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呼ばれて入ってきたのは、低い位置できっちりと二つに束ねた髪をした、しっかり者という印象のある少女だった。
「この人が尼崎さんについて聞きたいことがあるんですって」
女性教師が柔らかく声を掛けると、少女は訝しげにこちらを見た。
「澪の、親戚の方ですか?」
「いえ」頷いた方が良かったと知っていながら、千歳は首を振った。
――昔から、嘘は苦手だ。
「でも好奇心じゃない。とある仕事に必要なんです」
反抗期にさしかかっているのかも知れないが、それを考慮しても少女の目は険しかった。
「仕事って何ですか?」
「詳しくはいえません。でも、彼女のお父さんから依頼されたことです」
言うと、少しだけ肩の力を抜いた。話してくれる気にはなったらしい、と安堵しながら、先ほどからとっているメモ帳を開く。
「あなたから見て、澪さんはどんな人でした?」
「もう先生が言ったんじゃないですか」
相変わらずつっけんどんな態度で言うが、千歳は内容の方に軽く首を傾げた。
「あなたと先生は同じ視点で澪さんを見ていたと?」
「皮肉ですか、それ」
少女は嫌そうに片眉を上げたが、千歳としては純粋な疑問だった。
「いえ、あなたがあまりに心底から言ったようだったから」
「そうじゃなくて、『おとなしい良い子』って評価にわざわざ付け加えることはないって意味です。…聞いてなくたって分かります。澪はその通りの子でしたから」
「つまり、溜め込むタイプだった……ってことですか?」
女性二人が軽く目を見開いた。
「一応これでも中学生だったことありますから。おとなしくて良い子だからこそ、自分の悩みを人に打ち明けたがらない方かな、と。憶測ですが」
一歩引いてクラスを見ていた経験からだった。
教師の言う良い子とは、大体が二種類いる。社交的で明るい子か、大人しく問題を起こさない子か。おそらく澪は後者なのだろう。
また反発するかと思ったが、少女は観念したように深く溜息をついた。
「さっきのは油断させるためとか…いわゆる誘導尋問ですか?」
「いいえ?」
きょとんと千歳は言った。思ったことを聞いただけでこういわれては、心外である。更に彼女は苦い顔になる。
「…天然とか、言われません?」
「言われませんけど」
そもそも、そんな突っ込みをしてくるほど親しい人間に思い当たらない。
少女は軽く嘆息したが、気を取り直したようにしっかりと千歳を見据えた。
「……そうですね、確かに澪は人見知りするって言うか…あたしは小学校の頃からの付き合いですけど悩みを打ち明けるのは未だに躊躇われるって感じで。その割によく悩むから傍で見てると苛々って言うか…」
「気が気じゃない?」
少女は頷いた。
「じゃあ、事故に遭う前、何か悩んでた様子は?」
彼女は考え込んだが、傍らの二人の教員をちらりと窺い、首を振った。
――嘘だ。
けれど、ちょうどその瞬間、予鈴が鳴った。少女も、栗原先生と呼ばれた女教師も、落ち着かない様子で身じろぎする。まだ確証もないのに、授業を妨害してまで、彼らの時間を拘束するのも気が引ける。仕方なく千歳は三人に礼を言って部屋を出た。
バスの時間を確認しておくのだったと詮無いことを考えつつ人気がまばらな廊下を歩く。
収穫は多くなかった。けれど、尼崎澪の両親の離婚と、それから友人の少女の嘘が、少し気に掛かる。
考えをまとめてから出直そうと決めて、来校者用の昇降口で靴を出そうと、下駄箱の扉を開いた時だった。
「待って!」
振り向くと、先ほどの少女が立っていた。走ってきたのだろうか、少し息が上がっている。
「あの、小父さん…澪のお父さんに頼まれたんですよね」
「…はい」
「だから、黙ってようかと、思ったんです。小父さんには、きっとつらいだろうから。でも」
少女はぐっと、何かをこらえるように一瞬沈黙して、顔を上げた。
「校長先生が、おっしゃってました。あなたは、澪の目を覚まそうとしてくれてる、って。だから、伝えさせてください」
躊躇いを飲み込むように間をおく少女に、千歳はただ頷いた。
「事故に遭う少し前に、澪、零してたんです。――『私はいらないのかも』って」
胸の前で拳にした左手を右手で包むようにして、彼女は目を伏せたまま震えていた。――その、意味は。
「あなたは、澪さんは自殺未遂をした、と?」
少女は答えなかったが、その態度が雄弁に彼女の心を語っていた。
止められなかったという罪悪感。きっと、彼女のあの尖った態度はそれの裏返しだったのだろう。
「……ありがとう、話してくれて」
ゆっくりと、千歳は薄く笑う。
少女は小さく首を振って、本鈴の中を駆け去っていった。
帰宅すると、リヤンの慇懃な挨拶ではなく、奥から窈の「お帰りなさい」と言う澄んだ声がした。
招かれるままに彼女の自室へ入ると、窈はティーテーブルの上に籠を乗せ、なにやら色鮮やかな紐らしきものと、金色の棒を手にしていた。
