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珠巡り  作者: 桜咲 雫紅
三章 兆候
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二つの誓い

先日不運に見舞われました桜咲です。


小学生の頃からよく事故に遭ったり結構な大怪我を負ったりしていたのですが、歳を重ねるごとにそれもなくなりかけてきた矢先事故でした。


それも前もぶつかられたことがある車種でした。


これって私の注意力が散漫なせいですかね?


そんなブラックな桜咲ですが、本編は全くブラックではありませんのでどうぞある方々の甘いひと時をお楽しみください。

近くに待機させておいた車に素早く乗り込み、元倉庫の残骸を後にする三人組。そのうちの一人が呆れたように口を開く。


「ずいぶん荒っぽい救出劇ねぇ。他にやりようはなかったのかしら」


もはや原型を思い出すことすら難しい倉庫の残骸を振り返りながら愚痴(ぐち)るのは顎に人差し指を当てた朱葉だった。斜め前にいる詩藍も同じように後ろを振り返りながら同意する。


「そうね〜。不本意だけど、そこだけは朱葉に同意かな」


声にも不本意さを滲ませて詩藍が頷くと、朱葉はこれ以上ないほど嫌そうに顔をしかめて胸を押さえてみせる。


「不本意なのはお互い様よ、詩藍。あんたみたいのと意見が被るなんてこの私にあるまじき失態っ。あんたと同レベルのことしか考えられないなんて・・・ショックで心臓が止まるかと思った。いえ、もしかしたらこのまま突然死するかもしれないわ・・・」


「ひっどーい。何もそこまで言わなくていいじゃない!」


ぷーっとフグのように膨れてみせるものの、朱葉は己の失態を深く反省している最中で見向きもしない。むーっと詩藍はさらにふてて窓の外を眺めていた海夢に話をふる。


「九頭龍さん。朱葉がいじめるんですよ」


「朱葉と詩藍は仲がいいですね。羨ましいですよ」


向き直った海夢がニコッと微笑みそう言うと、聞き捨てならない言葉を拾った朱葉が自己反省会を強制中断して心外なとばかりに兄に詰め寄る。


「前言を撤回(てっかい)して、兄さん。私は詩藍(こんなの)と仲良くありません!じょーだんじゃないっ」


「あたしもです!あたしは朱葉より九頭龍さんと仲良くしたいです」


心底から嫌そうに力一杯否定する朱葉に負けじと続いた詩藍は顔を赤らめながらさりげなく海夢にアピールするも、


「そうやって必死に否定するあたりが怪しいですよ。認めたらどうですか?」


さらりと流されてしまった。それよりも海夢はとても嫌そうにしている朱葉を弄る方が楽しいようだ。


「・・・・・・私で遊んでるでしょ、兄さん」


理性を総動員させてなんとか言い返した朱葉を見つめ、兄は黒い笑みを浮かべると首を傾げた。


「悪いかな?」


その答えで撃沈した朱葉を力任せに押し退け、詩藍は海夢に抱きつく。押し退けられた朱葉は見事に頭を窓にぶつける。



ゴンッ



鈍い音がした。


「九頭龍さん。朱葉(こんなやつ)じゃなくてあたしで遊んでください!!」



ゴガッ



先ほどとは別の場所から同種の鈍い音がする。


「詩藍・・・。何故いつも私に抱き付くのですか?おかげで僕は必ずどこかしらに頭をぶつけている気がします」


「ごめんなさーい」


謝りながらも抱きついたまま離れない詩藍。そこへ押し退けられた朱葉が不穏な気配を纏って割り込んできた。


「詩藍さん。ちょっといいかしら」


額に青筋を浮かべている朱葉の背からどす黒いオーラが立ち上る。いち早く危険を察知した海夢はさりげなく詩藍から離れると端に避難する。大きく息を吸い込んだ朱葉は眦を吊り上げてガミガミ怒鳴り始める。間近での怒鳴り声に五月蝿そうにしながらも詩藍は大人しく説教の嵐に黙って耐える。ここで逃げようものならさらに説教が長引くことが目に見えてるからだ。


