怖い事
あなたにとって、一番恐い事はなんですか?
人それぞれ恐い事は違うと思います。他人から見れば「そんなことが恐いのかよ」と思われるようなことでも、その人にとってはこの世の何よりも恐い事かもしれない。
そんなことを思いつつ書いてみました。
ちなみに私は黒くてカサカサするGが嫌いです。
ではお楽しみください。
授業終了のチャイムが鳴り響く。
キーンコーン
「やっと、終わった~」
ようやく鳴ってくれた終わりを告げる音に体内のものをすべて吐き出しそうなため息をつく。
え?テストの結果?聞かないでください。口にもしたくない。
答案用紙を鞄に叩き込むと力尽きたように机に突っ伏す。
今日の授業は終わった。それと同時に自分の人生も終わりそうだ。16年か。長かったような短かったようドカッ。
今までのことを頭の中で思い返していると突然脳が揺れた。ふら~とよろめいた桜は倒れる寸前で踏み止まり、ふるふると肩を震わせる。
「痛ぇ・・・。なにしやがんだよ、渚」
体勢を戻し、ギロリと見下ろす先にいるのは腰に手を当てて偉そうにしている渚の姿。ちなみに、桜の思考を遮った音の正体は渚の鞄。もっと正確に言うと、渚の鞄が桜の頭に当たった音だ。
結構大きな音がしたのは教科書等が入っていたからだろう。
「人の昼寝の邪魔しやがって・・・」
ゆっくりと持ち上がった拳がブルブル震えている。そのまま渚に殴りかかろうとした瞬間、視界の端に美優の姿をとらえた。このまま渚を殴ると、ついでに彼女まで殴りかねない。慌てて軌道を変える。
「うおっと・・・危ね・・」
ほっと息を吐き出す、危うく関係ない人までも殴り飛ばすとこだった。当の美優はほっとした顔で右手を左右に振っている桜に目を留め、不思議そうに首を傾げながら声をかける。
「あっ、桜ちゃん。今日は部活あるの?」
「いや、ないよ。けど、多分執行部の仕事が入るかなぁ」
「そうか、それは好都合。俺らのとこに来い」
「はっ?」
突如割り込んできた声の主は、恭哉だ。ということは・・・。嫌な予感が脳裏を過ぎる。
「全力でお断りさせていただきます!!」
顔の前で大きくバッテンを作って丁重に断る。おまけとばかりに首が千切れんばかりの勢いで左右に振って全力で拒否する。あそこには桜の大っ嫌・・・じゃなかった、苦手な人がいるのだ。
サッカー部の臨時マネージャーとして行くたびにあの人にネチネチ嫌味を言われわざとらしくない範囲で嫌がらせを受けつつ雑用を押し付けられ何度門限を過ぎそうになったことか。
嫌だと言おうにも周囲に人目がある時にさも申し訳なさそうに言うものだから断るに断れず、結局こちらが折れざるを得ない状況を作り上げてくるからなおたちが悪い。
部長やキャプテンがいない隙を見計らって言ってくるのだから確信犯としか言いようがないだろう。
「いいじゃねぇか。お前、暇なんだろ?」
「暇じゃない。執行部の仕事がある。まだ正式任命されてないけど」
「正式じゃないんならサボっちまえ。マネージャーの仕事優先」
マネージャーという単語に唇の端がヒクッと引き攣ったのがわかった。確かにサッカー部のマネージャーだ。やるといった覚えはこれっぽっちもないが。
「私が、い・つ、サッカー部のマネージャーやるって言った?無理矢理マネージャーにさせられただけなんですけど」
「いいからいいから。行くぞ」
腕を掴まれ強制連行。こういうとき男女間の筋力差が恨めしい。蹴りや肘鉄を食らわせてどうにか逃げ出そうと必死な抵抗をしながら渚に叫ぶ。
「美優ちゃんは今日部活ないけどお前はあるんだろ!?一緒に帰ろう。四時半に昇降口で待ち合わせな!」
一方的に告げられた内容にはぁ?とでも言いたげに眉を寄せた渚だったが、仕方ないとため息ひとつ挟んで答える。
「いいけど・・・サッカー部って7時までやってるんじゃ「逃げる」あ、そう」
きっぱり言い切った彼女の顔は本気だ。7時までやってられるかという本音がこれでもかというほどこもっていた。彼女は無駄に有言実行。ということは、必ずその時間までには正門に来るだろう。
文字通りすべてを蹴散らして。
「了解。4時半に正門で」
これで完璧?
