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「未来を視る?」
今日も今日とて、なのだろうか、第一図書室に居たクラスメイトに尋ねてみれば、彼も胡散臭そうな顔を作った。羽咋零に訊いた自分が間違っていたのだろうかと思っていると、別の方向から声が飛んできた。
「ああ、仙波いりな嬢のことかい?」
「……何、知ってるの、槐先輩」
零が途端に顔を顰めて、その小柄な少女へ視線をやった。
細い綿糸のような黒髪が縁取る白皙の容貌は、可憐という形容が一番相応しいだろう。中学生くらいに見えるが、零の呼びかけから考えて、“先輩”というけったいな名前でもない限り年上だろう。黒曜石のような瞳が、きらりと独特の輝きを放った。
「まあね――彼女の未来視は三日以内のこと、しかも時間指定なしのランダム」
「あんまり役には立たないね」
「評判にはなるだろう?」
にっ、と彼女は口角を上げた。
「それぐらいの期間の未来視なら、理屈をつけることが出来るけどね」
「え?」
さらっと言い放たれた言葉に、思わず首を傾げた。零が咎めるような目をするが、彼女は微笑を保ったまま続けた。
「彼女が赤の他人の未来を当てたというなら成り立たない仮説だけど」
前置きでそう断って、少女は腕を組みなおした。
「無意識に思い出して、連想と予想の結果を組み合わせると、未来視にも似た場面を語ることが可能かもしれないってこと」
「……よく、分かりません」
正直に言うと、「そりゃそうだ、今のは言い方が悪かった」と彼女は肩を竦めた。
「たとえば……そう、本当に単純な例だけど、たまたま何日か連続で植木鉢に水をやるのを忘れたとする。『忘れている』のだから意識の上で思い出せることはないが、脳の中には存在するわけだ。此処までは?」
「大丈夫、です」
「うん。で、無意識のうちに頭の中でその記憶が刺激されると、ビリヤードの球の如く、連想と予想が働いて、ポケットに入る。意識に上るのは最後に導き出された結論、つまり『あの花が枯れてしまう』ってね」
にこりと笑った少女に、思わず唖然とした千歳に代わったわけでもないのだろうが、零が嘴を挟んだ。
「それを意識的にやってるんじゃないの?」
「それなら彼女はシャーロック・ホームズばりの推理力の持ち主だね」
「先輩がドイルなんか読んでたとは知らなかったけど……ありえないとは言えないだろ」
「うん、会ったことも無い女の子を軽んじる気は無いけどね、想像と推理を分かつのは?」
「……根拠」
「僕もそう思う」
少女らしからぬ一人称を使いながら同意した少女と対照的に、零は不機嫌そうに押し黙った。彼女の言いたいことは、今度は千歳にも分かった。
仙波いりなは、意識的な連想を働かせた結果はただの想像だと判断できる年齢であるということ。
「まあ、もしもこの仮定が正しければ、いずれそれが自分の連想に過ぎないと分かると消えるだろうけれどね」
「……そうなんですか?」
「精神分析の場でも方法論の一つとして用いられることでも分かるとおり、連想は意識的より無意識的に行われたほうのが余程自由だよ。そして意識的なものに変わると、それなりの理論体系が頭の中に無ければ、言葉になる前に己で否定してしまう」
やはり何となくだが、分かった。
しかし、見た目年下の年上から長々と講釈を聞いているのは、少し妙な気分だ。嫌な気分にはならないが。
「……もしかして先輩、超常現象否定派?」
ぼんやりそう思っていた千歳は、何故か少し硬い零の声に訝しく思いつつ振り返る。
全てのことに対して面倒そうな姿勢を崩さないような印象のある彼の目が、いやに険しく真摯だった。だが、少女は気づいているのか居ないのか、飄然と肩を竦めた。
「いいや。僕は世の中に不可思議は存在すると思うし、むしろそういったものが好きだ。だけど、説明のつく不思議をつかない不思議に混ぜていたら、それは思考停止だと思うから。それだけだね」
「不思議と不思議でないものは峻別すべきだっていうこと?」
「ちょっと違うかもね。……不思議が綺麗に証明されるのも好きだし、不思議が不思議のままであるのも好き。そういうこと」
やはり彼女は穏やかに微笑む。ふっと零も雰囲気を和らげた。
入っていけずにぼうっとしていた千歳に、少女は向き直った。
「まあもっとエキセントリックで面白いものもあるけど、眉唾物も多いからね、これ以上は止めておこう。……うん、いきなり変な話を始めてごめんね?」
「いえ……興味深かったです」
「それは重畳」
愉快そうに笑って、少女は椅子を引いて立ち上がった。帰るのかな、と思った瞬間、黒い瞳が千歳に再び向く。
「僕は槐夕夜。君は?」
「更科千歳です」
夕夜とは、また女性というよりは男性に近い響きの名だった。取り替えて欲しいような気もするが、彼女にはその名が妙に合っているように感じもする。
そして少女も、千歳の名前を聞いて頷いた。
「うん、願いのこもりそうな綺麗な名前だね」
「先輩の感性って本当に理解不能」
目を白黒させる千歳に、やはり代わったわけでもないのだろうが、またもや零が突っ込んだ。『願いがこもっている』ではなく『こもりそう』とは、確かによく分からない。
「千歳って『千年』という意味だろう? 時間が長いんだから、その始まりより経過の中でのほうがたくさん願いがこもりそうだから」
「……先輩って、理屈っぽいのか感性で生きてるのか」
「折衷しているに決まってるよ」
嫌だなあ、と密やかに笑い声を立てながら、彼女は鞄を肩に掛けた。
「それじゃあ、いつかまた、千歳君、Goose-Egg君」
