ある人の『リミット』
最近どんどん冬の寒さが厳しくなってきていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
お久しぶりです、生きてます。
細々と書いてはいるのですが、終わりが見えないですね〜。
それではまだまだ続きますが、少しでもお楽しみいただけましたら幸いです…。
大勢の生徒がグラウンドに集結している中、グラウンドから最も離れた空き教室の扉が勢いよく開かれた。静まり返っていた教室内にその音はやけに大きく響き、すぐに静寂に呑み込まれていく。
全力でここまで走り、教室内に一歩足を踏み入れると同時にその場で膝をついた。極寒の地に裸で放り出されたかのようにガタガタと震えるその身体からは黒い靄のようなものが不規則に吐き出されていた。
黒い靄はふわふわと天井へと上っていき、行き止まりだと悟ると壁を伝って左右へと広がっていく。打ち上げられた花火のようなそれらの一部が開け放たれたままの扉へとゆっくり流れていく様子に床に座り込み震えていた靄の発生源ははっとしたように顔を上げ、這うように扉へ向かうと入ってきた時と同様に勢いよく閉めた。
荒く、不規則な呼吸音のみが静寂を乱す中、黒い靄はどんどん生み出されて室内を満たしていく。窓から射し込む日差しで明るかったはずの室内は、次第に暗く淀んだ不気味な空間へと変貌する。
「・・・・・・ぃ・・・っ」
蹲った体勢で自らの身体を両手で抱きこんでいた靄の発生源が何かを言った。意味のある音になることなく消えてしまったが、確かに言葉を発した。
「・・・・・・・・・くなぃ・・・っ」
ゆらゆらと蠢く靄が四方を囲む壁際を滑っていく。すると、靄が触れた箇所にまるで足跡のように刻まれる何か鋭利な刃で斬りつけたような傷。
それは、教室のあらゆる場所に刻まれていった。
「・・・したく、なぃ・・・」
ベキッと何かが壊れる音。
ガギッと何かが削られる音。
ギギッと何かが引っ掛かれる音。
「・・・ころ・・・したく、ないっ」
様々な音が様々な所から一つのものによって発せられる。それらにかき消されそうな小さな訴えは誰にも届くことなく儚く霧散してしまう。
バキッと何かが割れる音。
メキッと何かが潰される音。
ドスッと何かが刺し貫かれる音。
「ぼく、は・・・殺したくない・・・」
何かを堪えているような、出て行きそうなものを必死に押し止めているような、そんな様子を感じさせる声音。蹲って震えることしか出来なかった靄の発生源である人物はゔぅ、と獣のような唸りをあげながら胸元を漁り、取り出した物を包む包装を乱暴に取り払うと齧り付く。
唐突な勢いで教室内を覆っていた黒い靄が薄れていく。再び日の光が射すようになった教室内はひどい有様だった。台風が通過した後のような、それとも刀剣を使った刃傷沙汰でもあったような、とにかく何かしらあったとしか思えない有様だった。
机という机は押し潰され、あるいは真っ二つに斬られ、はたまた天井や壁に埋め込まれ、もしくは腹に風穴を開けられ、巨大な手で丸めこまれたようになっているのもあった。無傷の机は一つもない。窓ガラスはというと、こちらは鋭い物で引っ掛かれたようにあちこちに傷が入っていたり、蜘蛛の巣のように細かく亀裂が入っていたりとこちらも無傷のものはない。
一番ひどいのは教室の壁で、そこら中に刀傷のようなものが無数に走っている。床だろうが天井だろうがお構い無しで、室内を照らす役割を担っていた電灯は粉々に砕け散っていた。
「・・・」
惨状を見回した人物は一つ深呼吸をするとゆっくりと立ち上がった。身体はもう震えてはおらず、呼吸も安定してきていた。手に持った黒に近い茶色い物を口の中に放り込むと、これ胸元から別のパッケージを取り出す。有名な某お菓子会社によって作られた甘さ控えめのビターチョコレートが姿を現し、パキッと軽快な音を立てて口内に消えていく。
「無くなる前に、買っておかないと」
そんなことを呟きながら扉に手をかけ、廊下に出るとくるりと振り返って謝罪するように頭を下げた。数秒の後頭を上げ、来た時とは違ってゆっくりとした足取りでグラウンドへと向かっていった。
「ん~。龍兄いないなぁ・・・」
探し人がいそうな場所はあらかた探し終えたので屋上にある天文学部部室の上に来てみたのだが、予想が外れたようだ。昇降口から上へと探してきたので、もしかしたらここにいるのかな、と思っていたのだが。
「龍兄の異能の残滓、感じ取れない?」
『あいつが使わない限り無理だ。指輪をつけてなかったら話は別だが・・・まるで感じられないってことはつけてるな』
『グラウンドにわずかな残滓が残ってますが・・・本人の居場所は特定できません。匂いもです』
『我ラモ万能デハナイカラナ』
