5
「チトセ、久しぶりっ!」
帰った翌日には、いりなの元気な声が訪れた。
好奇心の強い年頃なのだろう、いつも彼女は物珍しげにきょろきょろと視線を彷徨わせている。千歳の部屋の、小さなボックス型のソファーチェアに腰掛けて、リヤンのいれたココアのカップを抱えている姿も、既に馴染みのものになっている。
「いつもいつも思うけど、チトセの部屋ってホント物少ないねー」
「……そうかもしれない」
考えてみればそうかもしれない。一人で使うには充分すぎるほど広い空間だが、そもそも千歳は個人の所有物をあまり持っていない上に、此処に来てから買ったものも殆ど学用品だ。
「趣味みたいなもの無いの?」
「………無い、かな」
少し困る。本を読むのは割と好きだが趣味とは言いがたく、暇つぶしの手段としている。敢えて言うならぼうっとすることだが、しかし趣味というよりは癖に近い。
いりなは小さく笑った。
「チトセって面白い。子どものわたし相手に真剣に困るんだもん」
「変かな」
「どうだろ。わたしは嬉しいけど、普通だったら適当に答えとくところじゃない? チトセはセイジツなんだね」
「そんなこと無いと思う。……嘘が苦手なだけ」
舌足らずな口調で熟語を使う少女に背伸びを感じつつ、千歳は答える。
“真実の口”の能力は、全てを真偽に収束させる。優しい嘘とて偽としか見られない力は、世界をモノトーンに塗りつぶしていく。この上で嘘を嫌うのは、やはり逃げでしかないのだろう。それでも、偽であると分かっていて受け容れるほどの覚悟はなく、潔癖の裏に身を隠す。
誠実などではない。こんなものは、ただの臆病だ。
「……そうだ」
この力を封じられるとすれば、恐らく千歳は手を伸ばしただろう。
ならば、“ラプラスの悪魔”であるかもしれないところのいりなは。
「もう一度、予言したい?」
「……ホント言うとね、もうしたくないんだ」
いりなは年に似合わない、疲れたような大人びた表情を見せた。
「わたしは予言じゃないのに、予言するのがわたし、みたいに見られるの。……何かね、ちょっと疲れちゃったのかも」
「なら」
「でも、やっぱり皆にとっては予言するのがわたしなのね。……お母さんもそう」
言われて、最初に彼女が訪れたときの母親を思い出す。神経質そうな女性だった。それでいて、いりなに対して引け目を感じているかのような、弱腰でもあった。
「わたしが予言をしないようになってから、すっごくピリピリしてるの。わたしが予言でちょっと有名になっちゃったから、それを……興味、なんだっけ」
「興味本位?」
「あ、そうそう、それでうちに来る人たちを追っ払ったりして、大変なの。解決のためにはもう一度予言するようになれるのが一番手っ取り早いもん。口に出して言われたわけじゃないけど、分かるよ」
「だけど、それは」
言いかけたことを遮って、少女はやはり大人びた微笑みを見せた。
「そう、もぐらたたきみたいなもの。キリが無いの。分かってるよ、わたし。きっと、お母さんも。
……ねえ、チトセ。ホントは、もう分かりかけてるんじゃないの?」
「……そんなこと、無い」
嘘だと、分かった。つまり、何かもう掴んでいるということ。
けれど、千歳には分からない。それは真実で。
「じゃあチトセ、絶対つきとめて」
「……絶対は無理、かも」
気弱な言葉と知ってはいたが、安易に嘘は吐きたくない。
「だいじょーぶ、チトセってばぼーっとしてるけどバカじゃないもん」
へへ、と天真爛漫に少女は笑う。
「…………それは、年上だから」
「そーゆー意味で言ってるんじゃないの。わたしはチトセを見込んでるの」
正直、七つ年下の子どもにそういわれるのも複雑な気持ちだったが、あまりにいりなが堂々と言うので、つい微笑んでしまった。
「……ありがとう」
いりなは一瞬きょとんとしたが「やっぱりチトセって面白い」と言って、笑い返した。
早いもので、その三日後には終業式が待っていた。
十一月という妙な時期に編入してきた割にそれなりの成績が返ってきたが、よく考えると前の学校から調査書のようなものを貰っているからだろう。
