表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

柴犬のバイト

作者: ライト
掲載日:2026/01/13

二十四歳の私の輪郭は、コンビニの蛍光灯の下でいつもぼやけていた。

深夜から早朝にかけてのシフトを終え、自動ドアが嘲笑いを含めた感謝の気持ちを込めた『ありがとうございました』という無機質な電子音を響かせるたび、自分の人生の一部がレジ袋という買い物袋に詰められて消費されていくような、そんな感覚に陥る。

住んでいるのは、築二十年を超えた木造のアパートだ。中はまあまあ広いが、押し入れにカビが出るくらいでそんな面白みのない、色彩を欠いたアパートに住む私の日常に、ある日、小さな変化が訪れた。

アパートのすぐ隣の空き地に、こぢんまりとした一軒家が建ったのだ。越してきたのは、初老に近い物静かな男性だった。

最初は特に気に留めていなかった。都会の隣人関係など、会釈を交わす程度の薄氷のようなものだ。

しかし、その家の庭に『アレ』が現れてからは、私の視線はどうしてもそこへ吸い寄せられるようになった。

柴犬だった。

毛並みは少し硬そうで、陽の光を浴びると、まるで上質なほうじ茶のような綺麗な色に輝く。驚いたことに、その犬にはリードがついていなかった。庭という限られた空間の中で、彼は自由奔放に、しかしどこか秩序を持って動き回っているように思われた。

時に縁側で眠り、時に蝶を追いかけ、時に何もない空間をじっと見つめる。その姿は、義務感で動いているようには見えなかった。

「まるで、アルバイトだな。」

私は、アパートの二階のベランダからその姿を見下ろし、思わず独り言を漏らした。

誰かに指示されるわけでもなく、ただその場所に『いる』という役割をこなしている。私と同じだ。私もまた、コンビニという箱の中で、代替可能な部品として、ただそこに留まっている。

それからの二ヶ月、私の出勤前の儀式は、彼を眺めることになった。

彼が庭の隅で丸まっているのを見ると、

「ああ、今日もシフトに入っているな。」

と妙な親近感を覚えた。

時折、彼と目が合うことがあった。彼は吠えもせず、ただ小さく尻尾を振った。その控えめな振る舞いが、孤独な私の心に、じわりと温かいインクを垂らすように広がっていった。

だがある朝、異変が起きた。

いつものようにベランダから隣家を見下ろすと、そこには静寂だけが転がっていた。翌日も、その翌日も、ほうじ茶色の背中は見当たらない。胸の奥に、小さなトゲが刺さったような不安が走った。コンビニでの接客中も、お釣りを渡す指先が少しだけ震えた。

一週間後、私は我慢できずに隣家の主を訪ねた。

「あの、庭にいたワンちゃんは……。」

主は穏やかに笑って答えた。

「ああ、あの子は保護犬の預かりだったんですよ。昨日、新しい家族が決まって、遠い街へ引き取られていきました。」

そうか、と私は力なく呟いた。

彼は『預かり』という、まさに期間限定のアルバイトだったのだ。そして彼は、私よりも一足先に、その不確かな場所を卒業し、本採用……つまり本当の家族を手に入れたのだ。

喜ばしいことのはずなのに、私の心には、底の抜けたバケツのような虚無感が広がっていた。

それからの一ヶ月、私の世界は再び何もないものへとなった。

コンビニのパンは味を失い、深夜の静寂は以前よりも重く、冷たく感じられた。

ところが、奇跡は雨上がりの午後にやってきた。アパートへ続く坂道を登っていると、聞き覚えのある、短く鋭い吠え声が聞こえた。

心臓が跳ねた。視線を走らせると、隣家の庭に、あのほうじ茶色の毛並みがいた。

「どうして……。」

駆け寄った私を見つけるなり、彼は狂ったように尻尾を振り、前脚で地面を叩いた。再会を祝うダンスのように。

主が困り果てたような、しかしどこか誇らしげな顔で出てきた。

「それがね、あちらの家に行った途端、ひどく暴れたり、かと思えば一切食事を摂らずに黙り込んだりしたそうで。あんなに大人しい子が、どうにも手がつけられないと、戻されてしまったんです…。」

私は彼をじろりと見た。彼は、少しだけ決まり悪そうに目を逸らした後、すぐにまた私の目をまっすぐに見つめ、一回だけ大きく吠えた。  その時、すとんと腑に落ちた。

彼は、新しい職場に適応できなかったのではない。彼は、自分の意思で『ここ』を選び、戻ってきたのだ。いわば彼は、左遷を喰らったのだ。もっと立派な家、もっと裕福な家族という『昇進』を投げ捨て、何もない私という「給料」を求めて、あえて格下げの道を選んだのだ。

「アルバイトの左遷か……。」

私は吹き出した。自分と同じ、不安定で、いつ解雇されるかわからない身分。けれど、彼はその不確かさの中で、私という存在を唯一の価値として選んでくれた。

「あの、もしよろしければ…。」

気がつけば、言葉が溢れていた。

「私が、この子を引き取らせていただけませんか。」

幸い、このアパートはペットの飼育が許可されていた。手続きは驚くほどスムーズに進んだ。 彼が私の部屋に入ってきた瞬間、六畳一間の狭い空間に、命の匂いと温かさが満ちた。言葉では表せない、魂のパズルが最後の一片で埋まったような、そんな感覚だった。

翌日、私はコンビニに辞表を出した。

店長は驚いていたが、私の決意は固かった。  いつまでも『仮の姿』で生きるのをやめようと思った。彼が私を選んでくれたように、私もまた、自分自身の人生を、責任を持って選ぶべきなのだ。

「転職だよ。お前も、庭の番人というアルバイトから、俺の家族っていう大仕事に就いたんだからな。」

私は、部屋の床でくつろぐ彼に話しかけた。   その夜、ベランダからは満月が見えた。アパートの古びた手すりを、青白い月の光が優しく撫でている。私は冷えた缶ビールを一本、カチリと開けた。喉を通る苦味は、かつてないほど鮮やかだった。

柴犬は、私の足元で静かに、けれど力強く一度だけ吠えた。それは、古い自分への訣別の合図であり、私たちが歩き出す新しい道への、ささやかなファンファーレだった。

月光の下、私の一歩は、確かな重みを持って夜の闇を踏みしめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