ブロークンハーツ・シャイニングウイングス
タイトル : ブロークンハーツ・シャイニングウイングス
著者名 : 原哲結
原稿枚数 : 約300枚(文字換算)
{あらすじ}
終わった。
もう抱けない、キスできない、腕も組めない。
いや、触れることさえできない。
もう笑い合えない、話し合えない、喧嘩もできない。
いや、会うことさえできない。
痛痒い。
なんか、ザワザワする。
背中の方、両肩の下辺り、肩甲骨ら辺が、さざめく感じがする。
もしかして、なのか?
そう、なのか?
こんどの経験は、翼が生えるほどの傷心なのか?
ブチッブチッ
背中の右の方から、肉の爆ぜる音がする。
痛みは、無い。
ブチッブチッ
背中の左の方からも、肉の爆ぜる音がする。
痛みは、無い。
体の中から、肉の中から、生え出ようとしている。
生え出るに従って、服が引っ張られる。
上着内圧力が充満し、上半身パンパン状態になる。
首回りが後ろにハンパなく引っ張られ、首が絞まる。
息が苦しくなって、『あ、ヤバいかも』と思った途端、服が裂ける。
背中が裂けて、翼が飛び出す。
バサッバサッ
バサッバサッ
俺の眼から見えないが、重量感と音から、かなり立派な翼と分かる。
チラチラと羽ばたいてる端さえ、眼の片隅に入る。
色も、『光り輝く』が相応しい色をしているようだ。
いい翼やん。
俺、めっちゃ傷心なんやな。
翼持ちになったからには、翼持ち用の衣服を買わなくてはならない。
上着の、翼出しの部分は、ゴムが入っているやつにしよう。
ゴムが入ってないと、風が通り易いから、冬場寒いからな。
どこが、安くてええもんあるやろ。
かなりな傷心を抱え、でも現実的対応を練る。
泣き暮らしていても、腹は減る。
飯食わなあかんし、出さなあかんし、寝なあかん。
仕事しなあかんし、掃除とかもせなかん。
日々は続くし、人生も続く。
人に翼が生えるようになって、数十年経つ。
ある年齢以上のほぼ全国民、大小の差はあれど、多い少ないの差はあれど、翼を生やしている。
男女関係無く、翼はある。
でもやはり、若い人より年を経た人の方が、翼の数も大きさも勝っている。
また、女の人より男の人の方が、翼の数も大きさも勝っている傾向にある。
翼は、傷心。
それまでの人生において、『どれだけ心が傷付いて来たか』を、翼は表わす。
大きく傷付けば、大きく翼は生える。
何度か傷付けば、何度か翼は生える。
心模様が激しく揺れ動くように傷付けば、美しい模様が浮かび上がるように、翼は生える。
だが、翼は容易に生えない。
ありきたりの傷心では、生えない。
それこそ、一週間ほど飯が喉を通らないような、街から色彩が全て失われるような、それぐらいの傷心でないと、翼は生えない。
小さい翼でも、最低限、それぐらいの傷心はいる。
ならば、大きい翼は然り。
美しい翼も、然り。
[人々に、翼が生えるようになった原因は、分からない。
心に傷を負う様な経験をしたことのみ、翼が生える原因と云える。
男女差、年齢差といった規則的な条件も、見受けられない。
翼が生えるようになったのは、突発的な、
突然変異的な変化によるものと思われる。
ただ、その傾向が、自殺者増加と正比例していることは、指摘できよう。
翼を生やした人数の増加と、自殺者の増加が、
グラフで合い比べると、正しく比例している。
よって、自己嫌悪、自己憎悪、自信喪失といった、各自のメンタル衰弱が、 何らかの作用を及ぼしていると考えられる。
《翼を生やす》のと《自殺する》のは、
『メンタル上、紙一重のもの』と捉えられる。 ]
ここまで打って、ラバネッリは、一旦、文を止める。
一息、吐く。
パソコンの画面に表示されてる文章を読む、読み直す。
コクッとうなずくと、立ち上がる。
ブレイクだ。
休憩だ。
コーヒーだ。
ラバネッリは、コーヒースティックから、粉末をカップに納める。
お湯を、注ぐ。
かき混ぜる。
香りが、立つ。
鼻から、吸い込む
芳しい。
リラックスする。
いい具合に、脱力する、力が抜ける。
博士論文に、取り組んでいる。
正確には、博士論文を補足するレポートに、取り組んでいる。
博士課程における担当教授からの救済策として、レポートに取り組んでいる。
博士論文を、一度は提出した。
テーマは、[翼発生現象についての経緯、現状及びそれに対する一考察]。
担当教授は、難しい顔をする。
「博士論文としては、ちょっと弱いな」
教授曰く、「文章も論点も分析も、悪くない」。
だが、「調べが甘い。浅い」と指摘される。
もう、提出期限ギリギリ。
書き直す時間は、無い。
ラバネッリはキリキリ悩み、博士課程数年追加を覚悟する。
その時、教授から、救済策が提示される。
「博士論文の補足して、追加レポート出してくれたらええよ」
博士論文は博士論文として、このまま受け取る。
