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とりあえずは、接触しやすい方から。
そう決めた千歳は、今度は前使ったファミリーレストランに布引緋色を呼び出した。あまり待たせないような時間に指定はしたが、そこなら待っても寒い思いはしなくて済むだろうということで決めたのである。
果たして千歳が現れた時、約束の時間より十五分ほど前だったが、既に緋色は奥まった席で所在無さげに座っていた。
「……お待たせしました」
「大丈夫です」
ぺこりと頭を下げた彼女の前には、カプチーノのカップが湯気を立てていた。嫌な客だろうな、と少々店に申し訳なく思いつつ、ウェイトレスが置いていった水だけ飲むことを千歳は決めた。
「すみません、何度も」
「気にしないで下さい。……あ、この間は突然失礼しました。話したら、兄が是非挨拶に、と」
「こちらこそ、不在で失礼しました」
ひとしきり頭を下げあうという、傍からは非常に怪しいやり取りを行ってから、千歳は淡く微笑した。
「お兄さんと、仲が良いんですね」
「何か、そうみたいです。……うちではあれが普通、だったので。友達にはブラコンとか言われるんですけど」
「でも、兄弟が居るって良いですね」
控えめに、照れたように笑う少女に、素直な気持ちで言う。
仲の悪い兄弟姉妹の存在を知らないわけではない。ただ、寄り添おうと思えば傍に居るということが、少し羨ましい。
だが、緋色は軽く首を傾げた。
「……どうか、しました?」
「あ、いえ……《獏》さんと更科さんはご姉弟だとてっきり思ってました」
今度は千歳がきょとんとする番であった。
「……似ていますか?」
「そういうわけじゃないんですけど、なんだか一緒に住んでらっしゃるみたいだったので」
「……ああ」
なるほど、そういう風にも見えるのかと千歳は納得した。現に、書類上でも、血縁関係が殆どないことを考えなければ実質上でも、似たような関係ではある。
「確かに、《獏》は僕の保護者ではある人です。……天涯孤独、みたいなものなので」
「あ、ごめんなさい」
ふるりと首を振って、気にしないよう示す。……事実、あまり気にしていない。麻痺が随分解けた今もなお、親類と呼べる人々に対しての感情はしびれたままのようだから。
今の千歳の帰る場所はあの家だから、解けてもさして影響ないのだろうとも思う。
「妙な話をして、すみません。本題に移しますね」
「は、はい」
緋色は背筋を正したが、少しほっとしたようでもあった。無理もないのだろう。あまり愉快ではない話題に傾いてしまったのだ。
千歳は心中で反省しつつ、続ける。
「今回の……お兄さんから離れようと思ったことに、きっかけはありますか?」
「……いつまでもこのままじゃ、って思ったのは、兄のことを好きな人が居ると聞いたときでした。6月くらいですね」
千歳は布引真白を思い出す。何でもそつなくこなせるという妹の言と、好青年そのものの態度。異性に好感以上の興味を持たれても不自然ではないのだろう。千歳は同性なので推測の域を出ようはずもないが。
「前から、兄が私に過保護なのは知っていましたけど……その話を聞いたとき、思ったんです。兄が誰かと付き合ったとして、でも私ばかり構っていたらその人に悪いんじゃないか、って。恋をすれば兄だって私よりその人を大切にするでしょうけど……」
「だからと言って、普通よりずっと妹を可愛がるという点に変化が現れるかは怪しい、と?」
千歳が後を引き取ると、緋色は小さく頷いた。
「兄に甘えて生きていけば、きっと簡単なんだと思います。だけど、それじゃあ兄を潰してしまいます。私は本当に弱くて心配ばかりさせてしまうけれど」
「……大丈夫です」
肩を強張らせて俯く少女に、千歳の呟きは零れる。顔を上げた緋色の目に促されて、彼は心の中の『何となく』を言葉に直していく。
「一人で立つ覚悟があるなら耐えられると、思います」
目を大きく瞠った緋色がそのままぽかんとしているのが分かって、千歳は浅く息を吐いた。
「……すみません。何となく思ったことをそのまま話すなって、よく叱られるんですけど」
主にリヤンやら羽咋零やらに。
「またつい、変なことを」
「へ、変じゃないです!」
緋色の声に力がこもっていると分かり、今度は千歳が目を見開いた。それに気づくと我に返ったように彼女は再び下を向いて、話す。
「その……兄離れをすると言うと、大体『本当に大丈夫なの?』みたいなことを言われたので、第一声で保証されたのは……初めてで」
俯いて、小さくなって話す姿は、確かに強そうには見えない。けれど、一人で立つと決意したところは、千歳から見れば眩しいほど強い。流されて生きてきた、彼からは。
「ちょっと感激しちゃって、その……ありがとうございました」
「…………いえ、何となく、でしたから」
窈の言葉を思い出しながらも、あくまで首を振った。流石に千歳でも、未来の真偽までは分からない。それこそ、あの幼い悪魔でもない限り。
「もう一つ……聞いても良いですか? ……お兄さんは、昔の負い目があるからこそ、今に至ってもあなたを庇護しようとしていると、そういうことですよね?」
緋色が戸惑い気味に頷くのを見て、千歳は少し考え込む。
それだけなのかと自問すれば、心の深奥が否と返す。
「……ごめんなさい」
