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《獏》という存在が居る。
悪夢を喰らうという幻獣のことではない。職業名である。
一言でまとめるなら『記憶を夢に変える職業』。ありえないようではあるが、現実に存在している。忘れたい記憶、忘れねばならない記憶を、柔らかく失うための技術として知られているそれの歴史はかなり古いらしく、未詳。
特殊に過ぎる職業のため、数の多くない彼らはその居住国で厚い待遇を受けていることが殆どだ。
そして、掟がいくつかある。分かっている限りの例を挙げると、滅多に本名を明かさない、弟子は一人のみ取る、秘密厳守、そして、嘘を吐かない。その意図するところは不明。
現在、日本ではただ一人――――。
更科千歳は本を閉じた。その拍子に舞った埃に、少しだけ顔を顰める。
表紙には『世界の職業大百科』の文字。まるで進路学習に使われそうな少しふざけたタイトルだが、中々どうして侮れない。ふと思いついて奥付のページを開いてみるが、全く耳にしたことのない出版社名だった。
さすが、と千歳は一人頷いた。
流石は第一図書室、侮れない。
千歳が此処に編入してからそろそろ一ヶ月が経つ頃だが、三つも図書室が存在するということで当初は驚いたものだ。創立時の理事長の本好きが高じてこうなったと聞いたが、本棚に本来は高校に置くべき書物ではないようなものがぎっしり詰まっているのを見ると、この一つだけは要らなかったのではと密かに思う。
其処で調べものをしている千歳が言える科白ではないのは、重々承知の上で。
古書と専門書が中心に置かれた第一図書室は、その性質上一般生徒の立ち入りが殆ど無い上、現在の司書の趣味によりマイナーな蔵書が増えに増え、大学付属の図書館にもなさそうな書名が所狭しと並んでいる。
しかしながら、セピア色の空気が沈殿している空間は、割と千歳の好みである所為か、それとも好奇心の賜物か、全くもって彼の心に此処に対する拒否反応は生み出させないので、なくなって欲しいとはついぞ思わない。
さて、と千歳は立ち上がった。自分で『さえ』知らなかったことを探り当てて出版されたらしい謎の本を持って、隅にあるコピー機へ向かう。大きな白い機械は、薄っすらと埃を被り、プラグも差し込まれていない。少し困った千歳は振り返った。
「……使っても良い?」
「どうして僕に訊くのさ」
秀麗な眉を顰め、布張りのハードカバーを広げていた少年が彼へと目を向けた。色素の少ない薄茶色の瞳が冷淡そうな印象を与えるが、割と慣れているのと元来そういうことを気にしない性質とが相まって、千歳は首を傾げたのみだった。それに苦い顔を返して、少年――羽咋零は奥の司書室に声をかけた。
「香坂さん、コピー機使うよ」
「どーぞどーぞ」
この空間にはそぐわないほど軽快な女性の声が返ってきて思わず目を瞬かせる千歳を余所に、零は「だってさ」と素っ気無く告げた。
とにかく許可は下りたようなので良いか、とプラグをコンセントに差し込み、隣にあったスチール製の引き出しからコピー用紙を取り出しセットする。起動させるとガタガタと不安な軋み音が出たが、本を乗せて十円玉を入れ、ボタンを押すと問題なく印刷された紙が吐き出された。
千歳がこんな妙な図書室で妙な職業を調べているのには理由がある。諸事情あって行き場を失くした彼が、ほんの一ヶ月ほど前に引き取られたのがその《獏》の家で、しかもその助手に任命されてしまったのだ。故に、その職業についてなるべく多くを知っておいたほうが良いのかもしれないと思ったのだが、当然ながらそんな影のような技術者が載っている書物などなかなか無い。やはり無理か、とあきらめようとしたところで、たまたま級友から『もう一つの図書室』の存在を聞いたのだ。
来てみると、別の級友こと羽咋零が馴染んだ様子で本を広げていたので驚いたが。
「来る人は来るんだよ、此処は。…来ない人は来ないけどね」
とはその級友こと羽咋零の言で、常連生徒は一年・二年・三年が一人ずつ、時たまその二年生の友人二人も訪れる程度だという。そういう場所なのに、本だけはどさりと多い。
人は少ない、本は多い。なるほど、この級友が好みそうなところである。
さて、と物思いを断ち切って、コピーをクリアファイルに収め鞄を掴む。少し迷ってから、結局控えめに「ありがとう」とページを進める彼に声を掛けると、ちらっと目をくれた後、やはりぶっきらぼうな「別に」という答えが返ってきた。
後ろ手でドアを閉め、澄んで冷たい外からの空気を切りながら、彼は学校を出た。
「お帰りなさいませ、千歳様」
「……ただいま、帰りました」
慇懃に頭を下げた女性に、彼も頭を下げ返す。
紅みがかった栗色の髪を緩やかに波打たせながら上げた顔にある瞳も、紅を含んだ栗色だった。どんな出自かは知れないが、彼女は千歳の保護者である《獏》に仕えているらしい。名をリヤン、年齢不詳で、千歳に対してのみ何となく無愛想な理由も不明である。
「窈様がお呼びになっておられます。どうぞ奥へ」
言いつつ、手つきは丁寧に千歳のコートと荷物を剥ぎ取って、すたすたと階段の向こうに消えていった。ふっ、と息を吐いて、それが白いのを確認せず、千歳は奥の応接室に向かった。
半ば予想通り、クリーム色のソファの一対には、千歳と同世代の少女が座っていた。黒絹のような重そうな腰までの髪が特徴的な、和風美人といった風情の彼女こそが、鬼無里窈、千歳の現在の保護者である《獏》なのだった。
対して、ソファの別の片割れに掛けていたのは女性だった。三十代前半といったところ、顔のパーツは全体に小さく地味だが、悪印象を抱きにくい。千歳を見て、不思議そうに目を見開いた。それを見越したのか、窈は彼女に微笑んだ。
「彼は更科千歳くん。私の助手なんです」
「初めまして」
ぺこりと頭を下げると、彼女も慌てたように会釈を返した。
「では、助手も来たことですし、そろそろ本題に入りましょうか」
窈がティーカップを置くと、彼女は躊躇いを見せつつ口を開いた。
「相談したいのは姪のこと、なんです。仙波いりなというんですけど」
そういってちらりと二人を窺う。きょとんと顔を見合わせる彼らに、安堵と落胆が混じったような表情を零した。
「ちょっと前から“未来を視る少女”ってワイドショーとかで騒がれてるんですけど・・・・・・」
「未来を視る?」
落ち着いた彼女には珍しい、素っ頓狂な声が窈から発せられた。声こそ出さなかったが、千歳もまた目を瞠った。