だが、論文このままでは、課程を修了させて、博士を名乗らせるわけにはいかない。
だから、論文を補足するレポートを出してくれ。
レポートに関しては、あと一週間の猶予を認める。
ラバネッリは、教授のこの提案に、飛びつく。
教授と念入りに打ち合わせをして、補足レポートに盛り込む内容を詰める。
打ち合わせの結果、ラバネッリが今まで集めた資料や事例で、補足レポートの内容はほとんど賄えることが判明する。
後は幾つか改めて、資料・事例収集をするだけで済みそうだ。
こんなラバネッリであるが、ラバネッリ自身には、翼は無い。
博士課程の年齢時分だと、翼の一つや二つ生えているのは珍しく無いし、その方が多い。
が、ラバネッリには、翼は無い。
ラバネッリは、経済的余裕のある、格式の高い家に生まれた。
学校も、幼・小・中・高・大と、学費さえ納めればエスカレーター式に上がれる、超お坊っちゃんお穣ちゃん学校に通って来た。
大学卒業後、金の心配は勿論無いので、就職せずにそのまま大学院に行っている。
で、博士課程を経て、博士課程を終わろうとしている。
ハッキリ言うと、ぶっちゃけて言うと、ラバネッリは挫折を知らない。
心が傷付いた経験が、無い。
少しはあるかもしれないが、それは、かすり傷程度のもの。
だから翼も、生えていない。
翼の生えた経験の無い者が、翼が生える現象について論文を書いているのだから、片手落ち感は否めない。
そんな批判には、ラバネッリは、こう返すことにしている。
「真逆の立場からしか、見えないこともあるんです」
聞き様によっては、傲慢とも云える発言。
しかし、ラバネッリの家は、学校側に多大な寄付を積み、金銭のみならず学校施設・用具の寄付も行なっている。
それに加えて、ラバネッリの家は、出自がしっかりとした家格の高い家。
ラバネッリの発言におもねる者はいても、表立って反対する者はいなかった。
ラバネッリ自身は、おそらく意識してないのだろうが(当たり前と化しているのであろうが)、大学院及び大学上層部において、ラバネッリの増上慢、我儘は目に余るようになる。
その為、ラバネッリに批判的な、敵対意識を持つ者は、増えるばかりだった。
本人が無意識の内に、自分の敵を育成する流れに嵌まっている。
この博士論文補足レポートの一件も、ラバネッリの(家の)権力に対する、大学側の妥協案なのかもしれない。
『大事な院生(お客さん)を、無碍に扱うことはできない』、ってな感じで。
[翼の生えた人々は、翼の機能を活かして、主に次の三つの職に従事する。
一、運送業
二、旅客運輸業
三、保養業
具体的に言えば、一の運送業は、物資を運ぶ仕事。
二の旅客運輸業は、人を運ぶ仕事。
三の保養業は、人を癒やす仕事になる。
翼の構成も、職種によって異なる。
運送業に於いては、大翼1:小翼1の構成が多い。
この通りでなくとも、大翼と小翼の組み合わせが、多く見受けられる。
これは、大翼のパワーを活かして、物を沢山運ぶ役目。
また、小翼の小回りを活かして、物を迅速に配送する役目。
大小の翼に役割を分担させ、仕事をこなしている為と考えられる。
旅客運輸業に於いては、小翼3の構成が多い。
この通りでなくとも、複数の小翼を持つ従事者が、多く見受けられる。
これは、人を運ぶことに関しては、
配送業従事者よりも、翼のパワーに依存しない為と考えられる。
人を目的地に運び届けるには、小翼の小回りが適していると云えよう。
保養業に於いては、中翼2の構成が多い。
この通りでなくとも、一つか二つの中翼を持つ者が、多く見受けられる。
これは、翼の飛翔の力より、
翼の色の、質感の、動きの美しさを、眼目としているからだと云える。
翼の美しさを提示して、その翼の美しさを持って、人を癒やすので、
パワーや小回りは必要無いからだと思われる。
しかし、色の美しさや翼の質感・動きを見せるには、
それなりの大きさは必要なので、小より中と云うことだと考えられる。
加えて、多過ぎて煩雑な印象にならなければいいので、
一つより二つなのだと考えられる。 ]
ラバネッリは、思い出す。
各職種の人々を、聞き書き調査した時のことを、思い出す。
各職種の人々の違いは、まず、姿形の違いで判断できた。
体格の立派な順で言うと、一.運送業、二.旅客運輸業、三.保養業になる。
これは、力仕事の順でもあるから、想像は付く。
他に明確な相違点と云えば、リュックの違いがあった。
翼の生えた人々は、翼を格納する為に、例外無くリュックを背負う。
その方が人目に付かず、身動きも取り易いからだ。
リュックはワンタッチで開く様になっており、翼を使いたい時に、ストレス無く翼を広げられるようになっている。
リュックの形態は、業種によって様々。
業種によって、翼の数や大きさが異なって来るので、それは当たり前。
が、コストの関係で、業種毎には、なるべく定型が用いられている。