男子生徒と階段を下りながら、桜はずっと黙り込んでいた。
この後アイツに会うと思うだけで、テンションが地にめり込む。いや、もはや人生の運気すら削られていく気がする。
少しひんやりした風が、頬をかすめて通り抜ける。階段のざらっとした手すりに触れた指先に、わずかな冷たさが伝わった。遠くから、体育館の中で弾むボールの音や、声が混ざった賑やかな音が届く。
「なあ、桜ちゃん。そんな暗い顔すんなよ。ちょっと顔出すだけだって、そんなに構えるなって」
男子生徒は軽薄な笑みを浮かべながら、ぐいっと桜の腕を掴んだ。
拒絶の意思は完全に無視されている。図々しく馴れ馴れしいその態度は、疲れ切った心身に余計なストレスを重ねるばかりだった。
「おい、放せよ。そんな無理強いすんの、どんな神経してんだよ」
背後から聞こえた冷静で低い声。振り向けば、恭哉がすっと現れていた。
彼の瞳は冷静で、どこか鋭く、男子生徒の腕を軽く掴んで無理なく制する。
「っ……恭哉?」
男子生徒は一瞬ひるんだが、すぐに軽い笑みを浮かべて取り繕う。
「別に大したことじゃねぇよ。ただの通りすがりってやつだ」
「……桜が嫌がってるの、わかってんのかよ?」
恭哉の声は静かだが、明らかに警告の色を含んでいた。
男子生徒は咳払いをして、少しバツが悪そうに腕を離すと、慌ててその場を後にした。
その瞬間、場の空気ががらりと変わった。
ひりついていた緊張がふっと溶けて、周囲が静まり返る。
遠くの喧騒だけが薄く耳に残り、淡い夕暮れの風が階段の隙間をすり抜けていった。
桜の髪がふわりと揺れ、スカートの裾が静かに揺れる。
自分でも気づかないうちに強張っていた肩が、ようやく緩んだ。
二人きりになった階段。恭哉が一歩前に出て、桜を見やった。
階段の下から差し込む夕暮れの淡い光が、彼の横顔をわずかに照らす。
「無理させんなよ。お前がそんな顔してるの、俺は絶対に許さねぇからな」
その言葉は優しいのに、どこか強い覚悟が感じられ、桜は思わず視線を逸らした。
「別に、助けてほしかったわけじゃない」
少し強がるように言う桜に、恭哉は苦笑混じりに答えた。
「わかってる。でも、放っておけるわけねぇだろ」
彼の声には、どんなに小さなことでも桜を守りたいという熱意が溢れていた。
ふっと微笑み、彼は髪をそっと撫でる。その指先は温かく、自然と桜の心を和らげる。
「本当、無理すんなよ。そうじゃなきゃ俺、黙ってられねぇ」
「うっさいな……」
照れ隠しに背を向けた桜だったが、胸の内には確かな安堵が広がっていた。
遠くから、校舎の隅で鳴く鳥の声が聞こえ、柔らかな夕風が桜のスカートを揺らした。
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
言い残し、恭哉は颯爽と階段を駆け下りていった。
彼の後ろ姿は、まるでどんな困難も打ち砕くかのように凛々しく、眩しかった。
桜は深く息を吐き出し、頭の中を整理しながら考えを切り替えた。
お腹も減ったし、どこかでお弁当を食べようか。
それとも寮に帰ろうか。あ、そういえば渚と約束してたっけ?確か天文部は自由参加だったはず。
「よし、渚と一緒に飯食って一緒に帰ろう。決定」
決断が固まると、桜は足早に特別棟の屋上にある天文部の部室へ走り出した。
夏の夕暮れは穏やかで、空には薄い橙色のグラデーションが広がっていた。
——恭哉はその背中を見送りながら、わずかに息をつく。
「……今すぐじゃなくても、少しずつ、な……」
風が木々の枝を揺らし、カサッ……と乾いた葉の音が耳をくすぐる。
