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チャイムに合わせて、千歳は鞄に教科書を詰めた。今日の出来は、まあそこそこだろう。
「………ふう」
窈は《食事》を来週末に決めた。千歳の試験終了を待ってと言うことらしい。そんなに気遣われても困るのだが、窈が頑として言い張った。
このままで良いのかと、何度目かの自問をする。多分『再婚』をキーにした記憶を処理すれば澪は目を覚ますだろう。リヤンの言うとおり、アフターケアまで責任はとれない。
消極的な結論だと分かっているが、仕方のないことなのかも知れない。
鞄を持って、とにかく立ち上がった。
「あのさ」
僅かに不機嫌そうなぷっきらぼうな声に、千歳は振り向いた。
ごく最近級友になったばかりの少年が頬杖をついて彼を睨むように見上げている。冷たい、端正な美貌。纏う雰囲気が尖っている所為か、人を近くに寄せ付けないようだ。しかし一匹狼と言うよりは。
「……野良猫」
「脈絡が全く掴めないんだけど」
霜の降りた有刺鉄線のような口調だった。人によってはたじろぐのだろうが、幸か不幸か千歳は気にしなかった。
何でもないと緩やかに振った首を、小さく傾げる。
少し深めの溜息と共に、彼は「プリント」と千歳の机の上に二枚重なったB5の紙を指した。物思いに耽っていたので全く気づかなかった。
「ごめん」
素直に謝って一枚渡しつつ、軽く目を通すと、保護者付きの三者面談のお知らせだった。
窈に来てもらうのもおかしいが、リヤンでも結構困る気がする。進学校とはいえ、一年生の冬から親まで交えなくても、と取り留めのないことを考えつつ鞄に適当にしまい込んでいると、「で?」と、後ろから再び硬く鋭い声が飛んできた。
「そんな変な顔して、どうかした訳?」
「…三者面談、どうしようかと」
「その前」
ぴしゃりと言われた。少なくとも表面上は他人に興味の無さそうな彼がそこまで考えるなど、自分は一体どんな顔をしていたのだろう。
「…もしもの話、たとえ話だけど」
「何?」
「もし、親とかの関係で『自分は要らないんじゃないか』って思ったら、どうする?」
一瞬怪訝そうに目を眇めたが、すぐにつまらなそうな顔になった。
「どうもしないよ。僕はまだ、僕自身が必要なんだからね」
「……ふうん」
傲然としているようで、実は至極まっとうな意見に思われた。
人に必要とされている方が、勿論良い。だが結局は、自分が自分を見捨てられるか否かという問題なのだろう。
――『たった十二歳で、現実に生きられなくなるなど、痛ましいことですから』
うん、と千歳は一人頷いた。
元来無気力なので少し気は重いけれど。
話を聞かせてもらった分と、自分が食べる分ぐらいは、やはり働くべきだろう。
「ありがとう」
「別に」
ぞんざいに言い放って、彼も鞄を掴んで立ち上がった。
ふと、彼の名前も覚えていないことに気づく。
「名前、なんだっけ」
彼は片眉をちょっと上げ、あくまで無愛想に言った。
「羽咋零。……そっちは」
なるほど、彼もこちらの名前を覚えていなかったから、皮肉が言えなかったのか。納得しながら、呟く。
「更科千歳」
やけに可愛らしい名前とよく言われるが、零は「ふうん」と呟いただけで特にコメントしなかった。社交辞令に近かったのだろう。
そしてそのまま、千歳は学校を出た。
事故当時の澪の持ち物の中に気になるものを見つけた、と千歳が夕食の席できり出したその次の日、リヤンは警察にあるはずのそれを机の上に置いた。
疑問は彼方に放り投げることにした。気にしてもどうしようもないことはある。
銀の台座はシンプルで、所々曇りが見られる。小さなダイヤモンドらしき輝きが蛍光灯の光を鋭く反射している。
