時計の針が凍るまで
冷たい夜だった。
扉を後ろ手で閉める。家の中からの人いきれ混じりの空気が絶えて、刃物を押し当てられたように心臓の奥がひやりと鳴った。
一歩踏み出す。柔らかい新雪が抵抗なく足の下で沈んだ。
鈍色と濃紺の混じった空から、白がはらはらと落ちてくる。並ぶ家から、黄色みを帯びた光が差す。何故雪はあの温かい光で溶け出さないのだろう。
他人事だからだろうか。余所余所しい景色は、けれど確かに美しかった。
肌が痛む。寒くはない。けれど、ただ冷たい。
「冷たい夜ですね」
不意に。
彼の心を読んだような言葉を、紡ぐ声があった。
顔を上げて、まず目に入ったのは透明なビニール傘だった。その柄を握る手を辿れば、彼と同年代ほどの少女が、いつの間にか彼の背後に佇んでいた。
絹のようにずっしりした長い黒髪が日本人形の印象を与える、何処か神秘的な美しさをもつ少女だった。薄墨色のカッターブラウスに濃紺のロングスカートという装いは、簡素で地味ながら上品な印象を与える。
柔らかな白磁の美貌が、絵画のように微笑んだ。
「更科千歳さんですね?」
何故知っているのだろう、と千歳は戸惑った。千歳は間違いなく、この少女のことなど知らない。
少女は彼を慮るように再度微笑して、続けた。
「私は鬼無里窈といいます。……あなたを、引き取りに来ました」
二重の意味で彼は目を見開いた。
即ち、同世代の少女が引き取ると言うことの奇妙さと、この自分をまだ引き取ると言うことの不審さに。
「どうしますか?」
文脈のない言葉、しかし彼の心中を汲んだような問いかけ。
窈と名乗った少女は緩く手を差し出した。千歳はその白い手をじっと見る。
だが、すぐにその手へ彼のそれを伸ばした。
今更、もう一度を繰り返したとて痛みは増さないと、思った。