校庭の隅を、夕陽がじわじわと赤く染めていく中、木陰に腰を下ろした二人の男子生徒が、無言で弁当をつついていた。
どちらも箸を動かしてはいるが、その所作はどこか落ち着かない。
そんな空気の中、軽い調子で春が切り出す。
「なぁ、おかしくね?」
声に含まれた笑みの奥には、拭えない不穏がうっすら滲んでいた。
「……何が?」
龍護が淡々と応じ、視線も弁当から動かさない。
「何がってさ、あいつら――三珠の継承者が高等部に入ってんのに、外の連中が静かすぎんだろ?」
口調は軽いが、目はどこか緊張を帯びている。
「……ああ、確かにな」
返事は短く、重く、何かを計るような間があった。
「いやいやいや、お前もうちょい危機感持てって! 逆に怖ぇわ!」
春は肩をすくめて笑うが、その笑いはどこか乾いていた。
無意識の焦りが、額に浮いた汗となって滲んでいる。
「三珠が情報ガチガチに絞ってるから、外には漏れてないだけかもしれねぇ」
「それはわかってるけどさ……最近、妙な話を耳にしたんだよな」
春は箸を止め、弁当箱の中を見つめる。声のトーンが落ち、空気がやや重くなる。
龍護がちらと視線を上げると、春は少し口ごもりながら続けた。
「三珠を狙ってた連中――いつの間にか、何の痕跡もなく消えてるってさ」
風がぴたりと止まった。
あたりの音が一瞬、遠のいたような錯覚が生まれる。
龍護は無言のまま咀嚼を続ける。
春はその様子に眉をひそめ、肩に手をかけて何か言おうとした――その時。
「こんなとこにいたんすか! 探しましたよ、龍先輩、春先輩!」
元気な声とともに姿を現したのは恭哉。息を整えながらも、目の奥に張りつめたものを宿している。
「遅ぇ。外周三周な」
「マジでやめてくださいって! 先輩ってばブラック!」
両手を顔の前で合わせる恭哉に、春はくくっと笑いを漏らす。
「冗談だって。……でも、ちょっと遅かったな〜? さては桜ちゃんと寄り道でもしてたんじゃねぇの?」
「そ、そんなことないっすよ!」
恭哉が思わずむせかけ、春がいたずらっぽく笑う。だがその笑顔の奥には、何かを測るような鋭さが走る。
「……まぁいいや。座れよ。こっち来い」
「失礼します」
恭哉は腰を下ろし、木陰の空気にふぅっと肩を落とす。春はちらりとその様子を盗み見て、わざとらしく問いを投げる。
「で、テスト、どうだった?」
「んー、先輩たちは?」
「俺? まぁ……ちょっと寝た。いや、半分は起きてたぞ、…たぶん」
「いやそれ、ほぼ寝てたやつじゃないですか」
「バレた? てへっ」
と、ふざけながらも春の視線は恭哉の拳へと滑る。そこに、微かに入り込んだ力の緊張を見逃さない。
龍護は弁当箱を片付けながら、ぽつりと呟く。
「……寝てた」
それを聞いた恭哉は思わず苦笑する。
「さすが……」
「毎回それでそこそこ点数取れてんのおかしいと思うんだ俺は!あー、また千夏に怒られんのかな。あいつ、地味に追い込んでくるから」
「そんなドSキャラでしたっけ、夕空って」
「なめるな。あれは“静かに詰める系”の本気モードだ」
冗談混じりの会話に、ふと沈黙が混ざる。
春は、空の色の移ろいに気づいていた。
夕陽が沈みかけ、朱から群青へと色を変えるその空を見上げながら、ふっと口を開く。
「……なぁ、恭哉」
「はい?」
「お前、ちゃんと警戒してんだろうな?」
春の声には、先ほどよりも確かな芯がある。おどけた口調のまま、けれど視線だけは真剣だった。
「……してます。だから、龍先輩たちのとこにも顔出しました」
拳を見えない何かから守るように、恭哉は強く握る。その小さな仕草に、春は何も言わず――ただ、一度だけ瞬きをした。
