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翌日、放課後のこと。千歳も随分余裕を持って到着したつもりだったが、布引緋色は既にその場所に佇んでいた。学校指定のものなのだろう、紺色のハーフコートで上半身が隠れているため、見ただけでは何処の生徒か分からず、緋色自身も目立つ容姿ではない。ゆえに、待ち合わせ場所に定めた駅前の時計台の傍で彼女がきちんと立っていなければ分からなかったかもしれない。振り返ったときにはためくほどの長さを余らせた、持ち主の名と同じ色を持つマフラーだけが、唯一鮮やかだった。
「お待たせしてすみません」
「いえ、あの……そんなに長く待っていたわけじゃないですから」
口ではそう言っているが、頬が赤らんでいる。急がせないよう放課後少し余裕をもって指定したのだが、どうも裏目に出たらしい。
だが千歳は特に重ねず、首を少し傾けた。
「此処は寒いですし、何処かに入りましょう」
緋色は頷いたが、越してきてやっと二ヶ月の千歳はこの界隈に詳しくない。廻らせた視界に入ってきたファミリーレストランに結局落ち着いた。
営業スマイルの店員が去ると、緋色は少々緊張した面持ちで千歳を見た。
「あの……それで、何を話せば良いでしょうか」
「出来れば、《獏》を訪れたきっかけ、とかを」
彼女が首を傾げたので、『食事』には彼女の兄の同意が必要だということをざっと話す。意外なことに、緋色は落胆を見せなかった。むしろ、必要に応じて彼女の助力もお願いするかもしれないと続けると恐縮さえした。
「いえ、元は私が頼んだことですし……そうですね、説得には経緯が必要ですものね」
数度頷いた彼女は、少し深く息を吸い込んで話し出した。
「私と兄は双子です。私は何をとっても地味ですし、気も弱いんですけど、兄は何でもそつなくこなせて、明るくて優しい、自慢の兄、なんです」
言いきる声には張りがある。素直に好ましく思った。今の千歳にはあの家があるけれど、反面家族といえる血縁はもう居ないので、彼女の態度には好感を覚える。
「そんな風に性格も違うし、今では顔も全然似てないんですけど、子どもの頃はそうでもなくて。服を取り替えて、よくお互いのフリをして遊んでたんです。お互いの癖や振る舞い方はよく知ってるので、時と場合によっては両親だって騙せるぐらいでした」
悪意の無い遊びだ。言い換えれば悪戯だが、それにしても本当に他愛無い類のものだ。
「私が怪我をした日も、そうでした。私と兄は入れ替わって、近所の子たちと遊んでたんです。皆全然気づかなかったと思います。……でも、その前の日、兄はその中の一人と、トラブルを起こした、って言えば良いんでしょうか。その子を怒らせてたみたいで。私も兄も、癇癪を起こしてもすぐに忘れてしまう性質でしたから、子どもの頭ではまだその子が怒ってるなんて、全然考えてなくって。……そうしたら、その日、その子が“真白”に向かって石を投げたんです」
「…………え」
子どもとはいえ、緋色がこれだけ鮮明に覚えていることからして、分別はつき始める年だったのだろう。石を投げるのはさすがにやりすぎだと思わざるを得ない。
「当然の如く、それは私に当たって――例の傷になったんです。場所が場所でしたからたくさん血が出ましたし、念のために検査だなんだって、結構大騒ぎになってしまって。私が“緋色”だったから、また話がややこしくなったんです」
ああ、と千歳は何となく呑み込めた。
当たったのが本当に真白だったなら、多分石を投げた子どもだけが怒られただろう。けれど怪我をしたのは緋色だったから、真白も責められたのかもしれない。もしくは、幼いながら重く責任を感じたのかもしれない。自分の代わりに怪我をした、という意識が育ってしまっても仕方ないことだろう。
以来、勿論二度と入れ替わることはなく、さらに長ずるに従って、どんどん布引真白は妹に対して過保護になっていったと、彼女は続ける。
「傷痕は薄いですし、私は兄の所為だとは思いません。今までは――やっぱり、甘えていました。でも、このままじゃきっと駄目なんです。いつまでも一緒に居られるわけではありませんし、それじゃいけないんです」
「そう言ってお兄さんを説得なさったんですか?」
