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この第1話では、事故による後遺症のような症状について言及する場面が出てきます。
あくまで創作上の表現であり、実際の事件や人物について批判・中傷する意図はございません。
あらかじめご了承をよろしくお願いいたします。
更科千歳がモスグリーンのブレザーに手を通したとき、控えめなノックが聞こえてきた。応えると、やっと見慣れてきた女性がしずしずと頭を下げた。
「お早うございます、千歳様」
「……お早うございます、リヤンさん」
一礼して顔を上げた女性はまだ若く見える。二十代後半と言ったところだろうか。焦茶に見えて僅かに紅のかかった髪と瞳は、朝日を透かすとよりはっきりとその色合いが分かる。あっさりした装いは自称する『使用人』に相応しいが、相応しすぎてフィクションめいている、と何となく思う。
「窈様がお呼びです。応接室へいらして下さいとのこと」
「……学校は?」
軽く示したのは、学校の制服だ。まだ新しい匂いのするブレザーをなぞると、彼女の言葉に従うことに尚更躊躇いが強くなる。
現保護者こと窈の薦めのままに編入した私立高校は、この辺りではそこそこに有名な進学校だ、と後で聞いた。小中高に大学まで併設している共学校ということで、この地元ではそれなりに人気があるらしい。幸い、越してくる前に通っていた学校もそれなりのレベルだったので現在勉学でそれほど苦心はしていないが、身分は学生。体調不良でもないのに授業を後に回すのはいかがなものか。
「遅刻連絡はしておきました」
しかし、何でもないような口調でリヤンは言った。怒るよりも先に面食らう千歳を置いて、それ以上話すつもりはないらしいリヤンは一礼して踵を返した。
扉が閉まり、また一人になると、千歳は軽く頭を振った。
リヤンはどこか自分を厭っているようだが、それは慣れたことだ。そして、この家の主らしい窈の頼みを出来うる限り聞くというのは引き取られてきた時に承知したこと。学費も負担してくれている彼女が、学校よりも優先すべき事項があると言い出したのだから、受諾するのが道理というものなのだろうか。
何も問題ないようで、それなのにどうにも腑に落ちない。自分が置いて行かれているから気に入らないと言う意味ばかりでない。ないがしろにされているようで、どうも自分がこの家の中でしっかりと位置づけられていないような気配があって、それがあまりに落ち着かない。
しかし、落ち着かなくても、千歳は窈に会いに行かなければならない。もう一度着替えようかと迷ったが、結局そのまま部屋を出ることにした。
鬼無里窈の住まう屋敷は、日本人形のような主の容貌に関わらず、明らかに洋風であった。数代前の趣味だったの、と以前彼女は笑っていた。
間取りは、普通の住宅より少し大袈裟、といえばよいのだろうか。部屋の数は少ないゆえに覚えやすいが、その実、千歳が過去住んだどの家よりも空間は広くとってある。殊に応接室とリビングはゆったりと作られて、決して大きくはない家に余裕と風格を与えている。
そんな風に思いつつ、たどり着いた樫材の扉をノックする。すぐに澄んだ応えが返ってきた。
「どうぞ、千歳くん」
見た目の重厚さに似合わず、滑らかに扉は開く。
クリーム色のソファーに、窈は浅く掛けていた。その向かい、同じ作りのソファーには、一人の男性が掛けている。四十代に差し掛かったところだろうか、スーツ姿に慣れきったサラリーマンのようだ。黒縁の眼鏡の下の目が戸惑いがちに、窈と千歳の間を行き来している。
「彼は更科千歳くん。私の助手です」
唐突な紹介に、千歳本人は目を瞬いたが、男はいくらか安心したように、再びなのだろう、窈に視線を固定した。その直前の刹那に彼女から千歳に目配せがあったことには気づかなかったようだ。
――ごめん、後で。
その意味を受け取った千歳は、黙って窈の斜め後ろに立つことにした。
男は窈を見る目もどこか落ち着きがなかった。
「あなたが《獏》さんですよね」
「はい」
彼女は軽く頷いた後、ころころと笑った。
「あんまり頼りなさそうな小娘で、驚かれたでしょう?」
「あ、いえ、その…随分と、お若いので」
世間話に近い調子で進む二人の会話を聞きながら、千歳は《獏》と言う言葉を考える。
窈を指す言葉に違いなさそうだが、奇妙な呼びかけだ。だが窈が自分を助手と説明したことから、この男性は窈を職業者として訊ねてきた可能性が高い。つまり、《獏》とは何らかの職業を指す隠語に当たるのかも知れない。
