2
三日後の土曜日、窈に伴われて、尼崎澪の病室を訪ねた。
「澪、どうだい? 今日は、お前のお見舞いに来てくれた人がいるんだよ」
男が声をかけた少女の寝顔は、年相応の幼い印象だった。
リヤンに持たされていた花束を花瓶に移し変えながら、ぼんやりと少女を観察する。点滴も繋げられているが、顔色は悪くない。なるほど、身体的には問題ないのだろう。眠っているだけのようにも見える。
その横で窈はじっとその寝顔を見つめていたが、ふと男に目を転じた。
「本当は娘さんご本人に伺うべきなのですが、こういう状態では無理ですから、代わりに説明させて下さいますか?」
娘の手を握ってしきりに話しかけていた男は窈を振り向いて、小さく頷いた。
「まず《食事》は本質的に、完全に記憶を失うというわけではありません。余程そういうことはありませんが、それは娘さんの資質と偶発的要因によります」
「…はい」
「第二に、《食事》終了後は、二度と彼女に関して《獏》に依頼を持ち込まないと約束していただきます。どんな理由があるにせよ、記憶に何度も修正が入るのは好ましいことではありませんから」
「わかりました」
「第三に、記憶というものは個々ではなく、相互に連結しているものです。《食事》の過程で対象となるもの以外も『見て』しまうことも起き得ります。無論プライバシーには配慮しますので、犯罪にかかわるなどの余程のものが見えない限り、口外することはありません。…よろしいですか?」
今度の沈黙は長かった。男は眠り続ける少女を見ていたが、やがて頷いた。
「……お願い、します」
窈は人を和ませるような微笑を浮かべた。営業用ばかりではありえないほど、柔らかく温かな笑みを。
「では、本格的に依頼をお受けいたします。また日を改めて行いますが、今日は少し様子見をさせて頂いてもよろしいですか?」
男が頷くと、窈は少女の額に手を当て、目を閉ざした。
数分だったようだが、その静けさと緊張感ゆえにもっとずっと長く感じた。
「ありがとうございます。本日はお騒がせして、すみませんでした」
窈は目を開けていつもの微笑を浮かべる。恐縮する男にもう一度辞去の挨拶を述べて、千歳を促した。
「早く目を覚ましてあげないと」
だから、病室を出る際の彼女の呟きは、きっと男には聞こえなかったに違いない。
リヤンは白い自動車を伴って病院入り口で待っていた。ずいぶん年季の入った印象の、中古車といってもおかしくないものだった。その助手席に乗り込んだ窈は、空気の音を立ててシートに沈みこんだ。
「お疲れさまでした」
千歳に向けるよりも柔らかい声に、窈は「本当に」と呟いた。
「記憶を探るって事は、結構疲れるんだよ」
これは千歳に向けての言葉だった。
ここに着くまでは疲れたようには見えなかったが、確かに、ものの数分の様子見で疲れた様子を依頼人に見せるわけにはいかなかったのだろうと千歳も思う。職業人としてのプライドとは、少し違うような感じもしたけれど。
だが、力は無くとも真剣な声で、窈は続けた。
「リヤン、千歳くん。尼崎澪さんのこと、もう少し調べてくれないかな」
「……・何か『見えた』のですか?」
「うん……」
窈の声は眠気も混じっていたが、やはり明確な意志があった。
「もしかしたら、彼女の眠っている理由は、事故が直接の要因じゃないのかも……」
窈が眠った後、千歳はミラー越しにリヤンを窺った。
「あの、調べるって言っても」
新聞もインターネットも、既に限界を見出している。これ以上は聞き込みぐらいしか考え付かないが、警察でもあるまいに、いきなり彼女の周囲の人へと聞き込みを開始したところで、色よい反応がもらえるとは思えない。
「《獏》は貴重な存在なのです」
しかし、千歳の言葉の意味を悟ったかどうかはっきりさせないままに、彼女は前を見ながら話し始めた。
「この国の《獏》は今は窈様お一人。アジア全域で考えても十人もいないでしょう。そしてその稀少な彼らは、あらゆる面で国家レベルの保護と補助を受けているのです」
「国家レベル?」
「ええ。はっきり申し上げますと、報酬など頂かなくとも補助を要請すれば十分に生きていけます。ただ、それでは飼われているのと変わらないといってそれを好まない《獏》もいますが」
「つまり、窈…さんが望めば」
いきなりこんな話をされた理由が段々と飲み込めてきた。勢いで呼び捨てにしそうになってミラー越しに睨まれ、慌てて付け加えた。
「いくらでも調べる手段は生まれてくる、ということです」
何事もなかったように彼女は千歳の後を引き取った。
「窈様はあなたの身分証明書も申請されていて、確か先ほど届いていました。それを掲示すれば警察のデータもある程度閲覧できます」
どんどん話が大きくなっていくが、理解より早く事態は動いている。
溜息をついて、千歳は飛んでゆく窓の景色を眺めることにした。
どうやら逃したらしい。
腕時計と時刻表を照らし合わせ、次のバスまで20分弱と計算して、千歳は少し脱力した。
仕方なく待つことにして、停留所のそばに置かれたベンチに腰掛けた時だった。