「はい。でも何だかんだ言っていつもかわされてしまって……そういうときに《獏》の噂を聞いて」
小さく頷いた千歳は残りを飲み干す。反面、まだ緋色のカップには半分以上中身が残っていた。それで手持ち無沙汰になってしまった彼に気づいたのだろう、彼女は暫くの沈黙の後、おずおずと問い掛けた。
「すごく、個人的な興味なんですけど、良いですか?」
「はい?」
「その制服、清林の高等部の、ですよね?」
「はい、一年生です」
「あ、同い年なんですね」
千歳も思い至る。彼女の年齢は聞いていたが、何故か自分と同学年だということに気づかなかった。だからとろい鈍いと表現されてしまうのかもしれない。
「失礼な質問かもしれないんですけど……本名ですか?」
「ああ……確かに、似合わないとよく言われますけど、本名です」
サラシナチトセという響きだけを追うと、清音ばかりである上、特に名前だけをピックアップすると女性名寄りであるために、妙に可憐そうな代物に仕上がっている。これでごつい大男だったら喜劇的だったところだ。
一方の緋色はわたわたと言い添えた。
「そうじゃなくて、あの、《獏》は名乗らない、みたいなことを聞いていたので、助手の方も偽名なのかと、つい」
「……ああ、なるほど」
そう考えても無理は無い。だが窈自ら千歳を本名で紹介したのだから、多分彼には関係の無い掟なのだろう。
鞄をまさぐって、テーブルの上に学生証を置く。千歳の通う高校のそれは、生徒手帳ではなくIDカードだ。顔写真と共にきちんと『更科千歳』とフリガナまでつけて印刷してある。それを確認すると、緋色はすぐに「すみませんでした」と言って返した。
「何か、疑うみたいにしてすみません」
「気にしてませんから」
「で、でも、私はとても綺麗な名前だと思います」
「ありがとう、ございます」
綺麗な響きだからこそ似合わないのではと思うが、少し照れたように俯いた少女を見ている限り、素直に褒めてくれたのだと分かる。人を真正面から発作的に褒めてしまったからこそ、恥ずかしがっているのだろうから。
皆が気持ちよく呼んでくれるなら、ずっとどうでもよかった名前も少しは好きになれそうだとも、最近思うようになった。自分が生きている間にどれほどの願いを受け止められるかを考えれば、やはり少しだけ放棄したくなる名でもあるが。
「本当、関係ない質問ばかりしちゃいましたね」
彼女の声に、はっと我に返る。申し訳無さそうな様子を見せる彼女に首を振って答えて、立ち上がった。
「男女の双子、ねえ。一応知り合いに一組いるけど」
駄目で元々、というくらいのつもりで問いかけてみると、意外なことに思い至る節があったのか、槐夕夜はことんと首を傾げた。
「でも、ちょっと変わってるからね、あの人たち」
「……先輩以上に?」
零が皮肉っぽい口調で言うが、自分の部分は特に否定せず、少女は苦笑した。
「いや、あの人たちはね……色々、次元が違うから」
「先輩に言われるとはお仕舞いだね」
「これからも続いていく人たちだろうけれどね」
不思議なことを言ったが、千歳たちに説明する気はないようで、夕夜は軽く首を傾げながら一見関係なさそうなことを切り出した。
「双子で連想するのは?」
「一卵性、二卵性、シャム双生児にバニシング・ツインズ。……ぱっと思いつくのはこれくらい」
怪訝な顔をしながらもすらすらと零は並べ立てる。発生の違いを分ける一卵性と二卵性、シャム双生児は身体の一部が結合して生まれたこどものことだと分かるが。
「バ……何?」
「Vanishing Twins。子宮の中で双子の一方が死んでしまったとき、もう一方に吸収される現象のことだね」
夕夜が綺麗な発音と共に補足してくれた。相変わらず知識が広いのか偏っているのか分からない二人である。だが、呆れるか感心するかを千歳が決めかねているうちに、黒い瞳が彼に向けられた。あまり多くを思いついていなかったため、些か焦って口に出す。
「双子座、とか」
今朝出がけの新聞の欄を思い出し、何の気なしに呟いたのに、少女はわが意を得たりとばかりにこりと笑った。
「それじゃあ、双子座の由来たる神話を知っているかい?」
「えっと……神の身体をもつ一方が、人間の片割れが死んだから一緒に天球へ上げてもらった……でしたっけ」
唐突な話題展開に少々面食らいながら答えると、少女は頷いた。
