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仄暗い灰色の空が頭上を覆っているのを見ながら、冷たい空気を肩に負って歩いていく。寒さの違いは感じにくいような気がしても、白の気配が薄いのには淋しさを覚える。あそこまで降るのを毎年見ていれば、今更雪に対する幻想も無いが、冬の欠片が零れ落ちたような気になってしまう。
数回頭を振って、解けかけていたマフラーを巻きなおす。もう後は殆ど門をくぐるだけの、自動車も自転車も滅多に通らない細い路地に入っていたものの、前方を疎かにするのが危ないことには変わりない。
その時、《獏》の家の小さな金属製の門から、二つの濃紺色の人影が出てきたのを見つけ、思わず立ち止まる。礼儀正しく門を閉めた小さいほうの影の、首に巻かれた鮮やかな緋には覚えがあった。彼女――布引緋色も千歳に気づき、弾かれたように頭を下げる。
「こ、こんにちは」
「こんにちは……」
頭を下げ返して、彼女の横に視線をずらす。困惑した様子を見せている白いマフラーの少年は、すると。
「ひい、どちら様?」
「えっと……《獏》の助手さんで」
「更科です」
寒い中フルネームのことで云々論議するのも何かと思い、名字だけを名乗る。
「更科さん、兄の真白です」
「初めまして」
向けられたのは、好感の持てる爽やかな笑顔だった。同じ言葉とお辞儀を返しながら、千歳は先刻の推測の正しさを確かめる。
布引真白は、社交的な優等生とでも言えば良いのだろうか。決して派手ではないが、緋色とは対極の華やかさの持ち主だった。身長は千歳よりも十センチ近くは高いだろうし、身体つきも均整が取れていて、顔には好感の持てる親しみやすさと、嫌味にならない知的な色が滲んでいる。大人びているとも言い換えられるだろう。多分千歳と並べれば殆どの人が同年齢と思わないはずだ。
――カストルとポリュデウケス。
先程の夕夜の声が蘇る。対概念の、双子。
「…………どうか?」
「あ……すみません」
傍から見れば焦点があっていなかったのだろう、気遣わしげな声にはっと我に返る。
「すみません、寒い中引き止めてしまって」
「え……いえ」
「あ、ごめんなさい」
緋色が慌てた様子で頭を下げるが、軽く手を振って大丈夫と示す。ほっとしたように口元を緩めた彼女のマフラーを、真白は自然な様子で巻きなおした。
「ほら、ひいも温かくしないと風邪引くぞ」
「ありがとう、兄さん。でも大丈夫だから」
「温かくすることに越したことは無いだろ? ……では更科さん、失礼します」
人前で甘やかされたのを恥ずかしがるような緋色にきっぱりと言った後、真白は千歳に会釈した。妹の方も、さよならと三度頭を下げて、去って行った。
「……堂に入ってた、ね」
「そうだね……堂に入ってた」
窈の部屋で向き合って緑茶を啜りながら、二人は頷きあった。
勿論、布引真白のことである。確かに緋色自身が評したように妹に甘く、しかも不自然でない程度の庇護だ。年季が入っている。
「いきなり、だったの?」
さすがに窈のほうからの申し入れだったら千歳に一言ぐらいはあったはずだ。布引兄妹のほうから、殆ど突然に、現れたのだろうという予想は当たっていたらしい、窈は肩を竦めた。
「挨拶だったから、失礼とは感じなかったけど。うん、むしろ感じの良い人だった」
「千歳様にもお知らせしようと思いましたが、電話が繋がらず」
「……学校に居たので」
リヤンの素っ気無い声音に、困ったような声が出てしまう。学校の中ではおおっぴらに携帯電話を使うことは出来ないし、そもそも電波状況が非常に悪い。ゆえに仕方ないことではあるが、割と雑談に近いものもしていたことを考えると、やはり申し訳ない。
「気にしないで、千歳くん。……うん、感じの良い人だったけど、やっぱり説得は難しそうかな、とも思った。意志が強い……もっと有体に言っちゃえば、頑固な人みたいだから。面と向かっては何も言われていないけど」
