13.光が足りない
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「し……神官長代理?」
思わず呟いた声が耳に入ったらしい。彼はちらりとフィアを見て、一度静かに瞬きした。
「ええ、そうですよ。言ってませんでしたか?」
聞いてません。
王都から来た神官というだけでもすごいのに、肩書きが「神官長代理」とは。はっきり言って、雲の上の存在だ。口をぱくぱくさせるフィアをよそに、彼はすいと目をそらした。
ここで馴れ合う気はないという意思表示に、慌てて気を引きしめる。
「さて。あなたが聖布の刺し手ですか?」
彼が目を留めたのはルーナだった。
たぐいまれなる美貌の主に、ルーナの目が釘付けになっている。じっと見つめられ、ルーナは慌てて頷いた。
「は、はいっ。あたしがそうです。ルーナっていいます」
「ではルーナ。聖布を拝見しましょう」
「はい、どうぞっ」
ルーナの声が弾む。聖布がルーナの手を離れ、旅人さん改め、神官さんの手に渡った。
彼はじっくりと聖布をあらため、時折手をすべらせる。何を確認しているのか、細かな部分まで子細に眺める。その表情が満足そうに微笑みを浮かべると、彼は鷹揚に頷いた。
「確かに素晴らしい出来ですね。もう一度聞きますが、これを刺したのはあなたですか?」
「はい、そうですっ」
「そうですか。実に見事だ。ここまで美しい聖布は、めったにお目にかかれません」
手放しとも呼べる賛辞に、ルーナが頬を上気させる。
「あなたほどの腕前であれば、王都に呼ばれるかもしれませんね。失礼ですが、王都の神殿にご興味は? もちろん、最高の待遇をお約束しますよ」
「王都の神殿? 本当に?」
「ええ、もちろんです。刺繍の得意な者であれば、どなたでも歓迎しています」
「素敵だわ……」
ルーナがうっとりした顔になる。
王都の神殿は、この国に住む者なら一度は耳にした事のある場所だ。
きらびやかな建物、そこに住まう高位の神官、美しい衣服に贅沢な食事。ごく一部を除き、彼らの婚姻は禁じられておらず、そこで結婚する者も多い。
年ごろの娘なら誰もが憧れる場所だ。ルーナもその例に漏れず、すでに目が輝いていた。
たっぷりと甘い言葉をかけた後、彼はおもむろに聖布を広げた。
「本当に、目を奪われるほどの出来栄えですね。失礼ですが、あなたひとりで刺したのですか?」
「ええ、そうです」
「誰にも手伝ってもらわなかった?」
「手伝いならいましたけど、何もしてません。あたしひとりで仕上げました」
ルーナが勇んで返答する。それを聞き、神官さんの目がすうっと細くなった。
微笑む顔はそのままなのに、妙に怖い。だが、フィア以外は誰も気づいていない。見た事もないほど美貌の神官に、誰もが声もなく見とれている。「そうですか」と彼は言った。
「そうであれば、この聖布はあなたの魔力で輝くのでしょうね」
「ええ、もちろん!」
「では、あなたの魔力で聖布を輝かせ、刺し手であることを証明してください。それで確認は終わりです」
「分かりました!」
そこでルーナがフィアを振り向き、ふふんと顎を持ち上げた。勝ち誇った顔で聖布を受け取り、フィアに見せつけるように広げる。そして魔力を注ぎ込んだ。
昨日と同じ、聖布がキラキラと光り輝く。おおっと村人達がどよめいた。
聖女だ、いや女神だとルーナを褒める声がして、ルーナが得意げな顔になる。
自信たっぷりにフィアを見た後、ルーナは神官さんを見た。そして、首をかしげた。
彼は不思議そうな顔をしていた。
「これでは光が足りませんね。どうしたのですか?」
「え……?」
「聖布はもっと光るのです。これは強い魔力によって反応しただけで、聖布を光らせたとは言えません」
さらりと言われ、フィアは目を瞬いた。それはルーナも同じだったのか、目を白黒させている。