各人によって細かな違いはあれど、業種毎に、形や色は統一されている。
運送業は、大きめの横長方形型で、赤色。
旅客運輸業は、小さいめの縦長方形型で、青色。
保養業は、上記二つの中間サイズの、やや縦長の長方形型で、黄色。
ラバネッリは、赤いリュックを背負い、まず運送業に従事する人々の事例を、調査しに行った。
前記のように、運送業従事者は、概して体格がいい。
翼も、立派だ。
大きく雄々しい翼と小さくキビキビした翼、二つを備え付けた者が多い。
物を多く迅速に運び、的確にスケジュール通りに配る。
その仕事振りには、定評がある。
いや、「すこぶる好評」だと、言っていいかもしれない。
好評の訳は、もう一つある。
仕事が丁寧、であることが上げられる。
やはり、大きく傷付いた経験があるから、人の気持ちに添えるのだろう。
配送依頼者の気持ちに寄り添って、仕事をこなすことができるのだろう。
そう云うわけで、美術品を運ぶことも多い。
美術館、寺院、神社、その他を問わず、どこかで大きな展覧会が企画されると、翼の配送業者に依頼されることが多い。
と云うか、今や、ほとんどだ。
絵や彫刻や塑像、古代芸術や中世芸術や現代芸術、物の由来・経歴問わず差別することなく、丁寧に運ぶ。
緩衝材で何重かに包み、シッカリとした木枠に仕舞い込み、身体の全面にバルトで結わえ付ける。
配送物は、上・中・下のベルト三点で、シッカと固定される。
しかし扱いは、あくまでソフト。
卵を扱うように、赤ちゃんを扱うように、女性を扱うように。
離陸も、ソフト・テイクオフ。
着陸も、ソフト・ランディング。
先日、全国的に有名な仏像を、奈良から東京まで運んだ際は、輪を掛けて厳重な体制が取られた。
その仏像は細長で、六本の手が左右に広がる複雑な形。
緩衝材は五重巻きにされ、木枠ではなくカーボン枠にされる。
実際の配送には、四人体制が取られる。
まず、上方卯を飛ぶ、仏像を実際吊り下げる人間は、頭・胸・腰・脚・足首と、五点のベルトで仏像を固定する。
その上方を飛ぶ人間と、そのフォローでそのすぐ下方を飛ぶ人間は、二人共、腕にギブスを付けられる。
仏像の腕の左右の広がりに対応して、腕を固定するギブスを付けられる。
仏像の腕を上下から守る形になるので、上から落ちて来る下から上昇して来る障害物を、ディフェンスする為に。
そして、左右には、左右から起こる想定外事態に対応する為、左右一人ずつが附き飛ぶ。
四人の編成飛行は、無事、奈良から東京に到着したが、途中、アクシデントがあった。
下から固形物が、仏像の腕部分を目指すかのように、上昇して来た。
幸い、下方の人間の、ギブスで固定された腕に当たり、仏像自体は事無きを得る。
が、下の人間の腕は、固形物の直撃で、骨折する。
飛んでいる最中、脂汗・冷汗を流しながらも仕事を無事完遂した、翼の配送業者の名声は、ますます高まる。
ラバネッリは、その翼の配送業者を尋ねて、聞き書き調査した。
といっても、聞き書きやインタビューに、一日費やしたのみ。
後は、アンケート形式の調査票を複数人に渡し、後日回収している。
実際の現場経験や、系統だった筋道立てた聞き書きは、一切無し。
翼の配送業者のデータを仕入れる為に要した日数は、ほぼ二、三日。
こんな、『幾らかデータが、集まりゃええわ』で、いい切り口が思い付く訳無いし、いい論文が仕上がる訳が無い。
案の定、表面的な、味も素っ気も無いデータが集まる。
が、デーやを得たことのみで、嬉々として喜ぶ。
ラバネッリは、『なんや、簡単やん』と味を占める。
そして、さっさと、翼の配送業者へのアプローチを切り上げる。
で、次の作業に取り掛かる。
青いリュックを背負い、旅客運輸業に従事する人々の元へ向かう。
旅客運輸業に従事する者は、人を運ぶことを仕事としている。
その為、筋肉質で、動きの機敏な者が多い。
配送業者ほどではないが、人間にを運ぶのにもそれなりのパワーは必要。
また、ワンウェイに近い配送業者の仕事とは異なり、随時、乗客の要望に合わせて、小回りを利かせなくてはならない。
自然、身体つきは筋肉質になり、動きは機敏になる。
仕事内容自体は、《翼のタクシー》と考えてもらったら、それで用は足りる。
身体から吊るしたゴンドラブランコに人を乗せ、目的地まで人を運ぶ。
ハイジのOPのブランコシーンに、近いものがある。
あのブランコのスケール感をマイクロ化し、もっと現代的に安全的にし、移動できるようにした感じだ。
道行くタクシーと違い、道を流しているわけではないので、翼のタクシーは必ず電話等で呼ばなくてはならない。
必要があれば、予約しておかなくてはならない。
それと、一人の翼タクシーには、一人しか乗れない。
家族で移動しようとすると、複数の翼タクシーが必要になるから、急に翼タクシーを用意するのは難しい。