「……なら、いいけどな」
静かな間のあと、春がぽつりと尋ねる。
「で、桜は?」
その問いに、恭哉は一瞬、息を止めた。
胸の奥がきゅっと痛む。誰にも言えない、ささやかな痛みだ。
「桜なら……今頃、真海と飯でも食ってると思います」
視線を落としながら呟くその言葉に、春がすかさず食いつく。
「おっと、龍くん動いた〜。まさかとは思うけどさ……桜ちゃんのこと、気にしてんじゃねぇの?」
「……してねぇ」
一瞬だけ、龍護の箸の動きが止まる。
それでも顔色ひとつ変えずにそう返す彼に、春はにやっと笑い、肘で小突いた。
「否定が早い! わっかりやすいな〜お前、ほんと」
「うるせぇぞ、春」
龍護が軽く額をはたくと、春は芝居がかった動きでのけぞる。
「いっってぇ〜〜っ! ……あっ、いやマジでちょっと痛かった……!今のガチのやつじゃない?」
そんなやり取りをよそに、恭哉は静かに拳を握り直す。
彼の視線の先には、藍色へ染まりゆく空。
(……俺は、本当に守れてんのか?)
心の奥に浮かぶざらついた焦燥を、落ちていく夕陽がゆっくりと染めていった。
「よし、今日は誰もいないみたい。久々に静かに過ごせそう」
午後の陽が傾き始めた頃。淡くあたたかな光が、特別棟の屋上を包んでいる。金属の柵やベンチはすっかり熱を帯びていたが、そよ風がそれを和らげていた。
天文部の部室前。渚は塀にもたれて、長い髪を指先で払いながら、静かに腰を下ろす。
遠くでは誰かがボールを蹴る音、グラウンドから響く歓声が風に乗って届いた。鳥のさえずりが途切れがちに聞こえ、雲は流れるように動いている。
膝の上には開けたばかりの弁当箱。湯気が、春の午後の空気にのってふわりと揺れる。
こういう時間が好きだった。誰にも気を使わず、自分のペースで呼吸ができる。幼馴染たちといるのも嫌いじゃないが、一人きりのこの時間は、渚にとって貴重な“補給”だった。
「いただきます」
その一言と同時に――。
ドタドタドタ!
階段を駆け上がってくる足音。あまりにも勢いのある足音に、思わず手を止める。静寂を破るそれは、彼女にしか出せないリズム。
(もしかして……)
次の瞬間、重たそうな金属扉がバンッと内側から蹴り開けられる。午後の光が差し込む中、弁当箱を高く掲げた桜が姿を現す。
「よ~す、渚。一緒に昼飯食べよ」
逆光に浮かび上がったシルエットが、髪をかきあげながら手を振る。その眩しさに、渚は目を細めた。
(せめてドアくらい手で開けてよ……何のための取っ手なのか)
心の中で呟きつつ、渚は桜の元気さに圧倒される。
「何しに来たの?」
突き放すような口調で問いかけるも、桜は晴れやかに笑う。
「まあまあ、そんな冷めた目で見るなって。単純に渚と昼飯食べたいだけだよ」
「サッカー部は?」
「いいのいいの。さっさと食って、すぐかーえろ!」
桜はそう言いながら、勢いそのままに肩から下げた鞄を手に取り、足元に投げるようにドサッと置いた。
革の角が潰れて、埃っぽい屋上の床をこすった音がした。そこに座る気か? と渚が思うより早く、桜は何も気にしない顔で胡坐をかいて腰を下ろす。
渚は心の中で突っ込む。
(あんな乱暴な扱いしてるから、まだ二ヶ月ちょっとなのに鞄の角がボロボロなんだよ)
「私、部活あるんだけど……」
一応言ってみる。無駄だとわかってはいるけれど、言わないとこちらが折れたようで癪だ。
桜はにっこり笑い、
「自由参加だろ?サボろうよ。渚には私と帰る用事があるんだから」
その言い方に渚は何も返せず、わずかに眉をひそめただけだった。
