7
扉を叩くとすぐ、柔らかい少女の声が返ってきた。それに促されて中に入ると、窈は編み棒を片手に微笑していた。
「どうしたの?」
「窈は、布引緋色さんの願いを、叶えるんだよね」
少女は目を瞠った。
「千歳くんは、止めたいの?」
違うと言う意味を込めて首を振る。
緋色の願いを叶えることに、元から依存は無い。ただ。
「少し、怖い」
「どうして?」
柔らかな花弁のような声。本当に、姉のようだと、思う。
目を閉じて、開く。
「布引さんたちは――もしかしたら、心理的にはシャム双生児に近いじゃないかと思って」
だとしたら“食事”は分離手術につながるかもしれない。
もしかしたら、どちらも深く傷つけてしまうかもしれない。
こんな思いをするのは初めてで、どうしても立ち竦んでしまいそうで。
今までの怠惰と臆病のつけだろうか。
「……千歳くん」
「ごめん……弱音、だから」
どうしようもなくて、この優しい《獏》に縋ってしまった。本当は、どんなに持て余しても、己で処理すべきだったと、早くも小さく悔いていた。
「私も、怖いんだよ?」
「…………窈?」
少女は真顔で、彼を見据えていた。
「依頼の度、本当に大丈夫か不安になるよ。“食事”の時が特に怖い」
ああ、と千歳は得心する。
窈は人の記憶を消すのだ。人の生の欠片を奪うのは、確かにどんなにか重いだろう。
「だから、千歳くん。怖いのは悪いことでも、可笑しなことでもないの」
「…………そう、なの?」
窈は再び微笑し、頷いた。
「……そっか」
「むしろ私は、千歳くんが私に言ってくれて嬉しい。私は、千歳くんの家族なんだから」
「でも、窈も、怖いなら」
自分が吐き出してしまえば、彼女はもっと重く感じてしまうかもしれない。けれど、窈は微笑した。
「私は、君を引き取った時には、もう一人分の重さぐらい何とかすることは決めていたんだから。それに、一人ぐらいなら、誰かが頼ってくれるのは快いから。遠慮しないで」
甘えても良いのだと、そう言われたのは初めてで。
戸惑いためらい、それでもやっと、頷いた。
「人を縛るなら、過去も悪夢へつながる。それを除くのは《獏》の役目。
――君の怖さも私の怖さもあるけれど、もう少しだけ、一緒に頑張ろう?」
柔らかく、しかし何処か切ない調子を含んだ声に、今度はただ吸い寄せられて、同じ動作を繰り返した。
きっと、ファミリーレストランやファーストフード店は待ち合わせに向いているのだろうと千歳は思う。大体の場所と店名さえ告げれば、後は大概の場合目立つように作られている看板に従えば行き着けるし、店内は清潔で冷暖房完備、相手の位置も把握しやすい。弱冠店員の目が気になるくらいだろう。
「お待たせしました」
低めの、覚えのある声に顔を上げる。布引真白が、柔和に微笑していた。
軽く首を振って、どうぞと手で向かいの席を示す。会釈して座った彼に同じ動作を返して、改めて名乗る。
「《獏》の助手の、更科千歳です」
真白は数度瞬きをしてから再び笑んだ。
「布引真白です。……今日は、お…私にお話とか?」
「楽な話し方で結構です」
同い年ですし、と続けると、少し驚いたように、だが、ありがとうございますとだけ言って彼は向き直った。
「ひい…妹は、何を思って相談に伺ったのですか?」
「……聞いて、いないんですか?」
説得に理由は付きもののはずだ。案の定、首を振った。
「聞いてはいるんですが、俺には今ひとつ理解が出来ないんです。妹が大切なのは当たり前ですから」
そういって促すように千歳を見る。説明に慣れていないわけではないが得意なわけでもなく、思った通りたどたどしくなりながら口を動かす。
「妹さんは……自分がお兄さんの制限とか、枷になっているんじゃないか、と思っているようです。……昔、自分が代わりに怪我をした所為で、お兄さんは自分に対して負い目がある。だから…手を引いているべきだと思ってくれているけれど、そのためにいろいろなことを我慢して欲しくない、と」
「それを俺が望んでいるのに?」
少し――ほんの少し微笑に混じった、悲哀に似たもの。
千歳が驚きを見せなかった所為だろう、真白は声音に覚悟を混ぜて告げた。
「更科さん、俺はね、妹が大切なんです」
「妹さんも、あなたが大切だとおっしゃっていました」
「ありがとうございます」
「だから」
喉に絡んで、息すらしにくい。唇を噛む。
口にしたくはなかったけれど、気づいてしまったこと。
引き返すことは、言う前から無理だったのだろう。
何故なら、彼は知っていて、望んでいて、しかし苦しんでいたから。
「だからもう、緋色さんの手を、はなしてあげられませんか」
真白は驚くでもなく訝しむでもなく、逆上するでもなく。
「分かってたんですね」
疼きを押し殺したように、微笑した。
「どうして更科さんのほうが痛そうな顔をするんですか。痛いのは、俺ですよ」
「……ごめんなさい」
恥ずかしい。彼の痛みは、彼のものだ。先に彼が噛みしめるべきことだ。
「どうして分かったのかは訊きません。代わりに」
「……はい」
「俺のしたことは、ひいを追い詰めたと思いますか?」
千歳は勢いよく首を振った。
身中の口に入れるまでもなく、分かりきっていることだった。
「…………一気に解決しちゃったね」
布引真白相手の“食事”後、窈はソファに深く腰掛けて気が抜けたように呟いた。
「…どうやって説得したのか、訊いても良い?」
気遣わしげな言葉に、千歳は小さく頷いた。
