1
《獏》とはこの場合、とある職業に従事する人物を指す。
悪夢を喰らう伝説の獣の名を戴いた彼らは、記憶を夢に換え、ひいては消すという特殊な技術の持ち主であり、その希少性は殆ど“絶滅”しつつあることでも分かる。そのため、彼らが住まう国の政府は彼らに格別な配慮をし、その技術を保存しようとはしている。にも関わらず、《獏》の絶対の掟の中『嘘は吐かない』『必要に迫られぬ限り名乗らない』などの項目に紛れて『弟子は生涯で一人しか取らない』というものが存在していることは、謎としか言いようが無い。そのため、徐々に生ける都市伝説の絶対数は減少しており、日本にも昔十数人は居たとされるものの、現在生き残っているのはただ一人―――。
それが、更科千歳とテーブルを挟んで向かい合っている青年の話の要約だった。
「とまあ、この程度はご存知でしたでしょうか」
「いえ、昔は結構居た、というのには驚きました」
千歳が言うと、そうでしたかとこれまた生真面目に青年――佐橋当麻は頷いた。
佐橋当麻は二十八歳と聞いた。千歳とはちょうど干支が同じらしいが、その共通点はかえって少しばかり年の差が広がったように感じさせるだけだ。顔立ちは精悍だが、性格を如実に表しているのか生真面目な印象が勝つ。多分何かスポーツでも嗜んでいたのだろう引き締まった長身に着ているのが作務衣というあたりが何ともアンバランスだ。表の仕事が染物師なのだから、雰囲気はつかめるような気がしないでもないが。
「《獏》の由来ははっきりしません。平安中期頃、私の先祖とやり取りした文が残っていますが、その差し出し先は十五、六種類はありました」
「……そんなに」
そして山の近くに染物師として住まう彼が、千歳の保護者であり日本唯一の《獏》の言うところの《紡屋》、《獏》の仕事に不可欠な紐を作る家の跡継ぎだという。現在糸を紡ぐ作業は、千歳も住む姫神市在住の当主、当麻の父がやっているそうだが、染めは殆ど当麻に任されているらしい。
彼の本業は染物師という。そうはいっても伝統工芸的なものではなく、草木染を主として、自然志向のアートといった趣の、素朴だがある意味現代的なものだ。どうも昨今の癒し系だの自然志向だのの波に予想外に乗ってしまい、染物の売れ行きもそこそこ良いらしい。これでご当主の家は骨董屋と聞くと理解しがたく思うが、どうも《獏》は自然のもので染められた糸を好むため、染めを担当する当麻が山野へ住むようになったのは極めて自然なことらしい。そして実家は《獏》の連絡しやすい街へ、ということだろう。
今こうして千歳が佐橋当麻の作業場に居るのは、いわゆる正月の挨拶回りの一環である。千歳の保護者こと《獏》こと鬼無里窈は本家の方に、被保護者であり助手である千歳は当麻のほうに、となった。本人でなく助手が来たのでは気を悪くしないだろうかと内心懸念していたのだが、以上のように佐橋当麻自身はいたって真面目で、穏やかに迎えてくれた。
そうして、一旦話が途切れる。千歳が腕時計を確認すると、そろそろ出なければならない時間だった。当麻もそれに気づいたようで、申し訳無さそうに頭を下げた。
「ああ、随分引き止めてしまって、すみません」
「いえ……お話、興味深かったです」
それは真実だった。彼にも伝わったのか、穏やかに笑う。
「《獏》さんによろしくお伝え下さい」
「はい、失礼します」
一礼して、千歳は作業場を出た。
その背を見送る当麻の瞳の意味には、気づかずじまいだった。
帰ってきた千歳を真っ先に出迎えたのは、珍しくリヤンでなく窈だった。
「千歳くん、待ってたの。帰ってきてすぐで悪いんだけど、ちょっと散歩に行かない?」
「…え?」
窈からの誘いにしては、珍しい。
彼女は外出を嫌っている風もないが、実際家の外に出るのは非常に稀だ。千歳が此処に引き取られて以来、彼が知る限りは依頼のために出向く時くらいだ。いつ依頼が来ても良いように備えているのかもしれないと、気に留めてはいなかったが。
「嫌かしら?」
急いで首を振る。嫌なわけが、ない。しかし、どうして急にそんなことになったのだろう。
不思議そうな顔をしたのだろう、窈は照れたように微笑んだ。
「少し、色々話がしたかったの。家の中に居ると、駄目ね、どうしても《獏》モードになっちゃって。折角千歳くんと話していても、すぐ依頼関係の話題に移っちゃうから」
そうだろうか。
毎日しっかり顔を合わせ、そのときは短いながらも言葉を交わす。内容は窈が言うほど仕事に偏っているつもりもない。それとも、普通の家族だったら、もっとそれ以上にたくさんのことを話すのだろうか。
「私は未熟者だから、《獏》以外でいることが、難しいのね。だから、ちょっと気分を変えて、外でお話してみようかなって」
良いかしら、と重ねて尋ねられて、少し戸惑いを残したまま、ゆっくりと頷いた。
夕暮れは、何処か現実離れしていると思うことがある。
昼がぼやけていくにつれて、何もかもの境界線が淡くなっていくような、不思議な空気だ。誰そ彼時、などと表現した祖先たちに共感したくなる。
「学校はどう?」
「慣れたよ。授業も…速いけど、何とか、振り落とされてない」
「友達は、できた?」
窈には、そういえば初めて聞かれた。千歳の性格を見て、今まで黙って見守っていてくれたのだろう。
そういえば、昔転々としていた時には、大抵はじめの頃にしきりと聞かれていたが、うまく答えられずにいた。集団に途中から入らざるを得ない状況で、口下手で社交的でない千歳には、はっきり友人と呼べるほど親しくなれる存在ができなかったのだ。それで困ることはあったが辛いことはなく、けれどそれをはっきり伝えることもできず、しっかりとした応えができずに、相手をよく苛立たせてしまったものだ。
窈は、待っていてくれた。
「…友人と、はっきり呼べるかはわからないけど」
千歳の、要領を得ないらしい言葉に付き合ってくれる彼ら。
千歳が、珍しいまでの積極性で、助けを伸べたいと思った人々。
「そっか。良かった」
彼女は、柔らかく微笑んだ。
「千歳くん。今日は急に、ごめんね」
「ううん。楽しかった」
心から言うと、窈は目を瞠ったあと、穏やかに、そしてとても美しく笑った。
「また、こういう時間も持とうね」
普通でなくても良いのだな、と千歳は納得した。
そもそも家族など千差万別なのだ。窈が千歳を待っていてくれる限り、千歳が《獏》のもとにいる限り。
ゆっくりと、自分たちなりの家族になっていけば、良いのだろう。