習作
狭いホームの中で電車を待つ。線路を挟んで向こう側に立っている中型のマンションには、もう地上デジタルの波が届いているのだろう。後ろの席に座る男子高校生は僕と背中合わせにして、その目の前に広がる夕焼けを「綺麗だよ」とすぐ横の友人に話していたが、その友人は適当に返事をして携帯電話のディスプレイに見入っていた。しかしその夕焼けは多くの人の感動はひかないまでも確かに綺麗であった。天然の氷を薄くスライスしてよく熟したオレンジの上にまぶした様な空だった。ふと顔を手元の文庫本に戻ししばらく読み進めると、主人公がヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読むシーンがあった。そういえば今朝、ヘルマン・ヘッセの事を思い出したのだ。それはもう崩れ落ちた石ころが井戸の水面を揺らす様に唐突に。その出会いは、さながら思わぬ場所で旧知の友人にばったりと出くわした様であった。ギシギシと音をたて電車は止まった。着物を着た女性と数人のエナメルバッグを背負った学生が降り、作業着を着た中年男性が乗り込んだ。僕も後に続く。窓の外を眺めていると、雲がゆっくりと地平の向こう側へ移動を続けていることに気が付いた。空と地平が少しずつずれていき、やがて紺色の夜がやってくる。前には夕日が、後ろにはまだ色の薄い月が準備をしていた。その間を走り続けるこの列車は、その曖昧な関係に境界をひいている様だった。