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10.君は何も悪くない


 どうやって家に帰ったのか、まったく覚えていなかった。

 気づくとフィアは部屋にいて、床に座り込んでいた。


「フィア? 帰っているのですか?」


 やがて旅人さんがやって来たが、答える事ができなかった。

 彼は入り口の扉を叩き、ややあってもう一度叩く。さらにもう一度叩かれて、フィアはのろのろと立ち上がった。


 何もする気が起きなかったが、旅人さんがお腹を空かせてしまう。何か食べるものがあっただろうか。冷たいものはできるだけ温めて、硬いものはスープに浸して。できるだけ、旅人さんが食べやすいようにしないと。


 確か彼は言っていた。旅の間はろくなものを食べていなく、あたたかい食事がご馳走だったと。フィアが用意した乏しい食卓にも、文句ひとつ言わなかった。そんな彼を飢えさせるわけにはいかない。


 扉を開ける直前、フィアは顔を引っ張って筋肉を伸ばした。ぐにぐにと揉み込んで、固まった表情をなんとか動かす。かろうじて笑えるようになると、フィアは入り口の扉を開けた。


「すみません、ぼーっとしてました」


 へらっと笑って見えるように努力した。


「すぐにご飯にしますね。今日はお魚のスープにしましょう。パンと茹でた芋も添えて、あとは、ええっと……」

「何があったのです」


 だがすぐに問われ、フィアは思わず固まった。


「え、えっと……何が、ですか?」

「何があったらそんな顔になるのです。答えなさい、フィア」

「別に何も……」

「君は馬鹿で迂闊ですが、愚かではない。その違いが分からないほど、私は馬鹿ではありませんよ」


 だから言いなさいと重ねて問われる。フィアはぐっと押し黙った。


「……ほ、ほんとうに、なんでも……」

「フィア」

「なんでもなくて……」

「話しなさい」

「……なんでも……」

「話せ」

「……だ、だって」

「だってもクソもない。いいから話せ。――できるでしょう?」


 最後だけ取り繕ったように口調が戻ったが、多分彼の素はこちらだ。びっくりしたのと泣きたいのとで、フィアはひくっとしゃくりあげた。


「……せ、聖布、が」


 そこまで言って、喉が詰まる。無理やり熱い固まりを飲み下し、フィアはぎこちなく微笑んだ。


「取られ、ちゃいました。……それだけじゃなくて、今まで刺した刺繍も、全部……」

「聖布を取られた? どういうことです」

「ま、魔力、で、書き換えて……」


 それを聞き、彼の顔色が変わった。


「どういうことです。詳しく話しなさい」

「わ、私にもよく分からなくて……」


 それでも彼に聞かれるまま、フィアはルーナから聞いた事を話した。彼は目を見張っていたが、やがてその顔がだんだん無表情になり、最後には完全な真顔になった。


「……なるほど。そういうことですか」

「だから、今はルーナが聖布の刺し手です。でも、刺繍は私が刺したものなので、よかったら旅人さんも見てくださいね」

「そんな呑気なことを言っている場合ではありません」


 そこで彼はフィアの目を見た。


「刺し手を偽ることは許されません。手伝いならばともかく、あれはほとんど君が刺したものでしょう。だとすれば、刺し手は君です。あの娘ではない」

「旅人さん……」

「他の刺繍も同じです。君が一針一針、心を込めて刺したものです。それを理不尽に奪われるなど、あっていいことではありません」


 知っていますか、フィア、と彼は言った。


「刺繍には思いが宿ります。時には祈りを、時には愛を。刺した者の思いによって、刺繍は意味を持つのです。それは聖布も同じです」

「聞いたこと……あります」


 聖布に刺繍を施す時、祝福の祈りを込めるという。女神への感謝、尊敬、親しみなどをひっくるめて、「祝福」という思いを込めて刺す。フィアもそれに倣い、できるだけの思いを込めたつもりだ。

 けれど、それもすべて奪われてしまった。


 ルーナの魔力は、フィアとは比べ物にならないほど強い。彼女がそうしたのなら、フィアの魔力などひとたまりもない。なすすべもなく書き換えられてしまったのだろう。あるいは、塗りつぶされてしまったのか。