「そうですね、基本的には挨拶と迷惑を掛けることへの謝罪でしたが、節々にそのようなところが見受けられました」
千歳が見た限りでも、言動は柔らかだったが、あくまで怯むところは無く、妹を自然に労わり続けていた。
「千歳くんは、何か気づいたことはあった?」
一人頷こうとしていた彼は不意に話を振られて、思わず目を瞬かせた。
「えっと、何となく『二人で一人』な感じがする」
ぽろりと零すと、窈とリヤンは予想外だというようにきょとんと顔を見合わせた。慌てて、夕夜の話を端折って説明する。
「なるほど……ね」
「それで千歳様は、あのご兄妹は分離の感覚が薄いと?」
「何となく、ですけど」
布引真白は、おそらくその妹が形容したように、千歳が思ったように、社交的な優等生なのだろう。対して布引緋色は、内気で何をやってもぱっとしないと自分で言っている。多少の謙遜を差し引いても、あまりにも対照的だ。
「表と裏、っていう印象があって……」
「確かに、極端な感じの双子だよね。そっか……足して二で割ったら平均になるって感じがするからこそ、か」
「ぱっと見ただけだから、単なる印象だけど」
「でも、千歳くんの『何となく』はよく当たるから……リヤン、お二人のこと、調べられる?」
「無論です」
基本的にリヤンは窈に忠実だ。“調べる”ことがことだけに、何処までプライバシーという観念が働くかは謎だが、きっと大丈夫ということにしておこうと千歳は決めた。
「千歳くんは、何かに気がついたら言ってね。緋色さんか真白さんか、どちらかに……出来れば両方に、接触してくれるとありがたいかな」
「……何か、知りたいの?」
「とりあえず、緋色さんが兄離れをしようと思ったきっかけとか、真白さんが妹さんを過保護にするのは本当に傷の所為なのか、とか。千歳くん自身に疑問があれば、それも追加して」
了承を込めて頷くと、窈は柔らかに微笑した。
「じゃあリヤン、晩御飯にしましょう」
「千歳くんは、随分しっかりしてきたよね」
明日の授業の予習をしに自室へ戻った千歳が閉めていった扉を見ながら窈は傍らの使用人に呟いた。
「今ひとつ不安定で、相変わらず頼りない様子でいらっしゃいますが」
「もう…リヤンってば」
彼女こそ相変わらず彼への評価が厳しすぎると窈は溜息を吐くが、本人は澄ました顔で手を休めず続ける。
「素直で穏やかなお人柄はよろしいのですが、いかんせん、あの緩急の激しさが危うく感じられるのです」
勘の良さも、それを持て余さない聡さも千歳に備わっているのは、前の二件で判明した。だがどうも、普段がのんびりしているように見える所為か、鋭さは唐突にしかならない。アクセルが急に踏まれる様子は、見ている側からすれば危なっかしくて仕方ないのだ。
「あるがまま為されるがままという色が薄くなったのは良い傾向かと、確かに私も存じていますが」
だが結局主に甘いリヤンは、千歳の良い変化の部分でとめる。そんなことをしても、窈の瞳の奥にある根源的な曇りは晴れないと、分かっていながら。
「そう、だね……千歳くんは今まで、流されることで生きていたから……」
白黒の世界に置き去りにされ、棘を幾度となく投げつけられ、それでも身を委ねて生きていた、真実の子ども。
「良い友達が、出来たみたいよ」
「きっかけは窈様です」
「……私は、何もしてあげられていないよ」
少女は、目を伏せる。
「折角家族になれたのに……むしろ私は、奪ってしまうのかもしれない。奪うことになるのを、彼が奪われたと感じることを、望んでしまってる」
「……それは、ごく自然なことです、窈様」
「ありがとう……ごめんね、リヤン」
窈は、自分の肩に労わるように乗せられた手に片手を重ねる。
「奪うよりも多くを、与えられればいいのに」
零れた少女の呟きは、忠実な使用人の耳だけに留まった。