「だよなぁ」
三人の言葉に小さくため息をつくと森へ顔を向ける。だとしたら螢斗が当たりかな。
黙って森を見下ろす瞳に少し切なげな色がにじむ。
『桜さん・・・』
「うん。わかってる」
心配そうに唸る紅花に笑ってみせ、片膝をつくと彼女の背をなでる。本人は気付いていないだろうが、少し翳りのある笑みだった。気持ちよさそうに目を細める紅花の頭を軽く叩き、立ち上がる。
当たり前じゃないんだ。二人には二人の道があって、自分には自分の道がある。交わることはあっても、ずっと同じ道を行くことはできない。
それでも。
“空の珠”を両手で握り締め、目を閉じる。
「そばに・・・いて」
そう願うことは、いけないことだろうか。
自分は今一人ではない。たくさんの仲間に囲まれている。それに相棒達もいる。それでも時折、本当に時々だが、自分は独りなのだと感じることがある。
そんな時は二人が傍にいてくれた。でも、今二人はいない。
それがどうしようもなく切ない。
『お前は一人ではない。お前が死ぬまで、俺らはお前と共に在り続ける』
「うん。ありがと、桜鈴」
薄く微笑むと同時に屋上の扉が開かれる音がした。目を開けて扉に目線を移すと、真っ直ぐこちらを見ている紅い瞳と目が合った。
「恭哉?」
「よっ」
意外な人物に驚く桜をよそに気さくに手を上げる恭哉。彼は短い助走をつけて軽やかに跳び、天文部部室の上、桜の一歩手前に着地する。常人には決してできない真似だ。
「ちょっ。一般人がいないからってそういうこと気軽にやんない」
「悪い悪い」
反省の色が少しも感じられない謝罪に桜の口から諦めのため息がこぼれる。彼に注意しても無駄だろう。恭哉が何かしでかすたびにお馴染みメンバー(主に悠紀)が注意を促しているが、いっこうに態度を改める気配がない。むしろ注意する回数が増えた。
「何の用?」
「特に用はないが・・・お前と一緒に居たくてさ」
その言葉に込められた真意を読み取り、紅玉色の瞳がわずかに揺れる。髪に手が触れた、と思ったら優しく抱き寄せられた。自分のではない心臓の音が心地よいリズムとなって耳を打つ。
その音を聞きながら桜はゆっくりと目を閉じた。
どうして彼は、いてほしい時に来てくれるのだろう。
「傍に居るから」
「・・・うん」
恭哉の胸に手を当て、桜はその温もりに身を委ねた。
暖かい木漏れ日が射しこむ中、それと相反した冬を感じさせる冷たい風が木の葉を揺らす。そんな静かな森に馬蹄が響く。
ここで断っておくが、この森は三珠学園の敷地内にあるものだ。さらに言うと学園内に馬はいない。
では何故いもしない馬の馬蹄が聞こえるのだろう。
この学園に馬はいない。いるのは異能者と無能力者。異能者には必ず異能の具象化がいる。
もうお分かりでしょう。この馬蹄の正体は・・・。
「紅羽。どう?」
『・・・ダメ。感じられない・・・』
「そうか」
鞍上で小さなため息をつく螢斗が乗っているのは、たてがみと尾と普段はしまってある翼は炎で出来ており、他は純白のペガサス。彼の異能の具象化で、名は紅羽。
広い森へと向かった螢斗は歩いていては埒が明かないと思い、紅羽に乗って龍護を探していた。森の中なので見通しは決していいとは言えないが、常人より僅かながら優れている異能者の視力ならそこまで悪くもない。このまま進んでいけば遠からず見つけられるだろう。
自身の思考に沈んでいると、バサッと聞き馴染んだ羽ばたきが聞こえた気がした。つぃ、と視線をあげると彼のもう一人の相棒、不死鳥の斗真の姿があった。腕を差し出すと斗真は危なげなくそこへ舞い降りる。
『ここから北東に一分進んだところだ』
「そうか。ありがとう、斗真。助かったよ」
お礼代わりに頭を撫でてやると斗真は気持ちよさそうに目を閉じ、瞬き一つの間に消える。話を聞いていた紅羽が北東へ進路をとると、斗真の言ったとおり一分もすると見慣れた後姿を木々の間に見つけることができた。
「龍!」
紅羽の背から飛び降りた螢斗は振り返らない後姿に声をかける。彼の接近に気付いているはずなのに、その背は頑なに動かない。
「龍」
「名を、呼ばれたんだ・・・」
今にも消え入りそうな声が螢斗の耳に触れる。こんな弱々しい声を聞いたのは何年ぶりだろう。彼がまだ天空家に来たばかりの時以来か。
「あの人に、か」
静かな問い掛けに答える声はなかった。代わりに彼を包む空気が肯定している気がした。
「また、一緒に暮らさないかって・・・」
――――「今さら遅すぎるなんてわかってる。都合よすぎるって自分でも思うわ。でも、それでも私は、あなたを捨てて逃げたことを後悔しているの。もう一度、私にチャンスをちょうだい。もう一度、やり直しましょう?私と一緒に暮らさない?」
何を言ってるんだ、と思った。
捨てたことを後悔してる?