 きっと自分の魔力は、ルーナによって消されてしまったのだ。跡形も残らないほど完璧に。

 悲しくて、苦しくて、どうしようもなく胸が痛い。

 だけど、どうする事もできない。


「君はこのままでいいのですか」

「え……」

「聖布を奪われ、刺繍を奪われて、このまま引き下がるつもりですか。君はそれでいいのですか?」


 彼の目は明らかに怒りをたたえていた。美形が怒ると相当に怖い。以前も思ったはずだが、今はその時の百倍怖い。


「……だ、だって」

「だってじゃありません。小賢しい小娘にしてやられて、泣き寝入りする気なのですか?」

「だって、どうすることも……」

「あの小娘にぎゃふんと一泡吹かせる。そうしたいかしたくないか、どちらです?」


 私はそれを聞いているのです、とぴしゃりと言う。フィアはぐっと唇を噛んだ。


「……したくなく、は、ないです」

「弱い」

「したいけど……無理ですよ」

「まだ弱い」

「……だって」


 フィアは泣かないように口を引き結んだ。


「ルーナは人気者だし、魔力だってすごく多いし。みんなルーナの味方なのに、どうしようもないじゃないですか」

「それはあちらの都合であって、君には何も関係ない」


 取り付く島もない言い方だった。


「仮にあの娘が国王のひとり娘だとしても、君を傷つけていい理由にはならない。それがどうして分からないのです」


 いいですか、と彼は言った。


「騙される方が悪いという言葉が世の中にはあります。確かに迂闊な人間はいる。そう思われても仕方ないほどの粗忽者も、中にはきっといるのでしょう。それでも、あえてこう言います。――『騙される方が悪いわけはない』」


「旅人さん……」


「騙す方が圧倒的に悪いのです。騙された方の落ち度は、迂闊だった。それだけです。君はあの娘を信じ、確認を怠った。それは落ち度ですが、害悪ではない。君が責められるいわれはありません」


 その口調は厳しいのに、どこかあたたかくてやさしかった。


「君は馬鹿ですが、善良です。善人と言い換えてもいい。したたかな小娘ごときに何もかも奪われて、泣き寝入りする必要などありません」

「で、でも、どうすれば」

「神官が到着するのは明後日と言いましたね。村人はそれを知っていますか?」


「え? そうですね、多分」

「では、その裏をかきましょう」


 やられたらやり返すのです、と彼は言った。その声は自信に満ちていた。


「よりにもよって、聖布を悪事に使うとは。そんな舐めた真似をする小娘は、一度ガツンと痛い目に遭うべきです」

「は、はぁ……」

「村人も同罪ですね。一緒に叩きのめしてしまいましょう。――クソ野郎どもが」


 ちっと忌々しげな舌打ちが聞こえる。非常にやり慣れた舌打ちだった。


「い、いえ、そこまでは……あと最後なんか言いませんでした?」

「気のせいでしょう。ところで、彼らに報復は?」

「彼らも騙されていたといえばそうなので……」

「甘い」


 彼はそれを一蹴した。


「きちんと両方に確認せず、一方的な言い分のみを信じる方が愚かなのです。よって彼らも同罪です。異論は認めません」

「え、えぇー……」

「ですが――そうですね。どちらの方が果たして()()か……」


 そこで彼は唇に指を当てた、とんでもなく色っぽくて魅力的な仕草だったが、そこに浮かぶ表情がすべてをねじ伏せていた。


「その娘、ちやほやされることが好きなようですが、合っていますか?」

「え? ええ、はい、まぁ……」

「では、取り巻きが離れていくことは、それなりにダメージがある?」

「はい、まぁ、多分……? あの、何する気ですか?」

「秘密です。――ちなみに聞きますが、村人の性質は? その娘と同じような輩ですか?」

「いえ、素直でやさしいです。今回のことは、ルーナを信じたからで……」


 祖父母がいたころはやさしかったし、今までだって仲良くやって来た。ルーナを好きな男達はともかく、言い過ぎだとかばってくれた人もいる。その人もフィアを信じてくれたわけではないけれど、全員から罵られるよりはマシだ。


 そう言うと、彼はフンと鼻を鳴らした。


「それなら、真実が明らかになればいいでしょう。なけなしの良心が疼けば、それなりに打撃になるはずです。自分の言動を思い出していたたまれず、毎晩枕に顔をうずめて身もだえるようにして差し上げますよ」

「ほ、ほんとに何する気ですか?」

「君が心配することじゃありません」


 気にするなとばかりに手で払い、彼はフィアの顔を見た。


「それと、聖布はそんなに甘くありません」

「え?」

「そんなに簡単に書き換えられるほど、単純なものではないのですよ。君もあの娘も知らないでしょうが」

「旅人さんは知ってるんですか?」


 その疑問に答える声はなかった。


「私は準備があるので、今日はここでお(いとま)します。私がいなくてもきちんと食べなさい。腹が減ってはボコボコの殴り合いなどできないのですよ。いいですね」

「いえ殴り合いする気はないので……え、行っちゃうんですか?」

「明日の朝には戻ってきますので、ご心配なく」


 そう言うと、彼は部屋を出ていった。去り際、慰めるようにフィアの頭に触れて、軽く叩く。その時になって、まだ旅人さんの名前を聞いていなかった事を思い出した。


(何者なんだろう……)


 口が悪くて、態度が大きくて、でもとてもやさしい人。

 綺麗な紫色の瞳が、なぜだか妙に心に残った。

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