3.旅人さん
***
翌日、フィアはふたたび神殿を訪れた。
もちろんルーナも一緒だ。彼女は今日も、ほとんど使わない刺繍道具を持ってきていた。
「もう置いてくれば、それ?」
「いいのよ。だって必要だもの」
ルーナは頑として聞き入れない。いつもの事だが、やっぱり不思議だ。
「そうだ、頼まれてた刺繍だけど。これ終わった分」
「いつもありがとう、フィア」
「本当はもう少しあるんだけど、袋に入り切らなかったの。残りは明日持ってくるから」
「頼むわね」
フィアが取り出した包みを、ルーナは自分の刺繍道具入れにしまい込んだ。
「やっぱり自分で届けに行こうか?」
「いいったら」
「でも、昨日みたいに偶然会える可能性もあるし。少し遠回りすれば、私だって……」
「あたしが信用できないっていうの?」
じろりとにらまれ、その鋭さにぎくりとする。
ルーナを怒らせると厄介なのは知っている。とにかく自分の気が済むまでおさまらず、徹底的に当たり散らす。特にフィアに対しては顕著で、報復まがいの嫌がらせまでしてくる。それでいて、終わればけろりとしているのだ。非常に面倒くさい性格をしている。
村人には絶対見せない一面だが、フィアには十分馴染みがあった。
(最近ではなくなったと思ってたのに……)
ルーナは村の人気者で、彼女に憧れている若者も多い。できれば仲違いをするのは避けたい。そうでないと、この先暮らしていきにくくなる。
だから結局、フィアは今回も自分が折れる事を選んだ。
「分かった。よろしくね」
「任せてちょうだい」
ぱっとルーナが笑顔になる。その変わり身の早さはいっそ見事だ。自分の思い通りになった事で、上機嫌で歩き出す。
「ところでフィア、聖布はあとどれくらいで完成しそうなの?」
「十日くらいで終わると思う。少し早いけど、多分それくらい」
「十日ね」
念を押すように言われ、フィアは戸惑いつつも頷いた。
「そうだけど、それが?」
「なんでもないわ」
聞いてみただけよ、とルーナが背を向ける。その唇がかすかに持ち上がっている事に気づいたが、理由までは分からなかった。
***
それからもフィアは神殿に通い、せっせと刺繍をし続けた。
ルーナも相変わらず、何もしようとはしなかった。
フィアから村人への刺繍を受け取り、ほんの数分だけ針を持つ。あとはだらだらするばかり。その繰り返しだ。
それでも針を持つだけマシなのだろうか。
そう思ったところで、そんなはずはないと首を振る。毒されすぎだ、いくらなんでも。
それに、ルーナが見せた態度も気になっている。
出来上がりが待ち遠しいのは同じだが、なんとなく妙な感じがした。
けれど、周囲に気を配ってみても、特別変な事はない。気のせいかとフィアは首をかしげた。
その日も時間いっぱい刺繍を行い、最後に魔力を通してみる。
今日刺した分だけがわずかに光り、チカチカと瞬いて消えていく。いつも思うが、この瞬間が何よりも好きだ。
(あと少しで完成だね)
すべすべした布地をなでながら、心の中で話しかける。
仕上がった刺繍を身にまとうのは刺し手の特権で、誰よりも晴れがましい立場である。
けれど、それよりもフィアが楽しみにしているのは、聖布の完成を見る事だった。
フィアの手で仕上げる、一番の大作。
ルーナも一応数には入るが、実質ひとりで仕上げているようなものだ。
多分、ルーナは「自分も手伝った」という肩書きが欲しいのではないか。
フィアが口にしなければ、ルーナがサボっている事はばれない。だからこそ、使いもしない刺繍道具を持ち込んで、手伝っているふりをしているのではないだろうか。だとすれば、この間の態度にも納得がいく。
長く続いていた刺繍の時間に嫌気がさして、いつ終わるのかと聞いたのだ。ルーナならやりそうな事だった。
(おじさんとのやり取りは分からないけど……)
猫をかぶるのが得意なルーナの事だ。何かあるのだろうが、ろくな話ではなさそうだった。
聞いてもいいが、あの様子では難しいだろう。
家に続く道を歩いていると、野原に花が咲いていた。
薄紫の小さな花に、思わず頬がゆるむ。可愛い。刺繍の題材に良さそうだ。
ここしばらくは聖布と、ルーナに頼まれた刺繍で手いっぱいで、なかなか自分の時間が取れなかった。聖布が完成した後で、何か刺してみるのもいいかもしれない。
声をかけられたのはその時だった。
「失礼。少しよろしいですか」
耳に心地いい、すっとする声だった。
「道をお聞きしたいのですが、こちらはコラド村で合っていますか?」
「あ、はい」
振り向くと、馬に乗った人物がいた。彼は「馬上から失礼」と前置きし、改めてフィアに問いかけた。
「では、神殿はこの先に?」
「はい、そうですけど……」
フィアに話しかけてきたのは、まだ若い男性だった。
全身を灰色のマントに包み、顔をフードで覆っている。目元まで隠れているため、顔立ちはよく分からない。体つきは細身だが、背はそれなりに高そうだ。乗っている馬も毛並みがよく、丁寧に手入れされていた。