チャンスが欲しい?
やり直す?
ふざけるな。今さら何言ってんだよ。俺を捨てた人間が俺と暮らしたいって?都合のいいこと言ってんなよ。あんたのせいで俺がどれだけ苦しんだと思ってる。二度と面見せんな。
そう言ってやりたかったのに、言えなかった。言いたいことがまるで津波のように押し寄せてきて喉の奥でからまり、音にならず消えていった。
「何も・・・言えなかったんだ」
会ったら言おうと思っていた言葉は5万とある。それなのに、そのどれ一つでさえも口に出来なかった。あの女性が去るまで呼吸すらまともにできなかった。
――――「今日の六時。私達が暮らしていたアパートで待ってる」
そう言い残して、あの女性は去って行った。最後まで龍護はあの女性に向き合うことができなかった。
「それで、龍はどうしたいんだ?」
並ぶ形で立ち止まり、螢斗は真っ直ぐ前を向いたまま訊ねる。深く俯いた龍護は力なく頭を振る。
「わからない・・・」
わからない。自分がどうしたいのかも、何をすべきなのかも、すべてわからない。自分の心が口々に別々の言葉を叫んでる。そのどれを選べば正しい道なのだろう。どの道を選んだら後悔しないでいられるのだろう。
「俺が思うに、正しい答えなんかこの世に存在しないし、後悔しない道なんて、どこにもないと思うよ」
考えを見透かしたような言葉に龍護の肩がピクッと反応する。それを知ってか知らずか、螢斗は前を見たまま続ける。
「自分にとっての正しい答えならそれでいいんじゃないのか?たとえその道を選んだことで何が起きようと、自分で選んだ道なら後悔は少ないはず。そうだろ?」
何も言わない龍護の短い黒髪に手を伸ばし、上から押さえつけてくしゃくしゃにかき回す。突然の暴挙に龍護の黒い瞳が一つ瞬き、次にじろっと螢斗を睨み上げる。と、その眼が大きく見開かれた。螢斗の顔を見て。
彼は笑っていた。その笑顔が、彼を受け入れてくれた時の大斗と夕美の顔と鮮やかに重なる。優しく、包み込むような柔らかい陽だまりのような笑み。
――――「今日からここが君の家だよ、龍護」
「龍がどんな答えを出して、どんな道を選ぼうが、俺は、俺達は龍の味方だし、家族だし、兄妹だ。だからな」
一呼吸置いて龍護の髪をくしゃくしゃにしていた手が離れ、握りこまれた拳が彼の左胸に押し当てられる。
「考えろ。龍はどうしたい?」
「俺は・・・」
俺がしたいこと。そんなの決まってる。過去に決着をつけて、螢斗と、桜と、いつものメンバーと未来に進みたい。そのためには・・・。
「会いに行く。会って、話して、聞いて、考えて、その上で俺の答えを出す。道を決める。――――だから」
脇に垂れ下がっていた左手を握り固めるとおもむろにそれを持ち上げ、螢斗の胸へ押し当てる。
「待っててくれ」
互いに互いの胸へ拳を押し当て、見つめ合う二人の頭上から柔らかく射し込む温かな木漏れ日。それが、出会った日の記憶と重なる。
「あぁ。待ってる」
真っ直ぐな言葉に、降り注ぐ日差しにも負けない眩しい笑顔に、変わらない眼差しに、すっと心が軽くなった気がした。
自分の帰る場所は決まってる。それでもあの女性に会って、言いたいことを言って、話を聞く。その上で答えを出す。
そうしないときっと、未来へは進めないから。
そうしないときっと、この先一生後悔するから。
心の奥で温かな笑顔が咲いた。あの日から、もう一度生きたいと思えたあの日から支えになっている、太陽のように温かく、優しく、包み込むように柔らかい四つの笑顔が。
ふっと思わず口元が緩んだのがわかった。
本当に、いつだって、たとえどんな時でも、自分は彼らに救われている。
彼らがいたから、彼らと出会えたから、彼らが俺を見つけれくれたから、今の俺はいる。
彼らと共に在る。それが、俺の選んだ道だ。