「……先輩」
咎めるような声は、別れの挨拶代わりに振られている手でいなされてしまったようで、機嫌を急降下させた少年を残して槐夕夜は立ち去ってしまった。
「……ぐ…?」
「あの人が嫌がらせ半分に使ってるらしい僕の呼び名」
「英語?」
いやに綺麗な発音だった。零の表情がますます苦くなる。
「知らないだろうけどね、うちの学校でも有名な変人だよ、あの人は」
「……そんなに?」
弱冠独特ではあったが、朗らかで人当たりも悪くない印象だった。
「自称病弱、試験日しか教室に来ないような不登校児のくせに、結果は学年トップクラス」
「…………」
「妙な方向に博識、しかも独特の思考アプローチがあるみたいで、初等部の時夏休み自由研究の所為で留学させられそうになったとか、あの人の試験答案をめぐって毎回先生方の頭を抱えさせてるとかいう、嘘か本当かわからない逸話がある」
「……うん、変な人だ」
天才というよりは、変な人だ。
妙な図書館には、変わった人間が集まるものなのだろうか。
ちらりと横目で級友を見つつ、千歳は思った。
夕夜の話を伝えると、窈は軽く目を瞠った。
「面白い意見だね。確かに、それで説明できそうなのも多いかな」
言いながら、淡い桃色のリングファイルを差し出す。リヤンが調べたのだろう、仙波いりなのした未来予知の事例を集めたものだった。
「ボヤについての予言とかは典型だろうね。……まあ、他人のことも言い当ててるみたいだけど」
「……そっか、残念」
「そうだね」
苦笑した窈と二人、ふっと溜息を吐いた。
『最近、姪は予言が出来ないと言いだしたんです』
女性は、こう切り出した。
『本当に、前までは怖いほど言っていたのに、最近はぴたりと言わなくなって。……正直、私は良いと思うんです。怖いというか、やっぱり少し気味が悪いと感じていたところもありますから。けれど、いつの間にか“予言少女”って有名になって、出来ないというのも心苦しい状況になってしまって……』
『原因は分かっていますか?』
『それが全く不明なんです。こんなの、心的要因しか思いつかないんですけど、姪自身も分からないって……だから此処に持ち込むべきなのかって、本当は随分と迷ったんですけど』
「成長に伴って出来なくなりました、ですめばお互い気が楽だったんだけど、こればっかりはね」
窈は背もたれに身体を預けた。
「これはご本人に会うしかないかな」
「……大丈夫?」
「元々手配はしてたよ。……また、動いてもらうことになると思うけど、よろしくね」
にっこりと微笑する。どれだけ淡かろうと奇妙に力強かった夕夜のものとは異なる、ぴんと張った糸を思わせる芯の強さと危うさを含んだ、そんな笑みだと思った。
千歳には、頷くことしか出来なかったけれど。
薄桃色のファイルには、実に百例以上の事例が入っていた。的中率はおよそ七割、それなりに信用の置ける数字と言えるだろう。それこそ花が枯れるといった些細なものから、事故に遭うというものまで実に様々で、他人に向けられている予言も二割ほどある。
『予言、ね……人間はある程度、言葉に縛られるものだけど』
槐夕夜が立ち去った後に、零は呟いていた。千歳も、内心で同意した。
予言や占いとして向けられた言葉は特に、行動を意外と制約するものだ。後から思い返して『やっぱりそうだったんだ』と思ってしまうことも少なくない。人間は意味を求める傾向があるからだろうか、差異ではなく一致を見てしまう。この中の的中したと言われる事例でもそういう例が無いとは思えない。けれど、全てがそうであるとも思えない。それならば占い師たちが当たりやすい外しやすいと評価されることも無いだろうから。
「…………やっぱり、本人に会うしかないか」
数日後、帰宅するとやはりリヤンがコートと荷物を剥ぎ取りつつ、応接室で客と窈が待っていると伝えた。
いつも通り制服のまま入ると、いつも通り不審の目を向けられ、窈がいつも通りの説明をする中で、軽くソファに座っている二人を観察した。
一人はこの間会った女性とよく似た面立ちの、しかし彼女より痩せて神経質そうな印象を受ける女性だった。窈と千歳をあからさまに不信感を持って見ている。もう一人は十歳ぐらいの少女だった。床につかない足をぶらぶらと遊ばせながら、ココアのカップを抱え、興味深そうに千歳と窈を交互に見ている。この子が仙波いりなだろう。
「……それで、この子を何とかできるんですか?」
やはり神経質そうな細く高い声だった。詰問するような口調だが、何処か疲れたような色が見える。対して窈はさらりと首を傾げた。
「それは原因とご本人の意思によります。原因が記憶に無ければ私どもにはどうしようもないことです。人によって処理が上手く行かないときもありますし、そもそもご本人の意思と承諾がなければ何も出来ません」
女性はきりりと眉根を寄せた。今にも娘の手を掴んで立ち上がりそうだったが、その出鼻を挫いたのは可愛らしい声だった。
「わたしはやってみて欲しいな。面白そうじゃない」
「……いりな? これは遊びじゃないのよ」
少なからずうろたえた様子の母親に対して、仙波いりなはのびのびと笑った。
「良いじゃない。このままほっといて戻るかはわかんないわけだし」
「それは、そうだけど」
「だったら頼んでみても良いじゃない。ね?」
「…………ええ」
何とも言いがたい表情で彼女は頷いた。娘の我儘に折れたというよりは、負い目を感じているかのような、芳しくない表情だった。けれどやはり対照的に、仙波いりなは晴れやかで無邪気だった。
「じゃあ、よろしくお願いします、《獏》さん!」