静かに視線を戻し、弁当のひと口目を口に運ぶ。
冷めかけた玉子焼きの甘さが、ほんのり舌の上に広がった。
ふと吹いた風が、桜の髪をふわりと揺らす。午後の光がその髪を透かし、影が渚の弁当にかかる。
「私も飯食うか。あー、腹減った」
鞄をごそごそと漁り、桜は自分の弁当箱を取り出す。
プラスチックの蓋を勢いよく外し、そのままぱたんと開けて構える様は、まるで即席のピクニック。
陽射しを浴びながら、春の空の下で楽しげに笑っていた。
その明るさに、渚は何も言わずに視線を落とす。
黙っているのに居心地が悪くならないのは、桜の存在あってこそだった。
桜は無理に話を広げようとはしないし、沈黙を破ろうと焦ることもない。
ただそこに、自分のリズムで存在している。
そういうところが、嫌いじゃなかった。
静かな時間が流れていく。
グラウンドから届く歓声は少し遠のき、風が塀の影をゆっくりと伸ばしていく。
やがて――。
「……桜」
名を呼ぶ声が、風に溶けるように小さく響いた。
渚がそう呟いたとき、彼女の荷物がいつの間にか移動していた。
さっきまで左側に置いていた鞄が、今は右側にそっと寄せられている。
桜が顔を上げると、渚はそっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに言った。
「……こっち、空けといた。来たきゃ来ればいいよ」
声のトーンは平坦そのもの。
でも――その耳の先が、ほんのり赤く染まっていたのは見逃さなかった。
「……ふーん。じゃあ、遠慮なく」
ゆっくりと立ち上がり、わざと音を立てないように足を運ぶ。
その気配に渚がちらりと目を向けた。
無表情のようで、でも――どこか安心したような、少しだけ嬉しそうな気配。
「……誰が来てくれなんて言った。勝手に来たんだから、文句言うなよ」
「そっちが誘ったんじゃん」
「誘ってない。来たいなら来れば、って言っただけ」
そっけない言葉の奥に、ほんのわずかな優しさが滲んでいた。
その“ツン”とした態度が、渚なりの歓迎なのだと、桜はもう知っている。
桜はその場に腰を下ろし、二人並んで空を見上げた。
午後の風が頬を撫で、二人の影が、ゆっくりと屋上の床に伸びていく。
「ねぇ、質問していい?」
弁当をつついていた渚が、ふと声を落とした。
その声は小さいけれど、風の中でもはっきりと届く。
桜は箸を止め、少し首をかしげる。
「いいよ。何が聞きたい?」
「桜は、“空の珠”に選ばれし者……だよね?」
風の音が、一瞬遠のいたように感じた。
桜はゆっくりと頷く。
「うん、そうだよ」
渚は今さら確認する意味がわからない様子だった。
「嫌だと思ったことはある?」
「……は?」
思わず聞き返してしまうほど、唐突な問いだった。
けれど渚の表情は冗談ではなかった。目の奥には、微かな切なさが宿っていた。
春の光が斜めに差し込み、二人の間に淡い影を落とす。
桜は、ゆっくりと視線を空に向けた。
その青さはどこまでも澄んでいて、雲がゆっくりと流れていた。
「……一度だけなら、あるかな」
絞り出すような声で、桜は答えた。
風が、弁当箱の端を揺らす。
誰もいない屋上は静かで、どこまでも開けていたのに、胸の奥には重たい何かが沈んでいた。
それは、両親がいない理由に関わる。
語るのは苦しい。でも、渚なら――そう思えた。
胸の奥がきゅうっと痛み、呼吸が少し浅くなる。
「そっか……私もあるよ。じゃあもう一つだけ」
渚の声も、どこか遠い場所を見ていた。
「一番、怖いことは?」
桜は一瞬、言葉を失った。心臓がどくんと跳ね、思わず唇を舐めてしまう。