「そうですか。ありがとうございます」
フード越しに微笑まれたのが分かる。
柔らかな口調に、フィアもつられて笑みを浮かべた。
「旅の方ですか?」
「そうですね。そんなものです」
「もしかして、宿を探してるんですか?」
馬は素晴らしかったが、彼自身の恰好はひどいものだった。
神殿は旅の人間に宿を提供する事もある。彼もその類かと思って聞くと、相手はわずかに押し黙った。
言いあぐねるような沈黙が三秒、ややあって、「そうですね」と頷く。
「そんなものです。もしくは宿屋に泊まります」
「あ、宿屋は……村になくて」
「それなら神殿で構いません。元々、そのつもりでしたので」
「いえ、それが……」
フィアが困った顔になった。
「今は聖布の刺繍をしているので、空いている部屋がないんです。もう少し前だったら、持って帰ることもできたんですけど……」
さすがに完成間近な今は、神殿から出すのが難しい。それに、ルーナがうるさく騒ぐだろう。面と向かって責め立てられる事を考えると、さすがにちょっと気が重い。
「というと、あなたが刺繍を?」
「はい、そうです」
答えた後でひやりとしたが、彼は旅の人間だ。ルーナの口止めには当てはまらないだろう。そう思って頷くと、彼はまじまじとフィアを見た。
「……それはそれは。素晴らしいことですね」
「この先をずっと行くと、もう少し大きな村に出ます。宿を取るなら、そっちの方がいいと思いますよ」
「それはご親切に。ですが私は、こちらの村に用がありまして」
しかし宿がないのですか、困りましたね、とひとりごちる。
口調とは裏腹に、それほど困っていないように聞こえる。
けれど、彼の様子を見れば、長い時間馬に揺られてきた事は間違いない。少し迷った後、フィアは「よかったら」と口を開いた。
「うちで休んでいきませんか? 水くらいは出せますけど」
「いえ、それは」
「遠慮しないでください。旅人さんが神殿に泊まれないの、私の刺繍が終わらないからですし。馬も休ませないといけないでしょうし」
それに、たとえ村に入ったとしても、このぼろぼろの恰好では嫌がられてしまうだろう。フィアの家なら誰もいないし、家自体も古いので問題ない。
そう言うと、彼はわずかに動きを止めた。
「家にどなたもいないのですか?」
「はい、ひとりで暮らしています」
「失礼ですが、ご家族は?」
「誰もいません。だから、大丈夫ですよ」
気兼ねする事はないのだと笑いかけるフィアに、彼はなぜか額を押さえた。なんとも言えない沈黙が数秒、ややあって聞こえたセリフは予想外のものだった。
「――馬鹿ですか、あなたは」
「…………はい?」
「見ず知らずの男を家に入れるものではありません。もう少し危機感を持ちなさい。もう一度言いますが、馬鹿ですか、あなたは」
「な……」
「お人好しも大概にしないと、悪い人間に骨の髄までしゃぶられますよ」
そうならないように注意なさい、と説教される。思わぬ返答に、フィアの目が点になった。
「い、いえ、でも、お困り……ですよね?」
「確かに私は困っていますが、万が一のことがないようにしろと言っているのです。私の言っている意味、分かりますか?」
「分かりますけど……」
もしや彼は自分の事を? と思ったのが伝わったらしい。非常に嫌そうな仕草をされた。
「そんなはずないでしょう。馬鹿ですか、あなたは」
「まだ口にしてないのに!? あと三回も馬鹿って言った!」
「顔を見れば分かります。三度でも四度でも言いますよ。そんな疑いをかけられるのは業腹です」
失敬な、とため息をつかれる。
「で、でも、自分でそう言って……」
「私は君のような田舎娘にこれっぽっちも興味はありませんが、特殊な性癖の人間もいるでしょう。可能性が限りなく低いとはいえ、そういった連中を排除するためには必要なことです。あと、女なら誰でもいいという輩も一定数はいます。君も一応は女性です」
「…………」
なぜだろう。無駄に失礼な事を言われた気がする。
そして「あなた」が「君」になった。問答無用でフィアの扱いが急落している。
偉そうに腕組みした男性は、そこで一度息をついた。
「――ですが、旅人をもてなそうという気遣いとふるまい。それは及第点を差し上げましょう」
「え……」
「君のやさしさは、聖布の刺し手としてふさわしい。その感動と満足に免じて、自分の倫理観には目をつぶります。君の家はどこですか?」
「え、あ、あそこの屋根の……」
「分かりました。先に馬を休ませてきます」
失礼、と紳士的に断って馬の首を向ける。
離れていく蹄の音を聞きながら、もしやこれは「家に寄らせてもらう」という意味なのかとフィアは気づいた。
(分かりにくい……)
あと、初対面の人間に失礼だ。
でも、フィアの事を思って口にしたのは間違いない。
怒るべきか礼を言うべきか迷いつつ、フィアも家までの道を歩き始めた。