「やはり、お母上も何故自分の結婚指輪を澪さんが持っていたのかご存じないそうです。……ただ、その指輪は捨てたはずだ、と」
ためらうように発せられた末尾の言葉に、窈と二人して、まじまじと指輪を見る。
「再婚予定の方にプロポーズされた日の夜に、窓から外へ捨てた、と」
「えっ?」
「けじめのためだとおっしゃっていましたが……」
「それを澪さんが見ていて、拾いに行った?」
そうとしか考えられない。偶然拾った指輪が母親のものと似ていたら尋ねただろうし、心当たりがなければ警察へ届けただろう。くすねてしまえと魔が差したとしても、それなら余程持ち歩こうとは思うまい。
その結婚指輪が両親の絆と認識していたならば、そしてそれを母親が捨てるのを目撃してしまったとしたら、どうしてそれを拾いに行かずにいられただろうか。そしてそのまま『結婚指輪のように自分も捨てられるのではないか』と言う考えを抱くようになったとしたら。
極端な考え方ではある。ただ、少なくとも、母親に、前夫との間にできた自分が邪魔者扱いされたらどうしよう、という恐怖心は抱かずにいられなかったのではないか。
「――確証はない、ね。けど、事故の記憶そのものでも、再婚」
あとは、彼女とその周囲に、その解決をゆだねるしかない。それは変わりなくとも。
きっかけとしては、十分になれるかもしれない。
あっという間に、《食事》の日は来た。
眠り続ける少女の病室に、依頼人と三人は立っていた。何をするのかと思っていると、リヤンが下げていた革の鞄から紐を三本、取り出した。
灰色の細い紐、深い青の太い紐、そしてラメらしきものを含んだ銀色の紐。
それらを窈は左手首に巻き付ける。灰色の紐は手首に引っかけただけで垂らし、深い青の紐は何重にも、それから、銀の紐は一度手首に巻き付けただけ。
「始めます。…よろしいですね」
男が頷きを返すと、《獏》の少女は余っていた銀色の紐を軽くくわえて、目を閉じた。
どんな劇的な変化もなかった。
ただ、紐だけが存在感を放ちつつあった。
最初は、光の加減だと思った。灰色だから、尚更に。しかしその白はゆっくりと青を浸食していく。
男が息を呑んだ音がした。
ああ、と千歳は直感で悟った。今、記憶は《獏》の手で夢に変えられているのだと。
これは技術なのだろうか、魔法なのだろうか。
白く染まっていく紐を見ながら、彼は何故か、あの雪の夜を思い出していた。
「……ありがとう、ございました」
「いいえ、お役に立てたかは、わかりませんが」
男に微笑みながら紐をはずした窈は、尼崎澪に目をやった。
「どうか良い夢を。泡沫に変わるまで」
呪文のような言葉は、微風のような心地よい響きの声で発せられた。
数日後、《獏》の住処のポストに舞い込んだ封筒の中には、丁寧な礼状があった。
直接訪れたかったがやっと目覚めた娘の傍から離れがたく、という下りに、窈は本当に嬉しそうに微笑んだ。つられて、千歳の頬も緩む。
そして、窈は封筒をさかさまにした。すべらかな音とともに、封筒からきらりと光る物がこぼれる。
「それが報酬だよ」
見覚えのある、シンプルな小さな輪。
その小さく硬質な輝きは、確かにダイヤモンドはダイヤモンドだが、金にするには質屋に流すくらいしかないだろう。
「窈って、つまり」
「うん?」
「お人好し?」
少女はふふっ、とはにかんだ。千歳が薄い表情の下で呆れているのが分かったからだろう。
「良いじゃない」
試験を少しばかり犠牲にした彼は文句を言うべきかも知れないが、まあ特別悪い点だったわけでもなし、と受け入れた。それに。
「綺麗でしょ?」
「……うん、そうだね」
冬の陽光の中を含んで反射する銀色は本当に綺麗だ。
そして、未だ幼い眠り姫は目覚めた。
やはり、文句など見つからなかった。