「……怖いこと?」
「うん。目の前で、起きてほしくないこと。絶対に」
その瞬間、桜の脳裏に――あの日の記憶がよみがえった。
焼け落ちた家。
煙の中で叫ぶ声。
そして、戻らぬ人たちの姿。
胸が締めつけられ、喉が詰まりそうになる。
「私は……親しい人の血が流れるのが、怖い」
渚がぽつりと漏らす。
その横顔はどこか儚く、それでもどこかで桜の心に寄り添おうとしていた。
桜は目を閉じた。そして、静かに息を吸い込む。
瞼の裏に浮かぶのは、父と母の微笑み。
もう戻らない、優しい声。
それを守れなかった自分への、深い後悔と痛み。
胸の奥で渦を巻くその感情が、ゆっくりと形をとり始める。
――もう、二度と。
「……もう、二度と……」
唇が、自然と動く。体がわずかに震えた。
「もう二度と、大切な人たちを、失いたくない」
自分に誓う。
強さが欲しい。誰かに守られるんじゃなく、誰かを守る強さが。
『それがお前の心か』
耳元で、風が囁いた。声とも、風音ともつかぬその響きが、心の奥に触れてくる。
屋上の空気が一瞬だけ揺れたような気がした。桜は、はっとして顔を上げる。周囲を見渡すも、誰もいない。渚がこちらを心配そうに見ているだけ。
でも、確かに聞こえた。――自分の中から、確かに。
桜は目を細め、ほんの小さく笑った。それは、自分の中に確かに宿っている“何か”への、無言の返事だった。
あの日から、何一つ変わらない心。
「どうかした?」
突然きょろきょろし始める桜を渚が驚いたように見つめる。
「なんでもない」と笑い、手を振った。
少しだけ目を伏せて、深呼吸する。
――ありがとう。
そっと心の中で囁き、意味もなく渚の頭に手を置く。
「ホントになんでもない。さあ、早く飯食って帰ろう」
「そうだね」
午後の陽射しが、二人の影を少しずつ伸ばしていく。校舎の向こうからは、かすかに吹奏楽部の練習音が聞こえていた。まばらに流れる風が、桜の髪を揺らす。
空はどこまでも青くて、校庭の声は少し遠のいていた。午後三時。日は傾きはじめ、屋上の手すりがつくる影が、じわじわと二人に近づいてきていた。
今日は、いい日だったかもしれないな――そんなことを、なんとなく思った。
「よっし、帰るか」
昼食を食べ終え、桜は軽く背伸びをしてから鞄を背負う。校舎の屋上に差し込む陽は、すでに西へ傾きはじめていて、床や柵に長く淡い影を落としていた。暖かさは和らぎ、少しだけ空気が冷えてきた気がする。
桜が視線を向けると、渚もすでに準備万端だった。スカートの裾を静かに整え、柔らかな夕日を浴びながら立ち上がる。彼女の横顔には落ち着いた凛とした空気が漂っていた。
「そっちも準備出来たみたいだね」
「うん。じゃあ、帰ろうか」
時計の針は16時を指している。特別棟の廊下を抜けて昇降口に出ると、夕方特有の金色の光が校庭を包んでいた。遠くからは吹奏楽部の音色がかすかに響き、グラウンドではボールを蹴る音がまだリズムを刻んでいる。
「まだ日差しが強いね。帰るまでに溶けたらどうしよう」
「溶けるわけないよ。頭の構造、大丈夫?」
「失礼なことをいう奴だ。喩えだよー。た・と・え」
桜の皮肉めいた言い方に、渚はどこか柔らかくからかうような微笑みを浮かべて返す。淡々とした口調なのに、そこに刺はなく、余計に桜は内心で苦々しく舌打ちを抑えた。
ぐぬぬ……と悔しさがこみ上げたが、必死に押し込んで睨み返す。
「子供みたい」
「んだと・・・ッ」
子ども扱いは我慢ならない。鋭い視線を向けると、渚はまるで気にしていないかのように、ゆったりと昇降口を抜けていった。その背に反射的に手が伸びかけるが、ぐっと自制する。