加えて、翼タクシー一人は、車のタクシー一台より、料金が高い。
料金的な問題があってか、タクシー始め他の交通機関程、翼タクシーは普及していない。
ゴンドラブランコの見た目から、安全面に不安を持ち、敬遠する人々も多い。
そのせいか、外国要人、国内要人問わず、そう云う人達を翼タクシーで運ぶことは、皆無だ。
外国要人からは、たまに「翼タクシーに乗ってみたい」とリクエストがあるらしい。
が、安全面・警備面から、全てNGになっているらしい。
翼タクシーの現在地は、人々の移動手段ではあるが、金銭的余裕のある人々の近場への移動手段に限定されている。
でなければ、記念日等の、翼タクシー記念乗車に限られる。
曰く、お手軽なヘリコプター使い、と言える。
ラバネッリは、今度はちゃんと経験した。
お客さん、として。
乗って、眺めを堪能し、むっちゃ楽しむ。
で、翼タクシーへのアプローチを、さっさと切り上げる。
次の作業に、取り掛かる。
黄色のリュックを背負い、保養業に従事する人々の元へ向かう。
翼が四つ、降りて来る。
正確には、上下に並んだ、左右の翼が、二対。
その人は、背中を向けて、翼を見せて、降りて来る。
翼は、それはもう、美しい。
下部の翼は、底は冷寒色だが、上方に向かうに従って、中間色になる。
その色の移り変わりは、グラディエーションで表わされる。
上部の翼は、底は中間色だが、上方に向かうに従って、温暖色になる。
その色の移り変わりも、グラディエーションで表わされる。
二対の翼を使って、冷寒色→中間色→温暖色の移り変わりが、グラディエーションで表わす。
それらが、羽ばたく。
色の移り変わりに動きが加わり、色彩が、うねっているようだ。
様々な色の、様々なグラディエーションが、様々に動きうねる。
ラバネッリは、我を忘れて、我を忘れさせられて、その光景に見入る。
薄れる思考の中で、『いつまでも見られるな、見たいな』と思って、フリーズする。
見つめ続ける。
‥ と、背中を向けていた人が、サッと振り向く。
至福の色彩を強制的に取り上げられて、ラバネッリは一瞬、訳が分からなくなる。
「ラバネッリ君だね?」
振り向いた人は、声を発する。
色彩の残像に囚われていた眼に、その人が映る。
ラバネッリは、我を取り戻して答える。
「はい。
鷹ヶ峰大学から来ました、ラバネッリです。
この度は、よろしくお願いします」
畳み掛けて、答える。
ラバネッリの答えを、『興味有りそで無さそで』と云った風情で、その人は聞く。
聞いて、自己紹介する。
「私が、ビアッリです。
こちらこそ、よろしく」
ラスボス直々の、お出迎えか。
てっぺん、早速顔見せか。
ここでの聞き書き調査に於ける最重要対象、それがビアッリ。
《ビアッリ・リラックス》のオーナーにして、一番の稼ぎ頭。
従業員数、数十人にして、業界随一の売り上げと名声を誇る。
ビアッリ及びビアッリ・リラックスには、様々な伝説がある。
まずは、ビアッリ自身にまつわる伝説。
ビアッリに翼が生えたのは、それは手酷い失恋を経験したから、だと云う。
別れ話の時、フラれた際、間髪入れず、翼は生えて来た、と云う。
そのタイムラグの無さ、生えた翼の美しさから、受けた心の傷は推して知るべし。
が、生えた翼の余りの美しさから、今しがたフられた当人の女性から、再度交際を間髪入れず申し込まれた、と云う。
(ビアッリは、その余りの豹変振りに、その女性への熱が一気に醒め一気に冷え、間髪入れず断ったらしい。)
その他諸々、まだ伝説はあるが、それはまた別の話。
次に、ビアッリ・リラックスにまつわる伝説。
元々、ビアッリ・リラックスは、ビアッリ一人で立ち上げたもの。
当面は気楽に、『一人で、事業をこなしていければいいや』とか思っていた。
そこに、ビアッリの家の、当時ビアッリ・リラックスの事務所として使っていたビアッリの部屋に、先輩が来る。
ビアッリが、最初の翼を生やす契機となった傷心時、何かと気に掛けてくれた先輩だった。
先輩は、自分に翼が生えた経験から、何かとフォローしてくれた。
ビアッリは、その先輩の好意に、何度助けられたか分からない、何度癒やされたか分からない。
そこへまたもや、来客がある。
ビアッリが、二番目の翼を生やす契機となった傷心時、何かと気に掛けてくれた後輩だった。
後輩も、自分に翼が生えた経験から、できる範囲で精一杯、何かとフォローしてくれた。
ビアッリは、その後輩の好意にも、何度助けられたか分からない、何度癒やされたか分からない。
ビアッリは、二人に打ち明ける。
「店、始めたんですよ」
「へえ」
「どんな店っスか?」
二人に詳しく、事業内容を説明する。
場の雰囲気が浮き立つ、場の空気が温暖色に変わる。
目を上げた二人の眼から、光が輝いている。
ワクワク感が、隠せない。
「面白そうやな、おい」
