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日本ではもう唯一となってしまった技術者は、彼の視線に気づくと少し困ったような微笑を浮かべた。
「また難しい依頼になりそうね」
「シンプルなものに聞こえたけど」
「うん、『食事』する記憶自体はきちんと見えてる。だけど、『食事』するには布引さんのお兄さんの同意が必要だから」
ああ、と千歳は手を打った。余程の緊急時でない限り、対象の同意なき『食事』は出来ない。それでは失敗率も上がる上、強盗と変わりない。失念していたが、確かにそう聞いていた。
しかし、話を聞く限り、同意を得るのはかなり厳しいように思われた。
「でも、窈は、受けたんだね」
「悪夢へつながってしまう過去を除くのは《獏》の役目だもの」
仕事だから、ととられかねない言葉運びだったけれど、その真情は何より、彼女の眼差しに表れていた。
優しく、けれど決然とした瞳。窈らしいと、思った。
依頼人は布引緋色、県立高校に一年生として通っている。真白という名の双子の兄になくしてもらいたい記憶は、彼女の額の傷痕が出来た時のものだという。詳しくはまだ聞いていないが、その傷に兄が関わっているのだという。
実際見せてもらったところ、つるつると白く残っているだけで、普段は気づかれにくいだろう。それほど神経質になるようなものでもなさそうで、本人もそう主張しているが、布引真白はいまだにそのことを引きずってか、妹に対して少々過保護らしい。
『いい加減、私にばかり縛られていてはいけないと思うんです。兄は優しいですけど、私に構って何も出来なくなるようなことにはなって欲しくないんです』
聞いている限り違和感は無かった。そう反芻してから、ふと自己嫌悪する。
世界を真偽の二色に塗りつぶす感覚を、失くしたいとすら厭っていながら結局はそれに頼り切っている。この家に来てから、それが材料となる推理ともいえない推測が数度役に立ったから。モノクロームの視界が、それでも与えてくれるものを知ってしまった。
「……ループ、お終い」
声に出して宣言し、思考の渦に蓋をする。
今考えるべきは、窈が布引真白を説得する手段である。
『人の反論をねじ伏せる方法』『人の手なづけ方』『沈黙までの手段』
「……怪しい」
「真っ当な本を探したいなら何で来るのさ」
書架に並んだタイトルに思わず呟くと、遠慮容赦ない級友は冷たく言い放った。
千歳の通う高校の第一図書室、一部の常連を除いた生徒は殆ど出入りしない、専属司書の趣味の園。古書でないならまともな本はない、とは羽咋零の言い過ぎだと信じたいが、品揃えを見ると希望はふさがりそうだ。
「そうだね、少なくとも説得術を探しているならこの棚はお薦めしないよ」
「……っ、槐、先輩…」
「相変わらず唐突に現れるね」
肝を冷やす羽目になった千歳は零の言葉に数度頷く。見た目はせいぜい中学生なのに、才気煥発が過ぎて問題児と化しているらしい二つ上の先輩は「悪いね」と微笑した。
「でもこの辺り、きっと怪しい記述が満載だよ。黒魔術ぐらい齧っていてもおかしくないかもしれないね」
ありうるような気がしてくるから恐ろしい。
「更科、そもそも君に弁論での説得は無理」
断言された。確かにはったりも出来ず言葉もむしろ足らないが。
「するのは僕じゃない、から」
反論がこうなる自分を情けなく思いつつ、二人のやり取りを何故か微笑ましそうに見ている少女を見る。ここの本よりは余程頼りになる手段をくれそうな人だ。
「説得でのポイント、ってありますか?」
「相手の意思をないがしろにせず、それも取り込んで丸め込む」
「何いきなり高等技術を要求してるわけ? 更科じゃなくても無理だよ」
あっさりと答えた少女――槐夕夜に、零が呆れたように指摘した。
「優しいねえ、Goose-Egg君は」
しかし何がどう繋がったのか、少女は愉快そうに笑った。ただでさえ彼女が苦手らしい零は途端に眉を顰めて溜息を吐いた。
「槐先輩が不親切なだけだと思うけど。それに思考が意味不明」
頷きたかった千歳だが、中性的な言葉遣いの少女は全く怯まない。
「僕が逐一思考を晒したところでGoose-Egg君が不機嫌になるだけだろう?」
「既に不愉快」
「それをわざわざ崖下まっさかさまにする趣味は無いから」
黙り込んだ零を一瞥してから、少女は千歳に向き直った。
「さて、個人的には、説得に当たったらとにかく向こうの主張をしっかり聞くことにしているよ。自分の意見を聞かない相手になんか説得されたくないだろう?」