そこまで考えたところで「さて」と窈が声を改めた。
「ご依頼ですね?」
「はあ、そうです」
少々薄まった髪に手をやり、男は頷いた。
「と言っても、お願いしたいのは私でなく、私の娘なんです」
「………窈、さん」
「呼び捨てで良いって言わなかった?」
やはりころころと笑う彼女に、千歳は軽く首を振る。
「…リヤンさんからは、駄目だって」
表だって言われたわけではないが、不敬です、とばかりに叱りつけるような視線を向けられては、千歳とて気づく。
「あらら…ごめんね? 彼女、悪い人じゃないんだけど、ちょっと人見知りが激しくて」
そう言う問題だろうか。否、今考え込むべきは其処ではないと息を吐く。
「窈、さっきの話って」
「信じられない?」
肯定しにくくはあったが、結局頷いた。
『人の記憶を夢に変える』。そんなことができるのだろうか。
「……人の記憶のシステムには記銘、保持、想起、再認の四つがある、というのは有名な話だよね?」
経験を覚える『記銘』、記憶を保つ『保持』、思い出す『想起』、覚えたものと想起した記憶を同じと判断する『再認』。そのシステムに聞き覚えのあった千歳は黙って頷いた。
「一方、夢は眠っているときに見るもの。夢は確かに現実じゃないけど、それに関する記憶はあるよね? 殆どの場合、起きたら例の四つのプロセスの何処かで障りが生じて、思い出せなくなるけど。つまり夢から記憶という経路をたどることはある。《獏》の仕事はそれを逆に辿る技術を使うことだと、私は理解しているの」
「……よく、わからない」
素直に白旗を揚げると、彼女は頷きを返した。
「うん、私も技術のノウハウは分かるけど、理屈を付けられるわけじゃない。何をやっているか、何故出来るのか、説明しろって言われても、無理なの。出来るものは出来る、としか言えない。どうして呼吸が出来るのか分からないように、ね?」
そういうものなのだろうか。
「納得できないかも知れないけど、うん、そのうち慣れるよ」
半擬のままの千歳の表情を汲み取って、窈は微笑んだが。
「……慣れる?」
きょとんと復唱する彼に、少女は表情を改める。
「さっき紹介した通り。助手を、お願いしたいの。依頼人と、対象が別人の時は、犯罪の口封じとか、違法なことに利用されたりする危険性がある。そんなことの片棒なんて担げないから、ざっと下調べする必要がある。それは依頼人にも、必ず了承を得ている手順だけれど」
「つまり、その調査を手伝えば良い?」
微笑んで窈は頷いた。
それなら、と千歳は頷きを返した。どれほど役立つかは不明だが、それは窈とて先刻承知だろう。
あの話を聞いた後に学校へ行く気もわかず、もう午後にもなってしまっていたため、千歳は近くの市立図書館へ向かった。
『アマサキ ミオ』――男が依頼したのは、彼女が遭ったという事故の記憶を夢に変えること。
あまり大きな事故ではなかったと男が言っていた通り、調べ当てた新聞記事は続報すらない小さなもので、インターネットで検索してヒットしたのも殆どそれと変わらない素っ気ないものだった。
――尼崎澪。女子中学一年生、事故当時十二歳。登校途中で車に跳ねられ意識不明。
『目を覚まさないんです』と男は言っていた。
『手術は成功して、もう身体は正常なはずなのに。担当医が言うには、跳ねられたという記憶のショックか何かの、心因的なものだとしか考えつかないと…そんなときに《獏》の噂を聞いて…』
「……《獏》、か」
本当だろうか、とは思う。記憶を夢のことと認識を変えさせることなど、まるで魔法の話を聞いているようだ。しかし、噂がある、そして窈が受け容れたということは、それなりの実績があるはずだ。
おかしな所に引き取られたものだ、と思う。まるきりフィクションの世界にしか思えないが、少なくとも男と窈は嘘を吐いていないようだった。
問題は、起こる現象が単なる思いこみなのか、本当に存在するものなのかということ。
「…こんがらがってきた」
自分が受け入れたのか否かわからなくなってきて、千歳は一時その思考を凍結した。
今考えるべきは依頼の内容の裏付けの取り方だ。
働かざるもの食うべからず。ギブアンドテイク。
うん、と一人頷いて、千歳は頭を切り換えて、いくつかキーワードを変えて検索を行ってみる。けれど結局殆ど収穫もないままに、午後は過ぎていった。