「先ほど触れた時に気づいたのですが、この聖布からは二人分の魔力を感じます。片方はほんのわずかで、たった一日分くらい。ですが、素晴らしい腕前です」
「それはっ……」
ルーナが声を上ずらせる。彼女にはもちろん、心当たりがあるはずだ。
最終日の刺繍。それはルーナが書き換える事のできなかった、唯一のフィアの痕跡だ。
本来ならこっそり書き換えてしまうつもりだったのだろうが、一日早く神官さんがやってきたのと、周囲がお祭り騒ぎだったため、うまくできなかったのだろう。
「……あっ、じっ、実は、少しだけ手伝ってもらったんです。今思い出しました。ほとんど何もしてないから、数に入れるのも違うかなって思って……」
「おや、そうだったのですか。手伝いがいるのは構いませんよ。神殿でも認められています」
何も疑っていない顔で神官さんが頷く。ルーナがほっと表情をゆるめた。
「では、私が少しお手伝いしましょう。足りない分の魔力は私が補います。私はそのために来たのですから」
ご安心ください、ときらびやかに微笑む。ルーナがその顔に見とれ、ぽーっと呆けたのが分かった。
聖布の光が足りない事は、決して珍しくないのだという。
決まりに沿って作られていれば、それでもまったく問題ない。きちんと刺したかどうかが重要なのだ。刺し手の技量も大事だが、大切なのは心。それが証明できればいい。
そう告げた彼は、聖布に魔力を注ぎ込んだ。
澄み切った水のような、深くて綺麗な魔力の気配。これが神官さんの魔力なのか。見た目だけでなく、魔力まで圧倒的に美しい。
ここにルーナの魔力が加われば、聖布は光り輝くだろう。
ルーナもそれを感じたのか、大きく目を輝かせた。
勝利を確信した顔になり、意気揚々と手を伸ばす。次の瞬間、聖布が光り輝いて、その光が――、
消えた。
「……え?」
ルーナがぽかんとした顔になる。
「もう一度やってみてください。大丈夫、落ち着いて」
「え……ええ」
慌てて頷き、ルーナがふたたび魔力を注ぐ。今度は先ほどよりも強く、はっきりと。だが、やはり光は消えてしまった。
「え……え? どうして?」
目を見張ったルーナが、もう一度魔力を注ぎ込む。やはり聖布は光ったが、今度もすぐに消え失せた。
「なに……何よ、一体。どうなってるの?」
昨日の時とはまったく違う。
何度魔力を注いでも、聖布はまったく光らない。ルーナは焦って大量の魔力を注いでいるが、そうすればするほど、却って状況が悪化する。よく見ると、ポツポツと小さな点が浮かび、いびつな形に光り始めた。
後に残ったのは、まばらに光る点々のみ。
やがてひとりがそれに気づいた。
「あれ……針の跡か?」
よく見ると、光っているのはルーナが刺した箇所だった。
ひとつの模様につき、たった一針。
配置も大きさも考えず、ぶすりと中心に突き刺している。
先ほどまでは目立たなかったが、そこだけ光っていると妙に目立つ。おまけに、ご丁寧にも刺繍ひとつにつき一か所、必ず針が入れてあるのだ。
その中にひとつだけ、模様と呼べるものがあった。
刺繍というには見苦しいほどの、ひしゃげた形。ねじれてゆがみ、それを適当にごまかしたせいで、糸がもつれて絡んでいる。針を持ち始めた子供が最初に刺すような、ひどい出来だ。
あれがルーナの言っていた刺繍だろう。
ざわつく村人に紛れて、フィアの耳元で誰かが囁いた。
「――ここからですよ。気合いを入れなさい」
「神官さん……」
目を向けた時には誰もいない。村人達の視線はルーナに釘付けだったため、誰も気づいていないようだった。
改めて、フィアも聖布を眺めてみた。
光っているのはルーナが針を入れた部分だけ。こうして見ると、そのやり口がよく分かる。杜撰な上、模様を無視して刺してある。フィアの手柄を丸ごと横取りしたかっただけで、柄など気にしていないのだ。
一生懸命でありさえすれば、まだいい。
技術はいずれ磨かれる。フィアがそうであったように。
けれど、ふんだんに注がれた魔力で光ったそれは、明らかにそうは見えなかった。