「反発心を持たせない、ってことですか?」
確かに『聞かせる』ことがまずもっての手段なのに、端からそれを拒絶されては文字通りに話にならない。
「それでいて、情にも雰囲気にも流されないこと。流されて良いのは論理のみだ」
思わず千歳は少女を見た。ジェンダーというものが存在するのかどうかよく分からないのに可憐さに恵まれた顔立ちは、言葉とは対照的に困ったような表情だった。
「……とはいえ、僕にも感情や衝動はあるから、往々にして論理だけでは動けないんだけどね」
千歳は頷いた。論理的で、それでも彼女は人間的で感覚的でもある。こうやって千歳と話している優しさは、合理的ではありえない。
夕夜は千歳を見上げて黒い瞳を細めてから続けた。
「それからその裏返しだね、説得はなるべく論理的なほうが良い」
情や雰囲気に訴えるよりは、正論を積み上げなければならない。そのためには、詳しいことを知る必要があるだろうから、結局はまた調べるべきなのだろう。
家庭内の問題なのであまり突っつき回したくは無かったのだが、そうは問屋が卸してくれなかったらしい。
「後は口調を柔らかく、くらいかな。Goose-Egg君は何かあるかい?」
「……僕が説得なんか慣れてると思う?」
色素の薄い目が少女を睨むと、彼女は軽く肩を竦めた。千歳も納得する。
羽咋零はつっけんどんな態度である上に辛口で、時にそれは毒を含む。
「世渡り、下手そう」
「…………それ、更科と槐先輩にだけは言われたくない」
「ごめん……」
溜息を吐かれて、千歳はすぐ謝った。世渡りが下手なことくらい、自覚している。ただ、もう一名はやたら楽しそうだった。
「酷いな。僕は世間の荒波に揉まれまくりだよ」
「現在形である辺り、未だに上手いと言えない自覚はあるんじゃないの」
「その分世間ずれしきっていないナイーブな部分が残っているってことだね」
「自分で言っても信憑性ないし、そもそもそういう問題じゃないだろう」
「僕が世渡り上手ではないと認めたのだから君の判定勝ちじゃないのかな」
「だから偏屈な先輩にそういう部分があるって納得できないからその証明は不十分」
このやり取りは止めるべきなのだろうか、と千歳は少し悩んだ。とりあえず夕夜の方は楽しそうだが、零の眉間が心配だ。火種を投げ込んだ責任は、しかしどうやって取るべきなのだろう。
「羽咋くん、それ、槐先輩のペース……」
とりあえず級友を諌めてみる。言われるまでも無く分かっていたのかもしれないが、彼は小さく舌打ちした。
「いつまで経っても君は挑発に慣れないねえ。目の付けどころも頭も良いのに」
「……放っといてくれる」
「だって勿体無いだろう」
地を這うような零の声をあっさりと却下しつつ、少女は千歳を見る。
「ちなみにこれは説得じゃなくて嵌めたんだから真似しないでね」
「……後輩をいじめちゃ駄目です」
論破よりはむしろこれに見える。しかし彼女は笑みを深めた。
「そうそう、だから千歳君はGoose-Egg君をいじめちゃいけないよ」
「そもそも無理です」
「うん、じゃあ仲良くしてあげてね」
柔らかく、黒い瞳が細められた。虚を衝かれてきょとんとしている千歳に声が飛ぶ。
「だから流されてどうするの、更科」
「むしろ、呑まれた……」
多少論理の組み方が雑でも、『聞かせる』何かが槐夕夜にはある。少女本人は思いつきで喋っているつもりでも、心に落ちてくる。それが少しだけ羨ましくはあったけれど――千歳には、必要ないのだろう。何にせよ、彼に説得は向かないのだから。
彼女の方はそんな思考はつゆ知らず、素早く立ち直っていた羽咋零と千歳を一緒に見て、笑う。
「さて、あまり役には立てなかったように思うけど」
「いえ……ありがとうございました」
「お礼なら優しいGoose-Egg君にもね」
「だから僕の何処が優しかったのさ」
「崖下まっさかさまな機嫌の君にお礼なんか言いにくいだろう?」
秀麗な眉を寄せる零を余所に、少女は軽快に去っていった。残された千歳は、しばし迷った末に、支度をその間に終えて帰ろうとしていた級友の背中を呼び止めた。彼は不機嫌を端正な顔全体で表しつつ振り向く。
「理由も分からないのに礼を言うのはやめれば?」
「今、言わないと」
何が彼の無意識の気遣いだったかは確かにまだ分からないけれど、多分明日でも遅すぎる。分かっても、言いそびれては意味が無い。
「ありがとう」
「身に覚えは無いから返す言葉は無いね」
皮肉っぽく言うと、羽咋零は再び踵を返して行ってしまった。