「やっぱり仲がいいですね」


その呟きは誰の耳にも触れることなく虚空へ消えた。
















三珠総合病院の異能者用病棟。五階、503号室。


「悠紀・・・」


涙に塗れた声が静かな病室に響く。千夏は痛ましげな眼差しを隣へ送る。嗚咽(おえつ)を押し殺しながら眠っている悠紀にしがみ付いているのは渚だ。


「渚ちゃん・・・」


かける言葉が見つからず、視線を左右にさ迷わせる千夏。安い慰めの言葉も、ありきたりな同情の言葉も、労りの言葉も、今の渚には届かないだろう。彼女が欲しているのはたった一つの声なのだから。


そうはわかっているものの、あまりにも痛々しいその姿に思わず声をかけようと手を伸ばした瞬間、開いた窓から風が吹き込んできた。片手で顔を覆うと隙間から人影が見えた。大きく目を見開くのと風のベールが晴れるのは同時だった。


「あとは俺に任せてもらってもいいかな?千秋の妹さん」


「貴之さん・・・」


ほっとしたように名を呼ぶと、貴之は穏やかに笑んでみせた。感謝を込めて一礼すると渚に一声かけてから病室を出る。あまり親しくない私が傍にいるより、義兄(あに)がいたほうが余程いいだろう、と思って。


千夏の足音が遠くへ行ったのを確認し、渚の隣に膝をつく。涙で塗れたその頬が痛々しい。


「渚・・・。思い出したのか?」


あの時のことを、と小さく続けられ、渚はこくりと頷く。酷なことを聞いている自覚はあったが、反応があったことに一先ず安堵(あんど)する。


「聞いてもいいか?何故、悠紀を刺したのか」


感情を殺して訊くと、渚はぽつぽつと話してくれた。まるで、壊れた機械のようなその喋り方に、貴之は痛みを孕(はら)んだ眼差しを向ける。


要約するとこうらしい。灰谷に呼び出され、生徒指導室へ行くと“海の珠”を渡せと言われた。当然のようにそれを拒んだ渚に、灰谷は眼鏡を取ってみせた。なにをするのかと思ったら、突然意識が遠ざかっていった。最後に聞いた言葉は「この部屋に入ってきた者を殺せ」


ふと気がつくと悠紀が目の前にいて、自分を抱き起こしていた。その時、体が勝手に動いて悠紀を刺した。すると今度は桜達が部屋に入ってきて、二人を襲った。手始めに一番近くに来た桜を襲った。恭哉が逃げ出したのを認め、どうするべきか悩んだが「追わなくていい」という声がして追わなかった。


「灰谷は洗脳の類の何かを使えるのか」


全てを話し終わった渚は悠紀の手をさらに強く握り締める。まるで縋(すが)るものがそれしかないように。


「悠紀は大丈夫だよ。草一さんがそう言っていたのだから間違いない。悠紀の生命力を、悠紀自身を、信じろ」


渚の頭を撫でながら耳元で囁くと、渚は貴之にしがみ付き泣いた。


「・・・な・・・ぎ・・・・・・」


掠れた声音が渚の鼓膜を震わす。あの事故の日と同じだ。目覚めた第一声が私の名前。それがどれほど嬉しかったか。


「悠・・・紀・・・」


溢れてくるものを堪えようとするも、堰(せき)を切ったように零れてくる。悠紀はそれを眩しそうに見つめ、重い腕を伸ばす。


「泣く・・・なよ・・・・・・、なぎ・・・」


眦に溜まった涙を拭い、そのまま頬を撫でる温かい手。その手に両手を重ねると、彼は仄かに笑った。


パタパタと滴るものが夕陽を反射する。それを彼は眩しそうに見つめていた。














「ふっざけんなッ!!」


生じたままの感情が言葉となって空気を震わせ、怒声の余韻が木霊となって広い部屋に反響する。左右には見上げるほど高い棚が並び立ち、大きさや言語等が違う多種多様な本で埋め尽くされた空間。


部屋の奥には縦長のコの形置かれた机があり、左手側には大量の書類が今にも崩れそうなほど積み上げられており、右手側には大きさの異なるパソコンが二台置いてある。中央にはキャスター付きの椅子があり、無を顔面に貼り付けた男性が腰掛けていた。年は三十前後だろうか。じっと正面を見据える紅の瞳は水面のように凪いでいてその心中は読み取れない。


