10. 俺、戻れません(後編)
第十話 俺、戻れません(後編)
馬小屋が見えてきた。
もどるまでに一日半も掛かってしまったが、ヴィオレッタの具合はどうだろうか。
出発前に農夫にはパンと水を頼んでおいたが、約束は守って貰えただろうか。
「ヴィオレッタ!!」
馬を飛び降りて、転がるように馬小屋の扉を開いた。
背中越しの西日に照らされた干し草は、黄金色に輝いて、その中心のヴィオレッタは黄金の羽根を広げた天使のように——
「ほう、本当に戻って来たか。下賎な者だがその気概は褒めてやろう。褒美にその首でエヴァンス家を救わせてやる」
腰の剣を抜いて男は俺に切っ先を向けた。
俺は二、三歩後ずさって尻餅をついてしまった。
拍子に薬瓶やライ麦パンをばら蒔いてしまった。
男は落ちたパンを気にするでもなく踏みつけ、薬だけは拾い上げてポケットに入れた。
こぼれたワインが酸味のある甘い香りと共に染みて広がっていく。
「気にするな、もっと赤くなる」
すっかり腰が抜けて無様に後ずさる俺に向かって、男はゆっくりと振りかぶった。
(すまない皆。俺はもう戻れない)
「オスカー、許しませんよ!!」
ヴィオレッタが咳き込みながら、農夫の家から飛び出して来た。
そして俺を庇うように抱きつくと「おかえりなさい、ヨハン」と言ってまた咳き込んだ。
「お退きください、お嬢様。この男をヒルデガルト殺害の犯人として”持ち帰れ”ばお嬢様もエヴァンス家も救われます」
男は——オスカーは、剣を振りかぶったまま姿勢を解きはしなかった。
「私もヨハンも犯人ではありません」
「当然です。だが事実や真実などどうでもいいのです。求められているのは解決のみです」
何か分からないまま、俺は事件に巻き込まれたことだけは分かった。
もちろん俺は自業自得かもしれないが、ヴィオレッタは純然たる被害者だ。
「お、オスカー。ヴィオレッタが犯人扱いされているのは俺のせいか?」
声が上擦った。
「お嬢様を呼び捨てにするな、下郎」
オスカーは答えずに俺を罵ると、腕に力を込めた。
「いいの、私はヨハンのヴィオレッタですわ」
「お嬢様……分かりました。とにかくその下郎から離れてください」
オスカーはそこでようやく構えを解いた。
踏みつけていたパンの一部が転がった。
「オスカー、何を踏んでいるのですか」
ヴィオレッタは鋭い声でオスカーの足元を見た。
そしてパンを拾い上げると土を払って、指で千切ると口に入れた。
「お嬢様!」
「ヴィオレッタ!!」
同時に叫んだ。
「オスカー、ヴィオレッタは死にました。ううん、生まれ変わりました。搾取の上に成り立つ今の貴族社会は間違いです」
「ですが、貴族は他国との戦争では命を賭して戦います。逃げ惑う平民を守りながら肉の盾となって」
「その戦争だって、王侯貴族の利権に端を生じるものでしょう。どんな美辞麗句も事実と真実の前には無力です」
意図してなのか、ヴィオレッタの言葉はオスカーへの意趣返しのようなものになった。
立ち上がったヴィオレッタの口から、砂を噛む音が聞こえた。
彼女は躊躇う素振りもなくそれを吐き出すと、パンを握ったその左手の甲で口を拭った。
そして右手をオスカーに差し出すと「どうでもいい事実と真実で夢に眠る世界を起こしましょう」と微笑んだ。
片膝をついて手を取るオスカーと微笑むヴィオレッタを、沈みかけた夕陽が緋色に照らしていた。
ああ、オスカーは天使だった。
だって、照らされたヴィオレッタは女神のように見えたのだから。
どう転んでも、俺は戻れなくなったようだ。