その成績表をクリアファイルに挟み込んで、千歳は第一図書室に向かった。槐夕夜に会えないかと思ったのだ。三日間窈やリヤンと共に色々考えてみたが、結局これという考えが浮かばなかった。勿論全てを話すわけにはいかないが、聡明な第三者に相談すればあるいは指針ぐらいは見えてくるかもしれない。そう思ったのだが、訪れた空間には司書以外の姿が見受けられなかった。どうやら空振りらしい。
廊下に吐息を白く曇らせる。言うまでも無く、十二月の空気は冷たい。校舎内防寒具着用禁止の令を素直に守りながら階段を降り、昇降口に辿り着く。
「……あ」
「何、今帰りなの、更科」
紺色のマフラーを首に絡ませながら、羽咋零は言った。
「羽咋くんこそ」
式の前に掃除は終わらせているから、彼こそとっとと帰ってしまっていそうなものだ。そう評される自覚があるのか、零は職員室のほうを振り返ってちらりと嫌そうに眉を顰めた。
「ちょっと担任に捕まっただけ」
ふうん、とそれに返しながら千歳も身支度を整える。コート、マフラーに手袋、普通の装備の筈だが、零は呟く。
「更科の家族って、過保護?」
「どうして?」
そんなところは無い筈だが、しかし周囲の男子を見、零を見て気づく。
「コート?」
殆どの男子はコートを羽織っておらず、零にいたっては手袋すらしていない。コートを着用していない生徒を見つけるほうが難しい女子とは対照的だ。
「……えっと、この前まで寒い地方に居たから、防寒はしっかりする習慣がついてる」
言い訳のように響く事実を口にする。そっけなく「なるほどね」と頷きながら昇降口を出る零と、何となく並ぶ。零もそれに対して何を言うでもない。
「っていうか、少し前から気になってたんだけど、何で『くん』付けなわけ?」
彼に言われて、ああと千歳は頷いた。この年頃の男子なら、クラスメイトはニックネームか名字呼び捨てが一般的といえるだろう。
「あんまり、人を呼び捨てにはしない主義」
「へえ」
「羽咋くん、怖いし」
「は?」
トーン低く返されて、千歳は目を逸らす。
「……半分くらい、冗談」
「分かりにくい」
彼は大きく溜息を吐いた。
「で、残りの半分ぐらいは本気?」
「距離を適度に取っとかないと、って何となく」
「…………確かに馴れ馴れしいのは嫌いだね」
「やっぱり、野良猫」
「どれだけそのネタ引き摺るつもり?」
覚えていたらしい。むしろ根にもたれていたのかもしれない。
そんな会話をぽつぽつとしながら、校門をくぐり、駅の方角へ歩き出す。一年前まで体験していた寒さと、気温の点では随分と違うわけだが、しかし今を暖かいとはあまり感じないのは、人間の身体の現金なところか。頬に感じる冷たさも、特別に変わっていないようにも思う。
けれど、その冷たさを裂いて、切れ切れに聞こえてきた声に、物思いから引きずり出された。
振り向いて、見えたのは三人の少女と黒スーツの女性。
「………………あなたを……の容疑者として……」
ほんの数日前に聞いた声に、千歳は足を止めた。
反対に零は舌打ちを残して少女たちの方へ駆け出した。百メートルほどの距離を躊躇いも無く詰めた彼は、三人のうち一人の少女の腕を掴んで走り出す。
展開は、わからない。少女たちが誰なのかも、あの羽咋零が躊躇いもなく彼女を連れて逃げようとする理由も、知らない。
けれど。
追おうとした黒スーツの女性が久瀬だと認めた途端、衝動的に声がせりあがった。
「気をつけて!」
殆ど出したことの無い声量に自分で驚く。零と少女達、そして久瀬が振り返った。
「その人、嘘を吐いてる!」
ほんの一瞬、黒スーツの女性の動きが止まった。すぐに再び動こうとした足は、何かの要因でまたも竦む。
その隙を利用して、千歳は身を翻して走って来た道を戻る。切る風の冷たさと運動に伴う熱の発生で熱くなる頬を感じながら、鞄から携帯電話を取り出し、短縮で番号を呼び出す。
『もしもし?』
「っ、窈……」
『ど、どうしたの、千歳くん? 走ってるの? 何かあったの?』
柔らかな声に少し安堵する。対して彼女は狼狽した声で返した。こんな時間に、明らかに普通でないような状態で電話されたら、驚くのは当たり前だろう。申し訳ないが、緊急を要する。
久瀬の気配は今のところないが、彼女が千歳のほうにより強く気をひかれた可能性もある。このまま帰るのも危険だろう。
校門に滑り込み、植え込みの陰に隠れる。校内ならば、久瀬の容姿は悪目立ちする。踏み込むのに躊躇いが出るだろう。