「え?」
「……気にしないで下さい」
気遣わしげな少女の視線をかわす。
この異能は、人の心の底までも見通してしまうから。それを分かっていて、今使ってしまったから。謝罪も自己満足にしかならない、身勝手な意思。
本当に――矛盾ばかりだ。
「最後に、聞かせてください」
反省は後でもできると千歳は小さく頭を振って続ける。
「あなたは、傷のことを気にしていますか?」
「いいえ」
その答えに嘘はないから、千歳は微かに頷き返した。
「双子の片割れさんのほうに聞いてみたんだけどね」
いつものように唐突に現れた槐夕夜はいきなりそう切り出した。
「核心だけ取り出すと、『腹立たしいけど完全に他人と思えない』という感じ」
「……他人?」
「ほら、よく言うじゃない、『親兄弟も所詮は他人』みたいなことを。だけど、『自分とは違う人』という認識が他よりは薄いんだって。あんまり鏡みたいだから、って」
千歳は目を見開いた。何となく、布引兄妹に感じたことと似ている。
「繰り返しみたいですけど……鏡だから、薄いんですか?」
「鏡に映っているのは自分だろう?」
何処までも深い漆黒の瞳が悪戯っぽく回った。
「鏡像は光の集成でしかないけれど、自己認識の道具でもある。意識の中で、鏡像と自己は限りなくイコールに近くなる。境目が曖昧になるんだと思うよ」
「……なるほど」
ぼやけた境界面。つながり続ける他人。
「じゃあ自分に対するような態度になるのか、と聞いたらそれは多分違うって」
「それでも“自分とは違う人”だから……?」
己とは異なる人間に、己のように接することは出来ない。
それが、自己愛者との違い。
「…………絡まってきました」
「人の心だもの。複雑で矛盾したり絡み合ったりする。…他人の心は簡単には分からないし、全て分かるべきでもないと思う」
少女の意見は常の軽やかさと外見の可憐さに似合わない、冷めたものだったが、千歳は頷いた。深層部分とも言うけれど、誰にだって踏み込まれてはいけない領域はあると思うのだ。
誰の心の奥にも眠っている“何か”が居る。化け物とは限らないけれど、それほど心は重い。
「何をしようとしているかは分からないけれど――参考にあまりならなかったかな」
「いえ…ありがとうございます」
「必要であればGoose-Egg君にも相談してご覧。彼も意外と君を気に入っているようでもあるから」
「…そう、ですか?」
羽咋零が事務的なもの以外でまともに会話をしている人間は槐夕夜と司書、自分くらいしか知らないが、他にも居るのだろう。そして千歳は会話自体あまりしないのに。
「気難しいからね、彼は。有体に言えば、気に入っていない人間の存在を覚えようとはしない。つまり、会話が成り立つこと自体が彼の中での価値を示しているんじゃないかな。……僕は別だけど。嫌われているし」
「……そうですか?」
「いじめ過ぎちゃった」
冗談っぽく笑う少女に、後悔など見えない。きょとんとしていると、夕夜は笑みの質を変えた。
「彼の助けになれたらな、とは思っていたんだ。……何となく、小さい頃の僕に通じるところがあるから」
「……え」
「自分の世界の狭さを知っていて、自分の内側を信じられなくて、何とかしたくて、でももがく力すら無かった頃の」
千歳にも向けられているような錯覚に、目前の少女が黄昏に霞んだように見えるくらいの軽い目眩がした。
彼女はその華奢な身体に、どれだけの歴史を刻んでいるのだろうか。
「だから何とかしたかった。……でも駄目だね、僕は彼の殻をつつくのではなくて、破る促しを乗せた声で呼ぶべきだったのかも」
言う声にも表情にも、自嘲は無い。ただ、穏やかだった。
「諦めたんですか?」
「託したのさ」
純粋な疑問に、純粋な応えが返る。
「“卵”のスペシャリストと言えば、優しい“鳥”に決まっているからね」
その例えは分からなかったけれど。
重い“何か”を眠らせた少女は、にこりと再び明るく微笑した。
「で、殆ど拒絶で生きてきた彼を思えば、君とは相性良さそうだと思う。……君はもう少し、拒絶しても良いんだよ?」
「…よく、分かりません」
受け容れて、流されて、そればかりではやがて破綻することくらいは分かっていた。
それでも、拒むことが分からない。その意を汲んだらしき彼女は頷いた。
「譲れないものを見つけましょう、ってことかな」
「……それなら」
出来るかもしれないと思う。
そういうものにしたい存在が、出来たから。
どうぞ、と帰るなり渡された紙の束に、思わず千歳は目を瞬かせた。
「布引さんご兄妹の資料です」
「……そうですか」
何処から持ってきたのか。個人情報保護法に引っかからないのだろうか。
色々と疑問はあったが、一応正規ルートを辿っているはずなので、ただ受け取った。
「客観的データしかありませんが、材料の一つにはなるでしょう。……確かに、なかなかおかしなご兄妹ですね」
「そう、ですか?」
「緋色さんについてはどのデータをとっても『可もなく不可もない』程度、ですが真白さんについては殆どのデータで平均よりかなり良いという結果です。……ここまで極端だと」
言いさして、リヤンは口を噤んだ。きょとんと彼女の紅い瞳を見上げるが、彼女は首を振った。
「……いえ、中傷にしか、なりそうもありませんから」
「そうですか……」
リヤンの言いたかったことは、多分。