「そのカストルとポリュデウケスのように、往々にして、双子とは物語上で対のモチーフになるよね」
「あ、そう、ですね」
「現実的には性格が違うぐらいなのが普通、割と自我がはっきりしない双子だと殆ど同じ性格になるらしいのに。うん、興味深い」
「対にしたがるからじゃないの。阿吽像みたいなもの。似ている分、違いを顕著に出したくて対に仕立てるんじゃない」
羽咋零の口調は常より強く、しかも挑戦的だった。本当に天敵なのだと思う一方、口には出さなかったけれど、これほど長く会話が成立する分仲が良いように見えなくもない。
そうかもしれないね、と後輩の口調を夕夜はさらりと流した。
「で、もう一つ面白いのは『優劣』の特性がついている場合の『劣』に分類される方の扱いだね」
「……神に対する、人間?」
「そう、何処までも双子は対のままだって言うのが面白い。ポリュデウケスは不死の英雄なのに、死したカストルと共に行くのを選んだ。『劣』に分類されても、『優』の片割れに対する影響が多い例は意外とある。共依存、とは少し違うな、対であってこそのアイデンティティ、が近いか。双子は得てしてそういうモチーフとされるみたい。……それが少し、僕の知る双子にあてはまるんだよ。縁が強いんだ」
話が唐突に戻ってきたが、彼女としては自然な運びだったらしい、淀みなく続く。
「まあ、全てがそうとは限らないわけだけど、それでもほぼ同時に生まれたというだけで特別な愛着があっても可笑しくないとは言えると思う。それこそ、生まれながらの片割れという意識があるのだろうし」
少女は区切るように手にしていた本を閉じた。千歳の混乱を見透かしたように、名を呼ぶ。
「千歳君。君は素直だけど、時には遮断しないといつか呑み込まれてしまうよ」
目は笑むように細められているが、その漆黒に眩みそうな錯覚を覚える。
「……なら何で一度にそれだけの情報量与えるのさ、先輩」
呆れたような零の言葉でやっと意識が逸れる。だが、少女はそれはそれで楽しいらしく目を細めたままだった。
「単に僕のことが嫌いだから食って掛かることが出来るなら何でも良いと取るべきところだろうけれど」
「それ以外の理由が見出せるの?」
「いや、君は大概の人間に興味ないくせに人を利害で判断しないなって思ってね」
「……まともな会話する気あるわけ?」
零の言葉は辛辣過ぎるが、分からなくも無い。やはり彼女の思考回路を読むのは無理らしかった。
「でも僕は割とまともな部類だよ。その双子さんなんかどっちも理屈と膏薬は何処でもつくを地で行く人たちだもの。僕は常識あるほうだし、知ってて無視するなんてあまりしないよ?」
羽咋零はそれは複雑な顔をした。何しろ史上最悪の不登校児がこの発言である。だが本人は真剣そのものだ。
「僕は基本的に、無茶を通して道理を引っ込めさせるようなことは出来ないから」
「そう、ですね」
槐夕夜は色々と規格外の人物であるが、ついでにやはり変人ではあるが、あまり無茶な道理を押し通したりはしないようだった。
「千歳君は本当に素直だね」
よしよし、と機嫌を良くしたらしい彼女に頭を撫でられる。しかし、こうなるといくら千歳が年齢にしては貧弱な体格とは言え、夕夜の方は輪が掛かっているわけだ。
「……何か、微笑ましい…」
「本当だよね」
思わず感想を漏らすと、零が皮肉っぽく同意する。一応小柄な千歳の頭を撫でるためには、更に小柄な少女にとっては背伸びが必要になるのである。
「……男性は女性より基本的に背丈が高いだろう」
「先輩の背の低さじゃ既に男女差は関係ない気がするけど」
数少ないコンプレックスらしく、珍しく彼女はこちらに視線を向けない。それでも容赦の無い零だった。
「この場合背伸びしなきゃいけないのは男女差の問題だよ」
「更科くらいの背なら結構な数の女子高生が背伸びいらずで頭に手を伸ばせると思うけどね」
「Goose-Egg君だって千歳君と五センチぐらいしか変わらないじゃない」
「その違いは大きいよ」
不敵な口調ではあったが、思わず千歳は横から呟く。
「……さり気なく、気にしてる?」
「……………………更科」
「ごめんなさい……」
険しい声で呼ばれて、萎れた謝罪を返す。何故普段は足りないぐらいに言葉が出ないのに、こう余計なことは零れてしまうのか。
「やっぱり千歳君は素直で、それでいて鋭いよね」