「リヤンさんも気づいたと思うし、窈もそうかもしれないけど…本当は、逆だったんだ」
「二人の構図が?」
確認されて、やはりと思いながら頷く。
「正確に言えば、緋色さんが真白さんの制限になっていたのも本当。だけど、逆ベクトルの力のほうが強かった」
存在していたからこそ、緋色の話を自然に聞くことが出来た。けれど、実は真白のほうが緋色を抑えていた。
それに気づいた理由は、何となくと言うのが正しい。
敢えて言うなれば、緋色のあまりの凡庸さだろうか。真白のように優等生として輝いているわけでもなく、劣等生として際立つわけでもなく、ただ静かに陰に隠れてしまっているような、その存在感が気になった。
「千歳くんは、どうしてそんなことをしたんだと思ったの?」
「緋色さんを、守るためじゃないかと」
「後ろに庇って、手を引くためってこと?」
頭を振って、千歳は口を開いた。
「それもあった、と思う。だけど、だったら平凡に抑えなくても良い。……真白さんの代わりに緋色さんが怪我をしたのは、二人が入れ替わることが出来たから」
「……そういうこと?」
窈が気づいたように口元に手をやった。
入れ替わったのが要因だったならば、二度と入れ替われなくなれば良い。子どもが顔を変えるのはどうしたって無理があるのだから、すり替わってもすぐ分かってしまうほど、性格ひいては雰囲気を変えてしまえば。
「よく分からないけど、“兄”としていざというとき庇えるように、自分は頑張らなきゃっていう気持ちがあったと思うから、緋色さんを抑える方向にしたんだと、思う」
勝手だと、そのことは真白自身がよく分かっていたのだろう。緋色の性格を、意図的に形成したことに罪悪感がなかったわけがない。あの過保護には、そういう意味合いもあったのかもしれない。
「…でも、それは、もうとっくの昔に意味をなくしてた」
「やめられなかったんだね」
二卵性らしく、また男女の違いが顕著になってから、入れ替わりは殆ど不可能になった。けれど、窈の言う通り、止められなかった。妹に今更全てを言えないと思ったからかもしれないが、それこそ不明だ。
「……本当は、止めるきっかけが欲しかったのかもしれないね」
「…………そう、だといい」
彼らの傷が、せめて浅くあれば良い。
まじまじと題名を見ていると、第一図書館の蔵書も、当たり前だが貴書ばかりではないことに気づく。漫然と本棚を鑑賞していた千歳の後ろから遠慮のない腕が伸びてきた。
流石にぎょっとしたが、おそらくこんな行動をするのは級友だけだろうと思って振り向くと、果たして羽咋零の端正な顔が其処にあった。日に焼けた紺のハードカバーを一通りめくっていた彼は、外れだったのか再び本棚にそれを押し戻して、千歳を見る。
「そういえば、もう終わったの?」
「え」
「説得とやら」
覚えていたらしい。散々いじられれば当然かもしれないが、やはり意外だった。
「……説得らしいのは、してない。理詰めじゃ、なかったし」
「終わりはしたんだ」
素っ気無い確認に、俯いたまま頷く。
「なら良いんじゃないの」
「……え?」
「言葉に甘さがあって、穴もあった。だけど逃げられなかった」
きょとんとしている千歳ではなく、既に本棚に目を滑らせながら言う。
「それは相手が諦めただけのことだと思うけど」
そして今度は枯葉色のカバーの本を少々の間広げてから、当たりと判断したのかそれを持ったまま踵を返す。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
背中のままで返されたのは、やはり気のない言葉のようだったけれど、それでも、感じた心の浮上は確かなものだった。
帰宅すると、玄関に立っていたリヤンから白い封筒を手渡された。小ぶりで細い、女性の文字で『更科千歳様』と宛名してある。
心当たりがないまま裏へ返すと、同じ筆跡で『布引緋色』と署名されている。
「…………あの、リヤンさん、これ、窈宛てじゃ」
彼女は窈の名を知らないから、代わりに千歳に宛てたのではと考えたのだが、紅を帯びた女性は飾り気ない口調で返した。
「窈様は窈様で手紙を受け取る手段はございますし、布引緋色さんからの礼状も既に受け取っておられます。それは紛れもなく、千歳様宛のものかと」
そう言われれば確かに、かつて指輪と共に届けられた吉報と礼状は、迷いなく窈に開封されていた。どちらにせよ、リヤンの主張に嘘は無い。
釈然としないまま自室へ戻り、少しためらってからそれを開いた。
まずは《獏》たちにあてた感謝が述べられていた。だから千歳も自分の推測に嘘を感じなかったのだろう。
しかし二枚目に移ると、それは真に千歳宛のものだと分かった。
『処置の前日、兄は私にたくさんのことを話してくれました。少し面映く、それ以上に歯痒いというのが正直な感想でした。兄にそんな思いをさせて気づかなかった自分が悔しかったのです。
私たちはお互い独り善がりをしていただけだったのかもしれません。その結果、かなり遠回りしてしまいました。
更科さんは私の背を押してくれました。兄にきっかけを与えてくれました。深く感謝しています。
これからは、兄の手の中に私の手はありません。けれど歩いていけると思います』
ありがとうございました、と結んで手紙は終わっていた。
何が出来たとは、千歳は思っていない。お礼を言われるようなことは、何も。
けれど真白はもう歪める必要はないと、緋色と一緒に、前向きな気持ちでいるようだと。
それはとても嬉しいことだと、自然に微笑んでいた。