「ホンマ、面白そうっスね」
ビアッリは、二人の反応を想定外に感じる。
が、その反応を好ましく、非常に好ましく感じる。
「どうでしょう。
立ち上げたばっかりで従業員俺一人なんで、
二人も加わってくれはりませんか?」
ラバネッリは、おずおず訊く。
二人はニッコリして、意気投合、意気投合。
「望むところだ」
「右に同じっス」
話は、決まる。
超ハイスペードで、決まる。
「じゃあ、お祝いに」
後輩が、スッと右腕を差し上げる。
「ハイタッチで」
「おう」
先輩も、スッと右腕を差し上げる。
「はい」
ビアッリも、スッと右腕を差し上げる。
先輩が、宣誓する。
「我ら三人、生まれし日、時は違えども、同志の契りを結びしからは、
心を同じくして助け合い、困窮する者たちを癒やさん。
上は老人に報い、下は子供を安んずることを誓う。
同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、
同年、同月、同日に生き続ける事を願わん」
パアアアーーーンンン ‥‥‥
各自の右腕が動き、右手を打ち合わせる。
各自の右手から、拍音が奏でられる。
こうして、ビアッリ・リラックスは、本格的に創設される。
こうして、いわゆるビアッリ・リラックス三人衆は、結成される。
その他諸々、まだ伝説はあるが、それはまた別の話。
ラバネッリは、ビアッリに、聞き書きを開始する。
これまでの経験上、人は、翼が生えた経緯を話したがらない。
キッパリ拒絶するか、曖昧も曖昧にするか、むっちゃ遠回しにするか。
『ほぼ、どれかに当て嵌まる』、と言っていい。
が、ラバネッリは、人の気持ちを棚上げして、兎にも角にも訊ねることにしている。
「まず最初に、翼が生えた経緯は何だったんですか?」
「それは、相手とかあることだから、ノーコメントにしといてくれ」
あっさりキッパリ、拒絶される。
ラバネッリは、『あ、そう云うことね』とばかりに、人の気持ちうを慮ることも無く、他人事として流す。
すぐさま、次の質問に移る。
「では、ビアッリ・リラックスを立ち上げる契機は、何だったんですか?」
「それは、あれだな」
「あれですか」
「そう」
「あれとは?」
ビアッリは、『おやっ』と云う顔をする。
『案外、こいつ、下調べ甘いな』と云う意味を、顔にそこはかとなく込める。
「公園での一件なんだが ‥ 」
「例の公園ですね」
‥‥‥‥
ラバネッリは、ビアッリの話しの途中で、自分の言葉を強引にかぶせる。
そのくせ、その話を繋げない、続けない、進めない。
話と云うか、会話そのものも停滞する。
『こいつ、《知ったか》か』と、ビアッリは息を抜く。
一呼吸置いて、話を改めて続ける。
「公園のベンチに座って、読書をしていたんだ ‥ 」
「ベンチで読書ですね」
うざい。
ビアッリは、思いっきり『うざいな』空気を出して、ラバネッリを牽制する。
さすがに、ラバネッリもそれは分かったらしく、以後おとなしくなる。
「雨が降っていない限り、すこぶる寒くない限り、
公園で読書はいいもんだ」
「はい」
「自然光は眼に優しいし、翼の生えた人用のベンチはあるし」
「はい」
公園には必ず翼の生えた人用に、背もたれから翼を出せて、ゆったりと身を任せられるベンチがある。
町中では案外、翼を開放してリラックスできる場が無い。
「しばらく本を読んでいると、後ろの方で気配がする」
「はい」
「『ああ、また、翼でも見てるんやろな』と思って、
そのままにしておいた」
「はい」
「が、気配は、一向に去らない。
それどころか、増えた気がする」
「おかしな話ですね」
「そこで、振り返って、後ろを見てみた」
「はい」
ビアッリは、その時見た光景を忘れない。
眼に、しっかと焼き付いている。
脳に、記憶に、ザックリ深く、インプットされている。
「十何人もの人が、私の翼を見つめていた」
「はい」
「翼を見て泣いている人や、
翼に向かって手を合わせているおばあちゃん、もいた」
「なんと」
「私は、翼を動かすことも、体勢を変えることもできず、
長時間フリーズした」
「はい」
「そこで、フリーズしながら思ったんだ」
「何て、思われたんですか?」
「『俺の翼には、人の思いを揺さ振るものが、あるのかもしれないな』
、と」
「なるほど」
「で、『この翼をいい方に使おう、使うべき』と思ったのが、
ビアッリ・リラックスを立ち上げた、ホントに最初の動機だ」
「なるほど」
その後、幾つか質疑応答を繰り返す。
質疑応答が一段落したところで、ビアッリの部屋(オーナー室)から出て、社内を一廻り案内してもらうことにする。
社内と言っても、二階建てのビルなので、規模としてはさして大きくない。
一階は、随時、各地に派遣する翼の生えた社員の、部署兼事務室兼控え室その他諸々。