彼の視線の先には彼を一周りほど幼くしたような少年がいた。こちらは全身から怒りの感情を迸らせ、今にも男性に摑みかかりそうな雰囲気をかもし出していた。両脇に下ろされた拳は力を込めすぎているのか白く変わっており、右手には数枚の紙が握られている。


「事実だ」


短く告げられた一言に白いシャツと黒いズボン姿の少年の体が淡い紅の色を帯びる。それが徐々に色を濃くしていくにつれて室内の気温がどんどん下がっていき、吐く息が白くなるほどまでになる。下がり続ける室温の中で右手に握られた紙にポッと火が灯り、瞬く間に燃え広がった火に紙が呑み込まれていく。


「あいつの差し金か・・・ッ」


体内に生じた嫌悪を吐き出すような唸り声に男性はわずかに目を伏せた。薄く氷が張りだした室内で少年の体が紅く浮かび上がる。爛々と輝く双眸はまるで燃え盛る炎のように激しく、熱い。本気で激怒している少年に対し、無表情を貫いている男性は肯定も否定もせずただ黙って紅い瞳を見返す。


「俺にその気はないと言ったはずだ。俺は俺のやりたいようにやる。あいつの操り人形になんざ、ならねぇっ」


「――――そうだな。お前が昔から唯一人しか見ていないことはよく知ってる。だがな、それが気に入らないんだよ。奴は自分の思い通りに事が進まなければどんな手段を使ってでも思い描いたとおりにしようとする」


徹底した無表情を保っていた男性の仮面に微かなひびが入り、そこから内なる感情が覗く。すぐに修復されてしまったが、間違いなくそれは《怒り》と形容できるものだった。心当たりがあるのかぐっと押し黙ってしまった少年はギリッと歯軋りする。


「あいつには手を出させねぇっ。何があっても俺が護る」


同じ《あいつ》という代名詞だが、秘められた響きは似て非なるものだった。強い意志が込められた断言に男性は相好を崩し、焦げ茶の髪をかき上げる。


「お前はあの子の事になると目の色が変わるな」


つい数秒前までの無表情が嘘のように柔らかく優しい顔付きになった男性がトン、と人差し指で机を叩く。温かな波動が指を起点に広がり、張っていた氷を溶かすのと同時に室内の気温を元に戻す。


「桜ちゃんはお前にとってどんな存在だ?」


「あいつは、俺の世界の全てだ。だから、どんな手を使ってでも、何を犠牲にしても、必ず護り抜く」


「世界、か」


きっぱりとした即答に笑みを零し、ふっとある一点に視線を固定する。彼が見ているものは一つの写真立て。正確にはその中でこれ以上ないほど嬉しそうに微笑む女性と、彼女の肩を抱き愛おしさに満ち溢れた眼差しの男性、そして、幼い青い瞳の少女とさらに幼い紅の瞳の少年が幸せそうな顔のまま時を止めている写真。


男性が見ているものに気付き、少年は斜め下に視線を落とした。


「・・・親父も、だろ」


ポツリと落とされた呟きには答えず、男性はただ薄く笑う。複雑な面持ちのまま黙り込んでしまった少年に笑みを苦笑いに変え、立ち上がった男性は少年の横で足を止め、おもむろに手を伸ばす。


「お前も同じか?――――榊」


くしゃくしゃと目下の茶髪を乱暴にかき回しながら彼の背後に問い掛ける。今この瞬間まで完璧に気配を立っていた呼ばれた主はにこっと微笑む。


「私は、恭哉様をお守り致します」


壁際からゆっくりと離れた榊は少年の一歩後ろですっと流れるような動作で跪き、片手を胸に当てると灼熱に染まった瞳を少年に注ぐ。ぐしゃぐしゃにされた髪を手でかき上げ、男性を睨んでいた双眸が振り返る。