「それ……?」
「あ、これ?」
窈の指した籠の中には色とりどりの糸が束で入っている。
「これが準備の一つなの」
「……え?」
「そのうち分かるよ」
言いながら、しきりに金色の編み棒を動かして糸を紐に近いものに編み上げていく。
準備と言うくらいだから本番の《食事》の時に使用するところが見られるだろうと千歳は一人頷いて、もう一つの疑問を口にする。
「リヤンさんは」
「あなたと同じ」
手を休めないまま、窈は笑みを向けた。
「調査に行ってるの。報告は彼女が帰ってからまとめて聞きましょう」
そっか、と呟いて、千歳も彼女に勧められるまま椅子に腰を下ろした。
編み上げる淀みない手つきが器用だ。視線に気づいたのだろう窈が笑う。
「ちょっとやってみる?」
「え?」
「千歳くん器用そうだし」
籠から青の束と金のかぎ針をもう一本取り出して千歳に手渡した。
確かに手先は器用な方だが、と困惑気味に見ると、窈は笑って編みかけの紐を机に置いて、灰色の束を取り出してゆっくりと糸をかぎ針に絡めた。手本だと分かる。リヤンが帰ってくるまではどちらにせよ手持ちぶさたなのだし、とぎこちなくそれに倣う。
こういう時間は初めてに近いのに、素直に穏やかに過ごせることが何となく、嬉しかった。
「ただいま戻りました」
小一時間ほどたった頃、リヤンが姿を現した。千歳の手にしたものを見て彼女は僅かに目を眇めたが、何も言わなかった。
「お疲れさま。じゃあ、どっちから先に聞こうか」
窈が手を止めるのに千歳も倣って後片付けをしつつ、先にどうぞ、とリヤンに手振りで示すと、彼女は革張りの手帳を開いた。
「尼崎澪さんの主治医によれば、やはり身体的には全く異常はないそうです。それから警察によると、犯人は捕まっておらず、手がかりも皆無に等しいとのこと。因みにお父上…依頼人は商社の社員、お母上も同様でしたが、澪さんが中学に上がる直前に離婚。お母上には新しい交際相手がいるようですが、そちらとの不仲もない。素行に問題は特になし、至って真面目でおとなしい子だそうです」
「そっか…なるほどね」
窈はそう言って千歳を見る。殆ど付け足すことが見つからないのだが、と口を開いた。
「…澪さんは割と悩みを溜め込むタイプで、人には話そうとしなかったみたい。ご両親は好きだったみたいだけど、でも事故の直前、『私は要らないのかも』って友人に呟いたそうで」
「それで?」
窈がくいと身を乗り出した。反射的に身を引きつつ、千歳は首を傾げた。
「自殺未遂の可能性が出てきて…あと、親権が母親にあるっていうのが少し気になったんだけど…」
「…確かに、引っかかるね」
窈はリヤンに目を移した。
「親権をもたないお父上が依頼人、ということがでしょうか? しかし窈様、共に暮らせないこそ心配と言うことでは」
「そう、よね。でも、そういうことじゃなくて、何かしら…」
引っかかる、と呟く少女に、千歳は頷いて同意を示す。
一番はやはり『私は要らないのかもしれない』という言葉だ。今日話を聞いた彼らの態度からして、学校生活に問題があるわけではないだろう。もしそれならば、友人の少女がああいった態度をとる必要はない。それならば、やはり家庭…母親との関係に何かあるのだろうか。けれど、明らかな問題があるとすれば、リヤンがすでに報告しているはずだ。
問題はなくとも、自分を不必要かもしれないと思い悩むとしたら。
「……リヤンさん。母親に交際相手がいる、という話、もっと詳しく、教えてくださいませんか」
珍しく、彼女は戸惑ったように千歳を見た。
「そういえば、再婚を考えている、と。相手と澪さんはすでに何度か会っていて、うまくやっていけそうだから、と」
閃きのままに口に出すと、あ、と窈も目を瞠った。
「そう、かも。いや、それなら…つながる!」
彼女の事故の記憶は、痛みの直前まで悲しみと寂しさが支配していたという。
「自殺未遂か本当に事故なのか、それは分からない。ただ、その二つが結びついての絶望が感じられたの。だから、事故の記憶を消しても澪さんは目覚めそうになかった」
それが母の再婚に自分が不要なのではという考えに起因しているとすれば。
「……難しいんじゃ」
ぽつりと呟くと、窈も背もたれに沈んだ。
「そうだよね……お母上の再婚話の記憶を処理したって、目を覚ましたらもう一度分かることだもの……」
「窈様」
リヤンが優しく、しかし厳然とした声で告げた。
「窈様はおっしゃられていましたね、『今回《獏》は尼崎澪さんの目を覚ますために動く』と。つまりお仕事は目を覚まさせることだけですわ」
「リヤン、でも」
「いいですか、《獏》ができることは、所詮は《食事》のみ。変えるのは澪さんであり周りの方々であり、私たちではないんです」
「……うん」
窈は項垂れた。こうしてみていると姉妹のようだ。
でも、と千歳の思考はまた移る。
流石に尼崎澪の結論は短絡的と言えはしないだろうか。もっと直接的なショックが、あったのではないだろうか。