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エステル・リシャールが屋敷に戻ってきたのは、灰色の雨が降る午後だった。
黒い傘の下に立つその姿は、まるで彫刻のように整っていて、隙がない。
長身で背筋は伸び、深紅のマントの裾が濡れることも気にしていないようだった。
アメリーは玄関ホールで初めて彼女と対面した。
「あなたが……エステルさんですね。」
「ええ。あなたが“何でも屋”のアメリー・ダヴィッドさん?」
声音は穏やかだった。
柔らかく、優しげで、けれど底が見えない。
コレットにも似ているが、どこか人形のような人とは違う美しさを持つ彼女。
屋敷の誰もが“エステル様”と敬い呼ぶその人は、確かに、人を魅了する雰囲気を纏っていた。
「いろいろと、騒がせてしまってすみません。家族が……混乱していたようね。」
困ったような表情をしていたが、彼女は全く動揺をしていなかった。
「私が視たのは、混乱ではありません。貴女の強い意志により造られた沈黙でした。」
アメリーの言葉に、エステルの微笑がわずかに揺れ、目を細めた。
「沈黙は、時に正しさを保つための手段よ。あなたのような方には、少し合わない考えかもしれないけれど。」
柔らかい口調だが、明確な線引きを感じた。
その日の夕刻。
アメリーは食堂の片隅で、紅茶を飲みながら、コレットと再び言葉を交わしていた。
コレットはエステルが来てから何かに怯えているようだった。
「あなたのお姉さん……なんだか不思議な雰囲気よね。」
アメリーがエステルの話題を振ると、コレットは持っていた紅茶のカップをソーサーにガチャンと戻した。
コレットの紅茶は何かシロップ状の薬のようなものを入れており、普通の紅茶より赤く、液体がぽたりと絨毯を赤く濡らした。
「いいえ。何も。あの人は、最初から完璧なの。いつも正しい。間違ったことなんて、一度もない。」
「今でも本当にそう思ってるのですか?」
「……分からない。でも、たとえ何かあったとしても……きっと、それは正しいことだったんだと思う。私達家族はそう思うしかない。」
まるで自分に言い聞かせるように答える彼女の声には、尊敬と恐怖がないまぜになっていた。
まるで、敬意という名の檻に閉じ込められているようだった。
夜。アメリーはアルベールの霊に話しかけていた。
外から聞こえる雨音が、暖炉の炎と重なり合って微かな旋律を奏でていた。
「流石だね。この短期間で君がここまで迫るとは思っていなかったよ。」
「私が追っているのは、あなたの死因というよりは、この家の思想に近い気がします。」
「そうだね……その思想を最も深く理解していたのは姉なんだと思う。」
その言葉に、アメリーはアルベールの顔を見つめる。
「彼女が一連の呪いの犯人なのですか?」
アルベールは黙った。
答えはない。
ただ、心なしか雨音がやけに響いた気がする。
先に目を逸らしたのはアルベールだった。
「僕は最後まで、彼女を理解できなかった。それでも……最後に見た姉の顔は、子どものころに見た微笑と、まったく同じだった。」
「つまり、変わっていない?」
「いや……最初から、そうだったのかもしれない。」
先程見たエステルの表情に深い暗闇が見えた。
アメリーは思った以上にエステルには底知れぬ恐ろしさがあるのかもしれないと感じた。
翌朝、屋敷に向かうと図書室のある窓からエステルが微笑んだのが見えた。
アメリーはそのまま屋敷の図書室に向かい、エステルに挨拶をすると、エステルはにこやかに笑った。
「おはようございます、アメリーさん。」
エステルはそう言って、分厚い古書を閉じ、アメリーの顔にそっと触れる。
「貴女の瞳、すごく綺麗。貴女のまっすぐな性格が瞳にも表れているわ……ねえ、時々思うの。まっすぐな人ほど、傷つけられやすいって。」
エステルの深く青い瞳にアメリーが映る。
「貴女は、自分の行いを正しいと思っていますか?」
「ええ、もちろん思っているわ。正しさとは、選び取るもの。誰かが決めるものじゃない。」
「では、誰が選んでいいのですか?」
「そうね……組織を一番理解している組織の権力者がその組織の正しさを選ぶべきだと思っているわ。」
そう言って立ち上がるエステルの背に、アメリーは確かにひびのような何か違和感を感じた。
完全無欠に見えるその背中にも、決して人には見せられない亀裂があるのではないか。
だが、それが後悔なのか、歪みなのかは、まだ分からなかった。
「私がやるべきなのよ。」
エステルはそう呟いた。
ぼやりと誰かの影がエステルの姿と重なってアメリーは視えたが、それが誰かまではわからなかった。
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