「車、お願い。リヤンさんに、頼んで」
『わかった』
細切れの言葉に、窈は何か察したのか、千歳に現在位置を訊くと待ち合わせ場所を指定し、電話を切った。
すぐに迎えに来てくれたリヤンによって帰宅すると、二人に経緯を説明すると、窈は軽く納得の息を吐いた。
「……ごめんなさい」
千歳は目を伏せた。
久瀬に自分が《獏》の助手だと分かったかどうかは判断できないが、もし分かってしまっていたら恐らく窈に迷惑が及ぶ。
「良いんだよ、それは。友達を助けたかったんでしょう?」
友人と言えるほど親しいかは微妙なところだが、助けたかったのは本当だから、こくりと千歳は頷いた。
「色々、お世話になってて」
「しかし千歳様、今少し自粛なさってください」
リヤンを咎めようとした窈を遮る。窈に迷惑を掛けたには違いない。リヤンが苦い顔をするのも尤もだ。
「まあ、過ぎたことは過ぎたこと。今更細々とは申し上げません」
だからこそ、その言葉に虚を衝かれた。窈を見ると小さく苦笑している。さすがは付き合いが長いらしいだけある。そして、千歳には微笑を投げかけた。
「ね、千歳くん。きっともう後戻りはどちらにしても出来ないから、後はやりたいようにして良いよ?」
「……え?」
「助けたいんでしょう?」
意味が呑み込める。更に迷惑を掛けはしないだろうかとは思うが、そう言えば窈はきっと。
「……えっと、迷惑を重ねることになるかもしれないけど……もう少し、甘えても良い?」
「うん」
やはり、何でもないように笑って肯定してくれる。
「じゃあ、守ってくれる?」
千歳には自分が自衛も出来ない人間だということを否定できない。妙なプライドに囚われて何も出来ないより、失敗を繰り返すより、何も出来ないままでも何かをするほうを選びたかった。
無気力な筈の自分の思考に驚かないでもなかったが、毒喰らわば皿までという言葉もある。あの、冷めているようで妙に破壊力だけはありそうな級友を相手取って、皿程度で済むかは不明だが。
勿論、と快諾してくれた窈に、自然に生まれた微笑を向けて、千歳は部屋へと入った。
編入時の記憶を辿り、一枚のプリントをファイルから取り出した。緊急連絡簿。携帯電話の普及で肩身が狭くなりつつある物品に印刷された数字を、慎重に手元の機械に打ち込む。
数度のコール音の後、応対した女性に身分とフルネームを名乗り零のことを訊くと、素っ気無く「まだ帰っておりません」と言われたのみだった。半ば予想済みだった展開だったので、彼の携帯電話の番号のみを教えてもらって通話を終える。羽咋家の情報管理の甘さに感謝と少々の心配をしながら、メモした番号を打ち込んだ。
『……もしもし』
「更科です。……羽咋くん、大丈夫?」
『ああ、まあ平気』
訝しげな声に名乗って問い掛ければ、あっさりとした返答があった。冷静に考えれば彼の言葉ほど状況はやさしくないのだろうが、平気だということ自体に嘘は無い。それに少しだけ安堵する。
『で、それだけ?』
「いや、ちょっと、確認したいことがあって。……あの黒スーツの女の人、“異能”絡みで来たんじゃない?」
『ちょ……何でそれを……!』
一瞬にして、零の声が荒げられた。まだ警戒より困惑の色が強い。
同時に、やはりか、と千歳は思って、しかし返答に詰まる。
「…………顔見知り、だから?」
『語尾上げるところじゃないよ、其処』
呆れたように指摘されて、素直に言うことにする。
「本当に顔知ってるだけだから、どう表現したら良いか迷って」
『別に、そんなのはどうでも良いけどさ。……確認したいことってそれ?』
「ううん。……情報、欲しい?」
『……は?』
「役に立つかどうかは分からないけど、あの人たちがやってること、多少は知ってるから」
今度の沈黙は長かった。千歳も落ちてきたそれを受け止め、ただ待った。
『…………頼むよ』
やがて零は、確かにそう告げた。
電話口で話すには長く複雑な内容だったため、ファックス番号を教えてもらって、それに向けて送信することにした。しかし、そういう設備があるところに今現在零がいるということが千歳には少し不思議だった。自宅には居ないのだろうから、一体何処にあの後向かったのだろう。