「私の主は唯一人――――恭哉様です」


紅い瞳が一つ瞬く。鮮やかな色の中に、ほんの少しだけ複雑な感情を混ぜながら。


「桜に気付かれないようにあいつを護れ。・・・出来るな、緋煌(ひおう)」


「はい。我が主の命とあらば、どのようなことでも致しましょう」


それが今の私の存在意義であり、理由であり、意味であり、目的。



――――「ごめんなさい。あなたにとって酷い事を言っているのはわかってる。それでも、約束して欲しい」


対等の立場にいる、対等な友人として。



強い日差しと白い花が咲き乱れる中、交わした唯一つの誓い(やくそく)が・・・。




灼熱の瞳にここにいるはずのない人物の姿が映り込む。寂しそうに、悲しそうに笑いながら彼の前に膝をつき、両手で一回り大きい彼の手を包み込むように握っていた、その姿が。



「この先、何があっても絶対恭哉を、恭哉だけを護り抜け」



最初で最後の、揺るぎない命令が。



「あいつを頼むよ。緋煌」



吸い込まれそうなほど澄み切り、一度目にしたら忘れられないほど鮮やかで真っ直ぐな紅玉の瞳。


今彼の目の前にいる少年と同じ、大切な者を護り抜くという強い意志の炎を灯した双眸が。



今も彼の胸に刻まれている。










学園祭に戻るのも面倒だという意見により各自で解散となった。千秋達大人は三珠への報告のため学校へ向かい、貴之が病院へ、私達は天空家本家に行くことになった。学校にはまだ灰谷率いる“死神の鎌(デス・サイズ)”がいるかもしれないという懸念のためだ。


「一ヶ月後はランク昇格試験があるからな。休める時にちゃんと休んどけ」


龍護にそう言われ、桜は天空家本家にある自室で横になっていた。傍には恭哉がいる。他の人達は皆「お邪魔虫は退散退散」という美優の一言で部屋を追い出されてしまった。


「寝てもいいぞ。俺がちゃんと見張ってるから」


「なにを、見張るのさ」


『リミット』して全身が鉛のように重い桜は、恭哉の言葉に苦笑する。本当は言葉を発するだけでも物凄い脱力感が襲うのだが、そんなことはおくびにも出さない。


これ以上彼に心配をかけたくなかった。


少しでも身動ぎすると完全に塞がっていない傷が痛み、その度に呼吸が乱れる。そのことに気付き、躍起(やっき)になって呼吸を落ち着かせようと無駄な努力を試みる。


恭哉は意識して深呼吸を繰り返している桜を見つめ、くしゃくしゃに顔を歪ませる。ぎょっとして鉛のように重い腕をどうにか持ち上げた桜は恭哉の頬に触れる。


「どうしたの?恭哉」


「俺は、また、お前を守れなかった・・・。大切な人一人守れない自分が、情けなっ」


恭哉の言葉は最後まで続けられることなく途切れた。大きく見開かれた瞳が自分に抱きつく桜を映す。無理して動いたせいか大きく呼吸が乱れているが、そんなことは気にせず必死に言葉を紡ぐ。


「恭哉は、いつでも、私を守ってくれてる。恭哉の言葉が、存在が、私を支えてる。だから・・・」


それまで休むことなく動いていた口が止まる。言いたいことが怒濤(どとう)のように押し寄せてきて上手くまとめられない自分が本当に腹立たしい。


「そんなこと、言わないで・・・」


掠れた声でそう続けられ、恭哉は押し黙る。自虐的な恭哉の言葉を聞くのが堪えられなかった。悲しそうな顔も辛そうな顔もしてほしくなかった。恭哉は笑って偉そうにしているのが一番似合う。


「守るから・・・」


胸中で荒れ狂っているだろう感情を全て完璧に押し殺した彼の声が耳元で優しく囁かれる。桜は上手く動かない腕で恭哉を抱きしめたまま頷く。恭哉は桜の頭と背中に腕を回し、きつく抱きしめる。


「俺が、護る ・・・」


絶対違えない。体に、魂に刻み込んだ誓い。守りたい。桜を。初めて俺自身を認めてくれた。初めて本気で欲しいと思った女。初めて心の底から守りたいと思った、こいつを。


「うん・・・。信じてる」


桜が連れ去られたと知らせを受けた時、ショックで心臓が止まるかと思った。今まで付き合ってきた女が連れ去られようが怪我しようがなんとも思わないが、桜のときは何もかもが違った。


