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霧のように淡く、だが確かに胸に残る記憶がある。
それは感情という名の残滓。
言葉ではなく、映像でもなく、ただ心の奥底に沈殿した、ある感覚。
アルベール・リシャールは、それを思い出と呼ぶにはあまりにも曖昧な形だと思った。
アメリーと庭園を歩いていると、アルベールがぽつりぽつりと話し始めた。
「君がここに来てから、少しずつ思い出すようになった……僕が死ぬ、その夜のことを。」
「どんなことを思い出したのですか?」
「雨が降っていた。外は冷たくて、窓ガラスがところどころ曇っていたのを覚えている。でも、屋敷の中は静かだった。雨音を聞きながら、息がどんどんできなくなって、死んでいったこと。」
アメリーは頷き、話を促した。
記憶は、時に印象に残った出来事だけを切り取って残す。
「……不思議と恐怖はなかった。自分はこうなることをなんとなく分かっていた気がする。ただ、それ以外に選択肢があったんじゃないか。自分の選んだ選択肢は正しかったのか……そんな曖昧な苦しさばかりが残ってる。」
アルベールが記憶を辿ろうとすると、ぴたりとアルベールの影が止まった。
「どうしたのですか?」
「……うちの庭園にあのような像はなかった。」
アルベールが指を指したのは、噴水近くの白い像だった。
よく見ると、それは雪像だった。
雨のせいか所々溶けている。
アメリーが手で雪像に触れると明らかな違和感があった。
アメリーが手の冷たさを気にせずに必死に雪像を崩すとそこにはコレットが埋もれていた。
「コレットさん!」
青白く、意識はなかった。
ただ、脈をとると、小さく脈打つ感覚がしており、心臓も息も止まってはいなかった。
まだ生きている。アメリーは慌てて救急車を呼んだ。
その夜、病院でコレットの無事を確認したアメリーは屋敷に留まることにした。
アルベールの書斎にこもり、日記の断片や手紙、家族間の書簡を洗い直すために。
ある便箋の一角に、小さな文字で書かれた手紙があった。
筆跡は明らかに急いで書かれたものだった。
『僕はもう、この呪いを止めることはできない。でも、お願いだ。家族を誰か守ってほしい。例外はない、家族全員を。それが“正義”なのかどうか、僕にはもう分からない。僕達は常に怯えていた。でも僕は今でも君を信じている。』
宛名はなかった。
けれどアメリーは、文中にある「君」という言葉が指す相手を、すぐに悟った。
そして、読み進めているうちにアメリーは一つの可能性に気がついた。
その可能性はまるで現実味がなかった。
アメリーはぞわりと背筋が凍るような感覚に陥った。
「いや……ありえない。でも、不思議な能力を持つ私がありえないなんて可笑しいわよね。可笑しな能力を持つ何でも屋こそ、前提を疑って、あらゆる選択肢を見つめなきゃ。」
アメリーはそう言い聞かせた。
翌日。天気の悪い日々が続いていたが、その日は久しぶりに天気の良いひだった。
太陽に照らされて、アルベールの霊は、少しだけ強い光を纏って現れた。
「僕が、何がしたかったのか。少しずつ分かってきた気がした。」
「家族を守りたかった?」
「そう。呪いに怯えるような環境を変えたかった。なぜ呪いがこのように根付いてしまったのか知りたかった。」
「でも、あなたは結局、突き止められなかった。いや、意図的に突き止めなかったのかな。」
「うん、本当はわかっていた。それでも、結局僕は矢面にすら立てず終わってしまった。だからこそ、僕が死んだことで、何かが終わったのなら……それで良かったのかもしれないって、どこかで思っていた。」
アメリーは彼の前に歩み寄り、冷静に努めながら、言った。
「さっき、ワインの貯蔵庫に立ち寄ったんです。そしたら、一角だけ不思議なワインが並んでいました。ワインを開けてみると特徴のある香りがして、液体の状態も特殊でした。コレットが持っていたシロップ状の薬と同じ……コレットが飲んでいるシロップ入りの紅茶は普通の紅茶とは違う色をしていました。あれは……血なのではないですか?村に蔓延る疫病ではと噂されている死……それは貴方達が引き起こしていたのではないでしょうか。非現実的な話ではありますが、吸血鬼の末裔なのではないでしょうか?」
アメリーは震えた手でひと瓶持ってきたワイン瓶を捧げる。
霊能力の類のものがあれば、吸血鬼なんて怪奇現象も存在は否定し切れない。
アルベールはじわりと涙を浮かべた。
「凄いね、君は。本当に凄いよ。だから、君に頼んだんだ。僕では伝えられない真実でさえ、君なら届くと思ったから。」
「死は、終わりではありません。語られなかった事実は、時に誰かの心を止めてしまいます。リシャール家の呪い、この村の不可解な事件を解くためには貴方自身が向き合う必要があります。」
そう言うとアメリーは決して触れることのできないアルベールの頬に触れた。
「……私ができるのは、聞くこと。でも、伝えるのはあなた自身よ、アル。」
その言葉に、アルベールの頬に一筋の涙が伝った。
アルベールは掴むことのできないアメリーの手を優しく包んだ。
「そうだね、メリィ。君の推理通りさ。僕達リシャール家は吸血鬼の末裔。それがこの家ひいてはこの村に災いをもたらしている原因だと思うよ。」
アメリーはその夜、静かに手紙を書いた。
それは誰に宛てるでもなく、ただ心を整えるための言葉だった。
『あなたが選べなかったものを、私は見届ける。あなたが言えなかったことを、私は聞き届ける。誰かが立ち止まっているのなら、私はその手を引いて、もう一度歩き出せるようにしたい。』
リシャール家はかつて不老の力と圧倒的な治癒力を持つ吸血鬼の家系だった。
その権力は村にリシャール家に畏怖の念を抱かせ、浸透させた。
アメリーが住んでいる跡地にかつて住んでいた医者。彼もまた、吸血鬼の力を信じ、リシャール家に殺された人間だった。
そんな中、時代と共に、吸血鬼の力は薄れていった。権力だけではない、血が持つ力が薄れていったのだ。
昔ほど、吸血鬼と言えるほど、完璧な存在ではなくなっていた、
時代と共に、治癒力は完璧ではなく、傷が一瞬でなくなるようなものではなかった。
コレットやジャックの傷が癒えなかったのも、その証だ。
物語のように、にんにくや日光には弱くなかったが、不老ではなくなっていた。
今や、彼らは少し丈夫なくらいで人間と変わらない存在になっていた。
吸血鬼の純血を信じる者は、それを種の絶滅と思い、脅威に感じていた。
リシャール家の混乱がリシャール家の中で蔓延る呪いに変わった。
アメリーは炎の前で手紙を折りたたむ。
すると、外で誰かの気配がした。
窓を開けてみると、窓辺に一輪の花が置かれていた。それは、中庭に咲いていた白い椿だった。
誰の仕業かは、もう分かっていた。
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