塞がれた通話口の向こうから『先輩』という単語が聞こえたような気もするが、あの三人の少女が先輩である可能性はあるのだから、まさか、そんなご都合主義にことが運ぶわけがない。
そんなことを考えつつ、時々電話に目をやりながら時間を潰す。「読んだ後また連絡するから」という律儀な言伝があったためだ。一時間ほど待っただろうか、電子音が部屋に響いた。
『もしもし、更科?』
「うん。……役に立った?」
『充分に。だけど、君は大丈夫なの? あんな情報流して』
「保護者の許可はあるから」
『……つくづく甘い保護者だね』
呆れたような零の声が、ふとそこで途切れてくぐもった。どうやら通話口を覆って会話しているらしい。やがて、少しのノイズを残して柔らかなアルトが響いた。
『やあ、この度はどうもありがとう、千歳君』
「…………槐、先輩?」
『ああ。追われているのは僕じゃあないけど、彼女たちは君と面識がないし、Goose-Egg君と彼女たちの暫定保護者として改めてお礼を言いたいと思ってね。……ありがとう、助かったよ、千歳君』
ご都合主義にも程がある、登場。それでも、彼女の柔らかな謝礼に、反発を覚えようが無い。
「あ、どういたしまして」
言ってから、今日彼女を探していたことを思い出して慌てて付け足す。
今日のこととはすでに思えないくらい昔に感じてしまっていたが、まだその件も継続中なのだ。
「あの、一つ訊いても?」
『僕に答えられる範囲なら』
「嘘は無いのに矛盾があるとしたら、一番可能性が高い要因は?」
抽象的にも程がある質問なのに、そうだね、と真摯な声で夕夜の声が考え込んでいるのを伝えてくる。
『そう……たとえば尋ね方はどうだろう』
「尋ね方、ですか?」
『当然ながら言葉には常にニュアンスが伴う。同じような意味に見えても、実はズレが明確に存在することもある。それに嵌まっているのかもしれない』
「…………あ」
その言葉に、ぴんときた。――解けた、かもしれない。
『役に立てたかい?』
「はい」
突破口が見えてきたように思う。本当に、感謝すべきだった。けれど、彼女は救い主というより。
「“機械からの神”……」
『ああ、ギリシャ悲劇が好きなのかい?』
「いえ、知ってるだけなんですけど……ごめんなさい」
『構わないさ。シナリオにとっては貶す言葉でも、役割本体にとっては褒め言葉にもなると思うからね』
どうしようもなく状況が行き詰まったときに現れ助言して去る、神。強引なまでに物語を動かす存在。
ぽろりと零れた言葉にしまったと思ったときには、博学な先輩に拾われていたが、彼女は快く受け流して続ける。
『でもね千歳君、天は自ら助くる者を助く。僕が神様になれるなら、君はちゃんと頑張ったということだよ』
筋の通っているようないないような不思議な言葉だったが、浸透していく。彼女は言葉を大切にしているのだろうと何となく思った。だからこそ惜しまないでくれたのだろうことが、嬉しかった。
ノックをして入っても良いかを尋ねると、窈はすぐに諾の返事を寄越した。すすめられるままオーク材の椅子に腰掛ける。
「どうしたの、千歳くん」
「まず、ありがとう。情報、無事あげられて、何とか役に立ったみたい」
「そうなの? 良かった」
優しい、繊細な笑顔に綻ぶ。つられて微笑してから、千歳は続けた。
「あと……仙波いりなさんの件、分かったかもしれない」
窈はすぐに表情を引き締め、声を出してリヤンを呼んだ。
補足
・槐夕夜
異能者ではありませんが、別の物語の主人公キャラである所為で、設定が結構チート。
ただしその『別の物語』に千歳が絡むことはないので、変人ヒント役(というかそれこそ“機械からの神”ポジション)兼ほのぼの要員(作者主観)として登場しています。
・異能について
先天的に現れた、常人が持たない能力の総称です。遺伝はせず、あくまで突然変異のような力です。
大別すると事物に干渉する能力(例:触れずに物を動かす、発火させるなど)と当人の感覚にかかわる力(例:透視する、動物の心を読み取るなど)があります。さらに後者は当人の意思の有無が発動に関わるか否かで分類されることがあります。
能力の規模は人それぞれ。ある種の訓練、また身体的あるいは精神的な傷によって成長する事例はあります。
また、一人が複数の異能をもつことはありません。