落ち着け、私。校内で殺人事件はマズい……。
「ちっ」
小さく舌打ちをして、桜は彼女の背を追う。渚とは性格的にどうにもかみ合わない気がする。なのに、なぜか親友でいられるのが不思議だった。
外へ出ると、夕方の空気が頬を撫でた。陽はだいぶ傾き、校舎の壁や植え込みが長い影を地面に落としている。空はまだ青いが、所々に茜色が差し始めていた。
「帰りにちょっとサッカー部見てきたいんだけど、いい?」
「どうぞ。私は特に用事ないから付き合うよ」
「ありがと。じゃ、決まりな」
さっさと見て帰ろう、と思い桜は少し早足で先へ進む。すると、すぐに後ろから軽く腕を掴まれた。振り返ると、渚が小さな声で言った。
「ねえ……もう少しゆっくり歩かない?すぐに寮に着いちゃうし」
「なんで?」
「あのね……桜、歩くの早すぎるの。こっちも追いつくのに大変なんだよ」
たしかに桜の歩幅は大きく、人に合わせるのも得意じゃない。無理に合わせようとはせず、けれど伝えるべきことは静かに伝える。それが渚という人間なのだ。
「わかったわかった。じゃあ、のんびり帰ろう。どうせ帰ってもやることないし……って、勉強とかあるけど、まあいいや」
桜は軽く首を振って思考を切り替え、歩幅をゆるめて並んだ。二人の靴音がコンクリートに淡く響き、校庭の隅からは部活動の掛け声やセミの声が遠くに聞こえていた。
「紋章、出たんだ」
沈黙を破ったのは渚の方だった。夕風が吹く中、ふいに出たその言葉に桜は驚いたが、何も言わずに耳を傾ける。
「でも、珠には変化がないまま。……私、本当に正統継承者なのかなって、最近よく思う。護ってもらうだけの価値なんて、あるのかなって」
渚の声音は、静かで落ち着いているのに、どこか自嘲にも似た弱さが滲んでいた。
空には、夕雲がゆっくりと広がっている。色褪せた校舎の壁が茜に染まり、すべてが一瞬、止まっているように見えた。
「……お前が正統継承者じゃないなら、誰がなるってんだよ」
桜は言葉を選びながら、力を込めて告げる。
「選ばれたってことに、意味があるんだ。逃げないで、ちゃんとそこに立ってろよ。……そしたら、お前を認めてくれる奴が、絶対に現れるからさ」
昔、自分が弱音を吐いた時に、龍護に言われた言葉。あのとき、どれだけ救われたか、どれだけ胸に残ったか――今ならわかる。だからこそ、自分の言葉にして、渚に返した。
上手く伝えられたかな。
ふと横を見ると、渚は立ち止まって俯いていた。
「逃げずに立ってろ・・・か」
言葉を反芻し、ゆっくりと顔を上げたその表情は、どこか吹っ切れたように晴れやかだった。
「……できるかわからないけど、やってみる。ありがとう、桜」
「……私はお前のこと認めてるけどな」
思わず漏らした本音に、自分でもはっとして口を押さえた。けれどもう遅い。
渚がふっと笑みを浮かべると、そのまま一歩近づいてきて、桜に軽く寄りかかるように抱きついてきた。
「……おい、離れろって!」
「ふふ、ちょっとだけ」
じゃれ合うように笑いながら、二人は校舎の裏手へと進んでいく。グラウンドの端に建つ体育館の白い壁が、西日を浴びて金色に染まり、特別棟とのあいだの道には、吹奏楽部の音が微かに漏れ出していた。
風がそっと木々を揺らし、足元には少しだけ落ち葉が転がっている。
校舎の影が、じわじわと道の先に伸びていた。
今更なんですが、サブタイトルは気分でつけています。特に意味はありません。ただ内容が作者ですらわからなくなりそうなのでそのヒントとなるようなものをサブタイトルにしています。