倉庫に着いたとき、桜が敵目掛けて突っ込んでいく姿を認めた瞬間、考える前に体が勝手に動いた。


失いたく、なかった。


「ずっと・・・守る」


どんなに遠く離れても、必ず守る。


しばらくそうしていると桜の呼吸がひどく苦しげに変わっていった。恭哉の体に回されていた腕から力が抜け、恭哉にもたれかかるような格好になる。そのままずるずる崩れ落ちていくのを感じ、恭哉は慌てて崩れ落ちていく桜の体を支える。


「桜・・・?おい、大丈夫か?」


異能量は生命力(いのち)そのもの。つまり、異能が完全に尽きるという事は死を意味する。まぁ普通は死んでしまうまで異能を使う前に『リミット』がきてそれにストップをかける。


『リミット』の症状は人によって異なり、回復するまでの時間も違う。特に異常系異能者と無能力者から異能者になった者の『リミット』は体に異常をきたすものが多く、回復するまでの時間も長い。


「悪い。無理させた」


詫びながらゆっくり桜の体をベッドに横たえる。桜は苦しそうな呼吸を繰り返し、縋(すが)るように恭哉の手をつかむ。その手をそっと握り返し、小さく訊ねる。


「俺はここにいたほうがいいのか?」


「・・・いて・・・お願っ・・・・・・。一人に、しないで」


恭哉の手を摑む手に少し力がこもった。初めて桜に率直に甘えられ、恭哉はくすぐったいような気持ちになりながら空いている手で桜の髪を梳く。


「わかった。ここにいる。だからそんな顔すんな」


桜は今にも泣きそうなほど顔を歪ませていた。どうしたんだろう。今日の桜は桜らしくない。いつもなら甘えたりこんな顔をみせたりはしない。


「・・・家族、以外で・・・・・・初めて・・・守るって・・・言ってくれたのが、嬉しかった」


いつもいつも一定の距離を置いてきた。弱音を吐かず、一人でやってきた。誰にも頼らないように、縋(すが)らないように、常に気を張ってきた。その壁を初めて崩し、そして初めて好きになった恭哉に守ってやると言われ、純粋に嬉しかった。


「何度でも言ってやるよ」


瞼をこじ開けると端正な顔がある。紅い目が細められ、ゆっくり近づいてきた。


温かなものが唇に触れた。


「お前は、俺が護る」


耳元でそう囁かれ、薄く開いた紅玉色の瞳に薄い膜が張る。それは眦に溜まり、つぅとこめかみの方へ流れ落ちていく。優しい指先が撫でるように雫を拭い取るが、それすらも意味をなさないほど流れ落ちていく温かい涙。


「ありがとう・・・。恭哉・・・」


涙に濡れた声が嬉しそうな響きを含む。ふっと口元を緩めた恭哉は片手で止まることを知らないかのように流れ続ける涙を拭い、もう片方の手で線の細い髪を梳く。


「ずっと、俺が護る」


しばらくすると少し苦しそうな寝息が聞こえてきた。最後の一滴を親指で払うと覆いかぶさるような体勢を解く。眼下にある安らかとは言い難い寝顔を見つめ、その無防備な姿と日頃の態度の差に笑みを零す。


「あの日、俺は誓ったんだ」


桜はあらゆる面で他の女とは違かった。たいていの女は俺の外面と財閥の息子という肩書きしか見ず、内面など見向きもしなかった。なのに桜は外と内、両方を見てその上で俺に手を差し伸べてくれた。


俺が今まで前を見て歩いてこれたのも、外の世界へ出たいと望んだのも、すべて桜(こいつ)がいたから。桜が俺の前に立って先を照らしてくれたから、俺は迷わず自分の行きたい道を行けたんだ。望み通り生きてこれたんだ。


「ありがとな、桜」



独りじゃない。そのことがこんなにも幸せで、温かくて、心地のよいものだとは知らなかった。


それを教えてくれたのは、紛れもなく、今彼の前で眠る少女だったのだ。

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