「あれ、更科、お前バスだっけ?」
唐突に話しかけられて、千歳は瞳を瞬かせた。
振り返って見えた、人懐っこそうな顔立ちに覚えがある。級友となった少年だ。社交的とは言いがたい千歳の態度にも苛立った様子も見せず、かといって過剰に踏み込もうともせず、普通に挨拶をくれるという割と少数派のひとりだ。
「いつもはバスじゃないけど、ちょっと寄らなきゃならないところがあって…」
「ふうん。大変だな、試験休みなのに」
「…でも、皆、余裕そうだったけど」
明日から試験とあって、今日は三限までで授業終了となった。当然、千歳は何もなければそのまま帰宅して試験勉強する気でいたのだが、教室にて聞くともなしに聞こえてきた会話の中には、この後遊びに行こう、という誘いの声がいくつか飛び交っていたようだった。
しかし、級友は苦笑する。
「明日から憂鬱なテストだからなー。今日はもうぱーっと発散したい!って思っちゃう奴って結構居るんだよ。ま、ああいうのが目立つだけで、ちゃーんと勉強してる奴のほうが多数派だから、その辺間違えないよーに」
少しおどけた態度で、立てた人差し指を軽く振る。
それでも、彼なりに転入生の千歳へのアドバイスのつもりなのだろう。それがわかったので、素直にうなずいておく。
「よしよし。じゃあ、俺は此処でお暇するわ。明日の英語構文が強敵だから」
「うん、さよなら」
「お前も頑張れよ、更科」
ひらひらと手を振って、いまひとつ名前を思い出せない級友は歩み去っていく。
彼の背中を少しの間見送ってから、千歳はもう一度、頭の中でバスの路線図を確認した。
千歳が訪れたのは尼崎澪の通う中学校だった。バスを降りて校舎へ入ると、廊下を歩く生徒たちがちらちらとこちらを窺ってくるのが心地悪くて、逃げ込むように目当ての扉をノックした。
迎え入れてくれたのは初老の男性と若い女性だった。男性は笑った顔も何となく力強い人で、千歳は勧められるまま黒い革ばりのソファーに腰を下ろした。向かいに同じように座った男性が口火を切る。
「巷で噂は聞いておりますよ」
「僕は、単なる使い、ですから」
言いながら何となくこちらを不審がっている女性の眼光を見て、千歳は身分証明書だと渡されたペンダント型のプレートを、カッターの下から出して彼らに見せた。美しく光を反射して、その中央に刻まれた獣――体は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、足は虎に似ていて、毛は黒と白の班であるという、獏――の姿が鈍く光る。
窈の特権の一部を代行する、その証。現実感よりも理屈で思い知っている。
「ああ、すみませんね。こちらも個人情報を管理している身ですので、慎重にならざるを得ないのですよ」
にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべる校長と、そのプレートの意味がわからないながらも、校長の表情にほんの少し態度を軟化させた女教師に千歳は軽く頭を下げる。
「電話でお話したとおり、尼崎澪さんが未だ目を覚まさない原因をきちんと知らねばならないと《獏》は言っていまして」
女性は訝しげだったが、校長はそのまま目で続きを促してきた。
「おそらく事故のショックだろうという話は聞きましたが、万一のことがあると。今回《獏》が動くのは彼女の目を覚ますためですから」
これは窈が宣言したことだ。
『尼崎氏が事故の記憶のことを依頼したのは、彼女を目覚めさせるため。それなら目的を最優先すべきで、手段は臨機応変にすべきだわ』
「……わかりました。《獏》の意図が其処にあるというのでしたら、よろしい、私が反対する理由は何一つありません。たった十二歳で現実に生きられなくなるなど、痛ましいことですから」
では、栗原先生、と呼ばれた女性はまだ戸惑いを残しつつも、校長の話の趣旨には共感を覚えたらしい、ゆっくりと口を開いた。
「澪さんは、おとなしい、いい子でしたよ。あまり目立つ子ではありませんでしたけれど、特に問題もないですし」
「悩みがあるとか」
「さあ、そう言うのは聞きませんでしたね。友達もちゃんといるようですし、ご両親が離婚されていますけど、だからといって――」
「すみません」
千歳は彼女の話に割り込んだ。少し気を悪くしたようだったが、彼は納得しつつも引っかかりを覚えたのだ。
「親権は、どちらに?」
「……お母様の方が引き取っているという話でしたが」
「そうですか…すみませんでした。……続けて下さい」
「…お母様との仲も良いそうで、…ああ、でもお父様のことも好きで、ちょっと寂しいともいっていましたね」
「……いい子なんですね」
「本当に。なのに、あんな事になってしまって……」
嘆息した彼女を見て、腕時計を見る。――頼めるだろうか。
「昼休みがそろそろだと思うんですが…澪さんと仲のいい人とお話しできないでしょうか」
しばしの沈黙の後、担任の女教師は校長を見やった。彼は笑って、
「協力しましょう。半分くらいの意味では、彼も私たちの同僚なのだから」
承諾の言葉を紡いでくれた。