってことになってるけど、実際的に考えようとしたとき、これが割と乱暴な仮定だってのは分かるよね?」
頷く。たとえば、分かりやすくするためか、点の部分を少し凹ませたサイコロをよく見るが、抉られている部分がある以上、重心が中心であるとは考えにくい。この時点で既に全ての面が等しく出やすいという前提が崩れる。
「サイコロの重心の位置、振った時にサイコロが受けた力、気圧、落下する時の空気抵抗の働き方、サイコロの落ちる場所で最初に触れるのはどの頂点かとその際の速度や角度、その場所の凹凸やサイコロとの摩擦……一応これらは全部計測可能だ」
「そういうことを全部計算すれば、出る目が分かる?」
「理論上はね」
「でも、『どんな優秀なコンピュータでも』難しい?」
「言っとくけど計算が面倒だってことじゃないよ。そんなもの、コンピューターにでも処理しきれないから」
「……どういう意味?」
「力を数値化して、綺麗な数字になることなんてありうると思う?」
あ、と思わず呟きそうになった。力など自然発生のものだから、ほぼ百パーセントの確率で、無限大の端数が存在するに決まっている。
「切り捨てた数字がいくら小さくても、計算するための数字が本当のものと違うから、導き出せる未来も正確さを欠く……ってこと?」
「そういうこと。だから、どれだけ発達しようと、完璧な未来予測の出来るコンピュータは造れないだろうね」
あっさりと結論付ける級友を余所に、考え込む。
確定しているはずの未来像。けれども誤差が生じれば、それは揺らぐ。
もし、そうした機械的な帰納システムが、仙波いりなの予言にも影響があるとしたら――いりなの言う“ぼんやりしたもの”は誤差の未来なのではないだろうか。確証は、何一つ無いけれど。
ふと、千歳はそこで別の方向のことに思い至った。
「どうして、槐先輩はそんな話を?」
級友は綺麗な顔を最大限不機嫌そうに顰めた。
「結局、未来を予測することは人智のわざではないって言いたかったんじゃないの?」
その月並みな結論にどうして此処まで不穏な空気を纏うのか、千歳には分からなかった。
「ああ、そうだ」
話を逸らそうとしたのか戻そうとしたのか、零は今思いついたように口を開いた。
「そういう計測を可能にする仮想の存在は、“ラプラスの悪魔”と呼ばれるらしいよ」
「…………“ラプラスの悪魔”……聞き覚え、あるんだけど」
唸る窈に、「物理学好きなの?」と問い掛ける。千歳自身は、いわゆる理系科目は嫌いというほどではなかったが、得手といえるものでもない。
「ううん、そうじゃなくて……世の中にはそういう、第六感的な感覚を持つ人たちが稀に居るんだって、聞いたことがあって」
第六感。
ほかの大多数にはない感覚を、もつ人々。
「……………………………………………………僕、みたいに?」
常より長い沈黙に躊躇いを込めて、千歳は尋ねた。
どういうことだと訊き返されたならごまかすつもりだった。
けれど、彼には窈がわざわざ遠方まで足を伸ばし、自分を引き取って助手にすることの理由となる要素など、それしか思いつかない。極めて聡明なわけでも博学なわけでもなく、運動神経も悪くない程度、容姿に大きな特徴も無い。疎まれてきた自らの“感覚”しか、ない。
窈は少し迷う素振りを見せた後に、頷いた。
「そう。千歳くんが嘘を識るように、仙波さんは未来を測るのかもしれない」
事実上の肯定と言葉の内容に、そっか、と頷く。
やはり彼女は知っていたのだ。
更科千歳は、偽りを感知する。根拠も証拠も乗り越えて、ただ『分かる』。
何となく俯きそうになった。知っていたということは、やはり窈が望んだのは千歳の“感覚”だったのだろうか。望まれたことが嬉しいような、けれど、何処か、寂しいような。
動揺する彼を見抜いたわけでもないだろうに、窈はまっすぐに千歳を見た。
「でもね、千歳くん。私は、力で千歳くんを選んだわけじゃないの」
「え?」
「確かに、その力は依頼の調査で役に立つかもしれない。でも、それは理由じゃない。あなたを知った瞬間、直感があったからよ。だから、あなたのことを調べさせてもらって…その過程で、千歳くんの力のことも、知ったの」
「直感」
「……そう。ああ彼だ、っていう、《獏》の直感」
ふふ、と窈は照れたように笑った。
「《獏》ってそういうものなの。お父さんが私を引き取った理由も、そうだった」
言った後、はっとしたように彼女は唇に手を当てた。
内容からして、窈の父親、おそらく義父が先代の《獏》だとは分かる。だが、其処まで切ないような悲しむような、しかし何より決まり悪そうにする所以は、全く分からない。この家に父親の影が無いということに、何か理由があるのだろうか。
「……ごめんね。とにかく、今は仙波さんだよね」
釈然としないながらも、頷く。窈は気を逸らすように、また思い出すように視線を中空に彷徨わせた。
「そういう、他人とは少し違う力を先天的に持つ人を“異能者”って言うんだって、聞いたことがあるの。ただ、仙波さんみたいな能力者だと……どうかな。上に問い合わせても、分からないかも」
「上?」
「そういう……異能者監視部署、みたいな政府機関があるの。勿論非公式にされてるけど」
千歳の特質ゆえだろうか、何か嫌だな、と思ってしまいながら、尋ねる。
「そういうところの資料も、見られる?」
「申請すれば、大丈夫のはず」
「…………お願い」
“ラプラスの悪魔”というものがどういうものなのか、そもそも異能とは何であるのかが分からないままでは、いりなの力に対するヒントになるかどうかすら分からない。
頷いた窈は、そちらに連絡することを約束してくれた。