二階は、会社のヘッドルームと云うか本社機能と云うか、そう云うものをまとめたフロアになっている。
ここも、ほとんど翼の生えた社員で構成されているが、一階にいる社員より、翼は正直大きくないし美しくもない。
ぐるっと社内を一廻り、ビアッリ・オーナー自ら案内して廻る。
案内の締めに、一つの部屋に向かう。
部屋のドアのプレートには、こうある。
一段目の文字は、《オーナー直属》。
二段目の文字は、《遊撃室》。
《オーナー直属遊撃室》
ビアッリ・リラックス三人衆(オーナー含め)の、集いし部屋だ。
ビアッリ手ずから、ドアを開ける。
中は、真ん中にちゃぶ台が置かれ、その周りに、座布団が三枚配置されている。
布団等を入れるらしき、収納がある。
小さいキッチンと、小さい冷蔵庫がある。
奥は一面、ガラス窓になっている。
その前に、ノートパソコン一台のみを置いた机がある。
机の横には、小さい本棚と、小さいタンスがある。
部屋全体の大きさは、六畳くらい。
いや、もう少し小さいか。
でも、ハッキリとしている。
ここは、学生マンションのワンルームに酷似している。
それも、ひどく、殺風景な。
「ここの住人は、私と、メラーと云う社員と、コーラーと云う社員の
三人なんだが、いつもいないんだ」
ビアッリは、苦笑する。
「私は、自分のオーナー室にいることが多いし、
メラーとコーラーは、各地に遊撃社員として行くことが頻繁だし」
ビアッリは、口調滑らかに続ける。
「ここは、まあ、メラーとコーラーの事務室兼控え室兼三人の談話室
みたいなもんだね」
「メラーさんと、コーラーさんですか」
「メラーは僕の直接の先輩で、コーラーは僕の直接の後輩なんだ。
会社の立ち上げ時から、参加してもらってる」
「それは是非、お会いしてお話しを聞きたいです」
「今度、機会を作るよ。
それに、二人の翼は面白いから、是非見てもらいたいから」
「どんな風に、面白いんですぁか?」
「それは合ってからの、お楽しみだ」
ビアッリは、いたずら小僧っぽく、微笑む。
後日。
ラバネッリは、ビアッリに呼び出され、ビアッリ・リラックスの社屋まで行く。
社屋の、オーナー直属遊撃室まで行く。
室のドアを開けると、ちゃぶ台の周りに、三人が鎮座ましましている。
向かって、中央にビアッリ。
ビアッリの右側に、ビアッリより座高が高い人。
ビアッリの左側に、ビアッリより座高が低い人。
ビアッリは右側の人を、まず紹介する。
「私の先輩の、メラーさんです」
メラーが頭を、ガッと下げる。
次にビアッリは、左側の人を紹介する。
「私の後輩の、コーラーさんです」
コーラーが頭を、ピョコッと下げる。
向かって右から、メラー、ビアッリ、コーラー。
向かって右から、大、中、小。
向かって右から、いいガタイ、やさ男、ちょっとチビ助。
ラバネッリは挨拶もそこそこに、聞き書きに入る。
まずは、ビアッリ・リラックスの立ち上げ時について。
次に、その後の事業展開。
続いて、現在のビジネス状況について。
既に、ビアッリから聞き及んでいたことが多く、重なる項目が多い。
目新しいことはほとんど聞けず、期待は外れる。
途中、ビアッリと、メラーとコーラーの出会いも取り上げられたが、ラバネッリは興味が無いのでスルーする。
「では、最後に」
ビアッリが、眼で促す。
促された二人は、背から、黄色の格納リュックを外す。
途端、二人の翼が露わになる。
翼の大きさは各自違うけれども、それぞれの体格に比して考えると、大翼と云えるのだろう。
メラーの翼は、一面に青い龍が、描かれている。
色だけではなく、何かの図案が描かれている翼を見るのは、ラバネッリは初めてだ。
しげしげと見つめる。
その翼が、羽ばたく。
青龍がうねっているように、翼の上で、体をくゆらす。
翼の地の色、青龍の体色、青龍の動きが絡まって、なんとも神秘的で美しい景色を形作る。
『ほお』の口を保ったまま、ラバネッリは今度は、コーラーの翼に目を移す。
コーラーの翼は、幾何学のようなシンプルなデザインが、描かれている。
それは黒で描かれており、翼の地の白色と合わさって、モノトーン以外の何ものも示していない。
ハッキリ言って、メラーの翼の美しさからは、何段も落ちる。
『『まあ、見てなって』』
ビアッリとメラーの眼が、物語る。
コーラーの翼が、羽ばたく。
羽ばたきが、スピードを増す、激しくなる。
『おおっ!』
ラバネッリは、驚く。
想像も、していなかった。
羽ばたいた翼は、白黒モノトーンをリセットし、様々な色を浮かび出している。
レインボー七色、いやそれ以上の色が、翼の動きに合わせて、打ち寄せて渦巻いている。
そのギャップの美しさに、『やられた』感の美しさに、ラバネッリは打ちのめされる。
打ちのめされながらも、どこかにデジャヴュを感じる。
小さい頃、見たような ‥
小さい頃、実験したような ‥
‥‥‥‥
ああ、あれだ!
