7.頑張りましたね
***
一針一針、心を込めて。
針の運びは慎重に、丁寧に。女神様への敬意を込めて。
最後の刺繍をし終えると、フィアは針を静かに抜いた。
「……できた」
完成だ。
「できた……できた、できたっ」
完成だ!
「おめでとう、フィア!」
ルーナが手放しで喜んでくれる。満面の笑みに、フィアもつられて笑顔になった。
「ありがとう、ルーナ。ようやく終わったよ」
「すごいわ、フィア。よくやったわね」
結局フィアひとりで仕上げたようなものだが、そんな事はどうでもよかった。
目の前にあるのは、ため息が出るほど美しい布だった。
裾一面をぐるりと取り囲むのは、細かな葉模様。そこに絡むように、豊穣の麦、繁栄の花、大地を潤す水の流れが形を成して、女神に捧げる祈りとなる。
はっきりと形の分かるものもあれば、抽象的な柄もある。そのひとつひとつが組み合うと、不思議とひとつの模様に見える。
透けるような薄い布地に白銀の糸で刺繍しているため、遠くからではキラキラ光るだけだろう。けれど、近くで見ると、その刺繍の多さと緻密さに驚くはずだ。
最後の刺繍に魔力を通すと、ほんの少しだけ瞬いた。
(完成したんだ……)
やり切ったという達成感と、純粋な喜び。腕はさすがに疲れていたが、嬉しさの方が勝った。
旅人さんも喜んでくれるかなと考えて、思わず頬がゆるむ。
陽の光に透かしてみると、銀糸がうっすらと輝いた。
あとは王都から来る神官を待つだけだ。予定では確か、あと三日ほど。それまではきちんと保管しておかないといけない。
「ねえ、その聖布、どうするの?」
ルーナに聞かれ、フィアは何気なく答えた。
「神殿に預けておくつもり。鍵のかかる戸棚があるから、そこに入れておこうと思って」
「あたしが預かっててあげるわよ」
ルーナが差し出した手を、フィアはまじまじと見つめてしまった。
「…………。なんで?」
「だって、失くしたら困るじゃないの」
「鍵のかかる戸棚に入れておくし、戸棚は頑丈だから、よっぽどのことがないと大丈夫だと思うけど……」
「万が一のことがあったらどうするの。せっかくの聖布が盗まれたら大変じゃない」
さっさと渡せとばかりに、ずいっと手を差し出してくる。フィアは無意識に一歩下がった。
「……し、心配してくれるのは嬉しいけど、大丈夫だよ。この村に悪い人はいないと思うし、ここで刺繍をしてることを知ってるの、村の人だけだし……」
正確に言えば旅人さんは例外だが、彼は家から離れない。それに、刺繍を楽しみにしてくれる人が、良からぬ事を企むとは考えにくい。
「よそ者だっているのよ。気をつけるに越したことはないわ。ほら、フィアのところにいるあの浮浪者! ああいう人だっているんだから」
「旅人さんはいい人だよ……」
「旅人だか旅芸人だか知らないけど、ああいう輩は危険なの。つべこべ言ってないで、さっさとそれを渡しなさい。あたしが預かってあげるから」
「…………」
「フィア?」
嫌だ、と思った。
理由は分からないけれど、なんとなく渡したくない。無意識にもう一歩後ずさると、ルーナの目が吊り上がった。
「ちょっと、フィア――」
「あっ!!」
フィアが後ろを指さすと、ルーナがぎょっとした顔になった。
「あ、あ、あ、あそこっ。今、影が見えたような……っ」
「えっ?」
嘘ではない。本当だ。ただそれが、「木の影」だというだけで。
ルーナが後ろを振り向いた瞬間、フィアは戸棚に聖布を押し込んで扉を閉めた。ルーナが振り向くより早く、近くにあった鍵をかける。カチャリ、という音が響いた。
「フィア、あなた……」
「だ、大丈夫だよ、ルーナ。心配してくれてありがとう。でもちゃんと鍵をかけたから、もう心配ないと思う」
「だったら鍵を渡しなさい。あたしが預かっててあげるから」
「そっちも大丈夫! ありがとう、じゃあ三日後にねっ」
そう言うと、脱兎のごとく駆け去っていく。今日だけは一緒に神殿を出るという約束さえ忘れていた。
(怒ってないかな、ルーナ)
でも、初めて勝った気がする。
こんな風に思えるようになったのも、あの口うるさい人物のおかげかもしれなかった。
***
家に帰って経緯を話すと、旅人さんは珍しく褒めてくれた。
「君にしては上出来です。よくやりましたね、フィア」
「ど、どうも……」
思わず照れて、へらっと笑う。
「完全とは言えませんが、やらないよりはずっといい。そもそも刺繍していたのはほぼ君なので、君に権利があるのですから」
「そうでしょうか……」
多分、ルーナは怒っているだろう。
だとしても、戸棚の鍵を渡す気にはなれなかった。聖布を預かってもらうのも、鍵をルーナが管理するのもなんだか嫌だ。そう思ったのだ。
「そういえば、色糸について聞きそびれちゃいました」
「仕方ないですね。今日はあきらめましょう」
懸念事項がないでもないですが……とひとりごちる彼は、何事かを考えているようだ。だが結局、結論は出ないと判断したらしく、あっさりと肩をすくめた。
「今日はとりあえずお祝いしましょうか。改めて、おめでとう。フィア」
「…………」
「フィア?」
「い、いえ、誰かにおめでとうって言ってもらうの、久しぶりで……嬉しくて」
考えたら、祖父母が生きていた時以来だった。その後は誕生日も祝われる事がなく、めでたいと思えるような出来事もなかったのだ。
「……まったく、君という人は」
深々とため息をついた後、ふわりと軽いものが触れた。
「そういうことを笑って言うから、目が離せないのです」
「……旅人さん?」
大きな手がフィアの頭に落ちて、ぽんぽんとなでられる。
「毎日毎日、よく頑張りました。偉いですよ、本当に」
普段の毒舌が鳴りを潜めた、やさしい声だった。
この人の声はやはり心地いい。胸がすうっとするような、不思議な清涼感に包まれる。
まるで特別な楽器を奏でているようだ。聞いているだけで心が休まり、肩に入った力が抜けていく。そんな風に思える事に戸惑った。
「旅人さんの声って……不思議ですね」
落ち着きますと告げると、彼は当然のごとく胸を張った。
「私はこれでも超がつくほどの有能なのですよ。それが分かったら、君はもう少し私を敬いなさい」
「いつもの態度がひどすぎて無理ですね……」
正直に告げると、機嫌を損ねたらしい彼に、むにっと鼻をつままれた。
「失敬な。生意気な子供にはお仕置きです」
「ふぎゅっ!?」
「肉も私ひとりで食べましょう。久々に甘いものでもと思いましたが、それも私がいただきます。ちょうど二人分ですね。ああ多い多い」
「ち、ちょっと待って、待ってください、食べる、食べますっ」
「遠慮しないでください。すべて私の食事です」
「鬼!」
ぎゃんぎゃん騒ぎながら、ふわふわする気持ちに胸を押さえる。
誰かに褒められる事が嬉しいなんて、とっくの昔に忘れていた。
その日の夕飯は、肉の入ったスープと野菜、ふわふわのパン、おいしいミルク、それから小さな焼き菓子だった。