2.女神の聖布
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【女神の聖布】。
この国に生まれた少女なら誰もが夢見るものであり、一番の憧れだ。
聖布と呼ばれる美しい布に、魔力を込めた針と糸で、特別な刺繍を施していく。それを身にまとい、女神へ祈りを捧げるのだ。そうする事で、女神への感謝を表している。
刺繍をする者は【刺し手】と呼ばれる。
年齢は問わないが、通常は未婚の少女で、村一番の刺繍上手とされている。
選ばれた少女は一年かけて、聖布に刺繍を施していく。
女神の聖布には決められた図案が存在していて、その通りに仕上げなくてはならない。刺繍は細かく複雑で、かなりの時間と手間がかかる。手伝いはいてもいいが、ひとりだけだ。
やっとの事で完成させたそれを、神殿から訪れた神官が確認する。
そして合格をもらうと、少女は聖布をまとい、女神のために祈りを捧げる。
その神々しいまでの美しさは、人々の羨望の的である。
それをする少女達は刺し手の他に、針姫や刺繍姫とも呼ばれる。
今回、その刺し手に選ばれたのがフィアだった。
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「あーもう、退屈だわ」
そう言うと、ルーナがふわぁと欠伸した。
「そんなこと言わないで、ルーナ」
「だって退屈なんだもの。ああ、もう、面倒くさい。いつまでこんなことしなくちゃいけないのかしら」
翌日。
早朝に待ち合わせした二人は、いつものように神殿に入った。
神殿といっても名ばかりの、ささやかな建物だ。中にはお祈り用の広間がひとつ、それから小部屋が二つだけ。片方は机や椅子など、様々な用具で埋まっており、空いているのは一部屋だった。
聖布はその小部屋に置いてあり、入れるのは刺し手と手伝いだけだ。それ以外の人間は、完成するまで現物を見る事は許されない。
刺繍を始めてから三十分。すでに作業に飽きたルーナは、とっくに針を置いていた。
いつもの事なので、驚きはしない。ああまたかと思うくらいだ。
ルーナは五分ほど針を持ち、あとはほとんど遊んでいる。寝るか食べるかお喋りするか、それ以外は顔や髪の手入れをするくらい。
なぜここにいるのかと聞いても、彼女はどこ吹く風だった。
「そういえばフィア、昨日は誰にも会わなかった?」
「会わなかったけど」
「ならいいけど。絶対、絶対に、村の人と話しちゃ駄目よ?」
念を押され、分かったとフィアは頷いた。
刺繍を施す際は、誰にも見られてはいけないという決まりがある。
刺繍していない時は問題ないし、言葉を交わすのも禁じられていないが、刺している姿を見せるのは駄目なのだ。それを引き合いに出して、ルーナは刺繍の話題を出すのも駄目だといった。
曰く、
「聖布のことを話したら、それだけ効果が落ちる気がする」というのだ。
考えすぎじゃない? とは思ったが、ルーナが絶対に譲らなかったので折れた。色糸の時といい、ルーナは時々妙に頑固だ。
(まぁいいか……)
フィアのためだと言われれば、大げさだと突っぱねるのも気が引けた。
村人との関係は良好だが、気軽にお喋りするほどでもない。特に最近は色糸を買わなくなった分、めっきり彼らとの交流は減った。
そういえば、ルーナと神殿に通うようになってからだろうか――。
そんな事を思っていたフィアは、化粧道具を取り出したルーナに目をやった。
「退屈なら、先に帰っていいのに」
「いいわよ、待ってる」
「でも、まだしばらくかかるから。見ててもつまらないでしょう?」
「そんなことないわよ。あたしだって手伝ってるんだから、いいじゃない」
どこが? という声をぐっと飲み込み、フィアはこっそりため息をついた。
正直言って、何もしないルーナがそばにいると気が散るのだが、まぁそれは問題ない。
本格的に刺繍を刺し始めれば、雑音はすぐに消え失せる。
けれど、フィアは不思議だった。
ルーナは刺繍が好きではない。
正確に言うと、美しい刺繍を見るのは好きだが、刺すのは大嫌いだ。当然、聖布についても同じである。
最初こそ布地の美しさにうっとりしていたが、すぐにそれに必要な膨大な刺繍の量に気づいてげんなりしていた。
「ルーナはこの部屋にいなくてもいいんだよ? 毎回付き合ってくれるのは嬉しいけど、私ひとりで刺してるし……」
「そういうわけにはいかないわ。刺し手には手伝いがいるでしょう? 王都でもそうなってるって聞いたもの」
そう言いながらも、ルーナはやっぱり何もしない。
彼女が持ってきた刺繍道具も、とっくに蓋が閉じられていた。
やれやれと思いながら、フィアは首を振った。
「じゃあ、私は刺繍に取りかかるから」
「頑張ってね、フィア」
まぁいいかと思いつつ、フィアは作業に没頭した。
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「……ア、フィア!」
はっと気づくと、太陽の位置が変わっていた。
「そろそろ時間よ。片づけましょ」
「え、もうそんな時間?」
途中、糸を替えたのは覚えている。だが残りは記憶にない。よほど集中していたらしい。
指先はわずかに熱を持ち、体全体に心地よい疲れが広がっている。疲労というよりも、満たされている感じだ。
そっと魔力を通してみると、今日刺した部分がわずかに光る。
星の輝きにも満たないほどの、小さな光。
それでもそれは、フィアが刺した証なのだ。
完成まではあと少し。
王都から神官がやってくるのは半月後だから、それまでには十分間に合う。
刺繍道具を片づけて外に出ると、とっくに日が傾いていた。
「じゃあね、フィア」
「うん、また」
神殿を出るのも二人一緒だ。
ルーナと別れる間際、知り合いの村人が歩いてくるのが見えた。
ついこの間、フィアに刺繍を頼んだ男性だ。彼はフィア達に気づくと、気さくな様子で手を上げた。
「やあ、ルーナ。あとフィアも」
「こんにちは、おじさん」
「いつもありがとう、ルーナ。本当に助かるよ」
そう言うと、彼は何かを取り出そうとした。
「あ!」とルーナが押しとどめる。その姿は少し慌てているようだった。
(うん?)
「いいのよ、おじさん。その話はほら、また今度ね?」
「ああ、そうか。そうだったな。それじゃあ二人とも、気をつけて帰るんだよ」
何事か思い出したように頷くと、男性はフィアの顔を見た。
「フィアも、ルーナにばかり頼るんじゃないぞ。いい加減にしっかりしないと」
「はい、……ん、んん?」
「ルーナを見習って、人のためになることをしなさい。いいね?」
彼が行ってしまうと、フィアは目を瞬いた。
「……今の何?」
「ああ、多分、この間荷物を持ってあげたからだと思うわ。それとも、夕飯を差し入れしたからかしら。別にいいのに、大げさね」
「そうなんだ……」
なんとなく釈然としないものを感じるが、判然としない。
(怪しい……)
けれど、確かめてみる術はない。
そういえば刺繍のお礼を言われていないと気づいたのは、家に帰ってからだった。