ベンハムのコマ!
コマの上面に、幾何学的なシンプルな、白黒模様を書く。
そのコマを、廻す。
すると、コマの回転速度が上がるにつれ、コマの上面の白黒模様に色が付いてくる。
しまいに、色がさんざめきカラフルになる。
そして、回転数が落ち止まると、白黒模様に元通り。
なんとも、不思議なコマ。
それが、コーラーの翼上で再現されている。
白黒から、色彩が発生し溢れるとは、なんとも摩訶不可思議な美しさ。
ビアッリには、色の美に癒やされる。
メラーには、絵柄の美に癒やされる。
コーラーには、不思議の美に癒やされる。
この三人が何故、ビアッリ・リラックスのトップなのか。
ひいいては、保養業界・癒やし業界のトップなのかが、分かった気がする。
この三人の翼は、「唯一無二」と言っても過言ではない。
その三人が、トリオを組み、義兄弟の契りを交わしている。
その結び付きは、三人の醸し出す空気から察するに、すこぶる強い、固い。
何故、ビアッリ・リラックスが比較的少人数組織ながら、保養業界の第一企業なのか、分かった気がする。
話しを聞き、翼を見せてもらうと、ラバネッリの聞き書き調査は、一段落する。
一段落すると、その矛先は、ラバネッリ自身に向く。
ビアッリ、メラー、コーラーの質問が、ラバネッリに向かって発せられるようになる。
この研究を始めた動機は、何なのか?
他の人は、翼が生えた後、どうしているのか?
印象に残っている翼の形態は?
等々。
その中でも、最もツッコまれた質問は、次のもの。
何故、ラバネッリは、いい歳になるのに、翼の一つもはえていないのか?
「フツー、大なり小なり一つなり二つ以上なり、
この歳になるまで翼は生えるもんやけど、なんで生やしてへんねん?」
ずけずけと率直に、コーラーは訊く。
『またか』、とラバネッリは思う。
新しい処へ聞き書き調査等に行く度に、毎度同じことを聞かれる。
がしかし、これからのこともあるので、にこやかに返事する。
「ああ、それですか」
ラバネッリは、ウザさをおくびにも出さず、爽やかに続ける。
「まあ、挫折を知らない若輩者と云うことで、ひとつ」
ラバネッリは、世渡りコメントを発して、話題を切ろうとする。
メラーは、切れさせない。
「知らんの?」
話題は、まだ続く。
舌打ちしそうな感情が湧き立つのを押さえ込み、ラバネッリは答える。
「はい。
割りと裕福な家庭に産まれ、何不自由無く育ち、
幼・小・中・高・大・大学院と、エスカレーター式に来たんで」
「ある意味、すごいな」
「そんな人、いるんや」
ラバネッリは、メラーとコーラーから、好奇の目を向けられる。
ビアッリは、半信半疑の面持ちで、ラバネッリに言う。
「ちょっと、上半身裸になって、背中向いてもらえますか?」
「えっ」
「ちょっと、今の話、確認したいもんで」
「はあ」
ラバネッリは、ビアッリの機嫌を損ねるわけにも行かず、不承不承、上着を脱ぐ。
そして、三人に背を向ける。
「 ‥ これは」
「ホンマやな」
「ホンマっスね」
ビアッリ、メラー、コーラーは、確認して合点する。
『『『こいつは、挫折を知らんな』』』
『背中を見ただけで、分かるんかよ?』という疑問を押し殺し、ラバネッリは訊く。
「分かりますか?」
「分かる。
君の背中は、きれいなもんやから」
「はあ」
ビアッリの指摘の意味が分からす、ラバネッリは生返事する。
「翼が生えていなくても、翼が生えるような傷心を経験した人には、
云わば、《ためらい傷》ができる」
「はあ」
「翼が生えようとしたけど生えるまでいかなかった、
翼が生える課程の途中で止まってしまった、
そんな痕が、背中に残る」
「それが、ためらい傷」
「そう」
「リスカみたいですね」
「それの、『百万倍はええ』、と思うけどね」
「違いないです」
「で、君の背中には」
「はい」
「その、ためらい傷が無い。
ためらい傷の、痕跡さえ無い」
「はあ」
「のっぺりすべすべ、きれいなもんだ」
「はあ。
ありがとう御座います」
『ここは、礼を言うとこか?』
メラーは、思う。
『ここで、お礼?』
コーラーも、思う。
『いや、背中の、のっぺりすべすべ加減に例えて、
君の人生経験の不充分さを、指摘したつもりなんやけど』
ビアッリは、心の中で苦笑する。
「そこで、気に掛かることが一つ」