けれど、少女は明らかに正の感情を込めて評する。
「相手に誤魔化すことを教えないことは、説得の才能よりずっと貴重だよ」
「そんなこと……」
そもそも、そんな才が自分にあるとは思えない。元依頼人の少女にも誠実だと言われたことはあるが、それは臆病ゆえだ。
「更科は先輩みたいに局所的な擦れ方してないから」
しかし零からも同意するような言葉が発せられた。
「ある意味子どもと一緒。会話慣れしてないみたいだから、他人の言動にいちいちちゃんと注目するんじゃないの?」
「Goose-Egg君とちゃんと交流できてる辺り、毒舌スルー能力は備わってるみたいだけどね」
零の言葉にはある程度納得出来る。あまり他人と積極的に話したことはなかったので、確かに物珍しい。反面、きつい言葉には耐性がある。だからこそ。
「でも、羽咋くんはきつくないですよ。刺々してるけど、悪意はあんまり無いから……」
訝しそうに見られながらも、告げる。
刃に似た鋭さを本人は持っているけれど、だからこそ悪意が無いのに傷つけるほどなまくらではないはずだ。
零が何とも言えない表情で押し黙り、千歳がきょとんとしていると、唐突に夕夜は口を覆って細い肩を震わせた。
「……槐先輩」
「いや……ごめん……」
憮然とした零の横で、少女はくぐもった笑い声を噛み殺していた。
「笑うところ?」
「ごめんってば……だって、千歳君、硝子ちゃんと同じこと言うんだもの。なるほどなるほど、Goose-Egg君と普通に会話できるわけだ」
「中市先輩を引き合いに出さないでくれる?」
「ごめんごめん。いやあ、君は案外と引きが強いんじゃないかな、Goose-Egg君」
引き合いに出されている女子生徒らしき人物を知らない千歳は訳も分からず二人を見ていたが、不機嫌の絶頂にいるらしい零は「気にしなくて良いよ」と言い放った。
「で、先輩、いつまで笑ってる気?」
「そうだね、そろそろ下校時間だし、帰らなきゃ。……今度会うまでに双子ってどんな感じかって訊いとくよ。どうせ『腹立たしい』がメインなんだろうけど」
「……仲、悪いんですか?」
「ううん、お兄さんの方は妹さんを溺愛、妹さんはお兄さんがとても嫌い」
「変な双子」
「だからそう言っただろう?」
零の言葉ににやりと笑った少女は言う。
「あの様子を見ていると、つくづくシスター・コンプレックスの気がある兄弟もちの女性は迂闊に引っ掛けちゃいけないって思うね。ま、Goose-Egg君には今のところ要らぬ心配だし、千歳君にもお節介な忠告だと思うけど」
「先輩」
零がぎろりと睨めつける。怖い怖い、と肩を竦める少女だったが、千歳に向けられた部分は、彼自身納得出来る。色恋沙汰に興味も縁も無いのは自覚していたからだった。しかし少女は言葉を切っただけだったらしい、すぐに続けた。
「千歳君みたいに素直な子は、一歩間違えると敬遠されちゃうこともあるし、逆に無自覚で誑し込んじゃうこともあるから、一応ね」
「…………誑し込む……」
絶対に無理だと思う。が、少女はあくまで愉悦を含む。
「いや、Goose-Egg君を随分ならしてる辺りとかを考えるとあながちありえないとは言えないんじゃない?」
「……人を動物みたいな表現しないでくれる」
「野良猫……」
「本当君は君でいつまで引き摺る気なのさ」
口中で呟いた言葉は耳聡く拾われ、睨まれた。確かに此処三ヶ月、一ヶ月に一回はこの発言をしている気がする。
「おやGoose-Egg君、猫は嫌いかい?」
「人間よりは好きだけど。でも、好みかどうかと例えられて嬉しいかどうかは別だよ」
顔は顰めているが、嫌がっているのかということには違和感がある。敢えて言うなら、無関心が殆どで、この言葉は反射のようなものらしいと、何となく分かる。反射だけれど、偽らない。だからだろう、と千歳は思う。
羽咋零も槐夕夜も、少なくとも千歳の傍では極力嘘を選ばないから、嘘を吐かない《獏》の横でなくても、素直に楽しくあれるのだろうと、思った。
補足
・中市硝子
第一図書室の常連、最後の一人の二年生。
穏やかな気性ですが、少し巻き込まれ体質。
ほかの常連たちとは少し毛色が違い、本を読みに来るというよりは、司書に気に入られたがために半ば専属図書委員のような役割を果たすことになっています。
ちなみに、零にとってのヒロインです。