「はい」
「そんな経験の無い君に、『果たして、話すことだけでいいんだろうか?』
と、気に掛かった」
「はい」
「話すことプラス、癒やしを実地体験してもらわないと、
『有益な論文は、書けない』んじゃないかと、思った」
「ありがとう御座います」
「で、実際に体験してもらうことにした」
「はい?」
「こっちで先行して決めたけど、かまわへんかな?」
「はあ。
そういうことなら、こっちも願ったり叶ったり、です」
「それは、いい。
既に、二人には話し通してあるんで、
二人への依頼に、同行してください」
「はい?」
メラーとコーラーが、ほぼ同時に親指で自分を指差し、うなずく。
『ビアッリ・リラックス三人衆の内、二人の仕事を拝ませてもらえるとは。
しかも、あまり公けになっていない、メラーとコーラーの仕事』
ラバネッリは、心の中で、ほくそ笑む。
「まずは、どちらにする?」
ビアッリが、メラーとコーラーを順に見る。
ラバネッリも、二人に目を走らす。
「じゃあ、年齢順と云うことで、メラーさん、お願いします」
「心得た」
メラーは大きくうなずき、ニカッと笑う。
「ほな、行こか」
「えっ、今からですか?」
「なんか、予定あるんか?」
「いや、特に無いですけど、心の準備が」
「横に付いて、見といたらええねん」
「はあ ‥
で、どこに行くんですか?」
「彫り師のとこ」
「は?」
「お得意様の、彫り師のとこ」
「いつも、メラーご指名なんですよ」
ビアッリが、微笑んで言う。
よう考えたら、木を削って彫刻作る人とかは彫刻家、って言うよな。
さもなくば、芸術家とか。
彫り師、とは言わんよな。
そうやんなー。
【彫り師 彫華】
看板には、そう書いてある。
表札を幾らか大きくしたくらいの、味も素っ気も無い看板だ。
木地に、黒色で文字が記してあるだけ。
平屋の、和風家屋。
昭和初期っぽい佇まいで、ここだけ高度成長期が来ていないみたいだ。
磨り硝子の引き戸を開け、メラーは声を掛ける。
「ビアッリ・リラックスの ‥ 」
「おう、ちょっと待っといて」
メラーが全て言い終わる前に、返事が返って来る。
メラーとの付き合いの深さを、表わしているようだ。
待つこと、十数分。
奥からスタスタと、男が一人、やって来る。
歳の頃は、おじさんとおじいさんの間くらいだから、おそらく六十代くらい。
頭は角刈りにし、白髪と黒髪が半々と云ったところ。
男は、近付きしな、メラーに言う。
「お客さんが来ててな。
一段落するまで、手が離せんかった」
「ああ、いいですよ。
気にせんといてください」
男が、『おやっ』と云った顔をする。
「こちら、ラバネッリさんと言って、
鷹ヶ峰大学の大学院生で、論文書く為に、
うちらんとこ来てはるんです」
「ほお」
「で、今日は、俺の仕事を密着取材、みたいな感じで」
「ほお」
「よろしくお願いします」
ラバネッリは、ペコリと頭を下げる。
「ああ、かまへんかまへん。
でも、お客さんのプライベートは、書かんといてな」
男は、ラバネッリに返事する。
背中に、大きめの、一般人用(ベージュ色)の、翼格納リュックを背負っている。
「ラバネッリさん。
こちら ‥ 」
メラーが、手の平を上向きに水平にして、男の方へ差し出す。
「十四代目、彫華さん、です」
ラバネッリは、再びペコリと頭を下げる。
彫華も、少し頭を下げる。
下げ終わると、メラーとラバネッリに言う。
「今日来てもろたのは、次のお客さんに関してやねん。
今やってるお客さんの仕事が片付くまで、居間で休んどいて」
「はい」
彫華は、言うだけ言うと、踵を返して、奥に帰って行く。
返事を軽やかに返したメラーは、ちゃっちゃと、履き物を脱ぐ。
脱いだスニーカーを、揃える。
そして、『勝手知ったる』と云う風情で、ズンズン家の中に上がり進む。
慌てて、置いて行かれないように、ラバネッリも、履き物を脱ぐ。
脱いだスニーカーを、揃える。
遅れながらも、メラーに付いて行く。
メラーが、その部屋の、擦り硝子を嵌め込んだ引き戸を開けると、風が差し込む。
入り口の対面には大きな窓があり、それが開けっ放しになっている。
入り口から見て左右の壁にも、普通サイズの窓があり、それらも開け放たれている。
なんとも、風通しがいい部屋だった。
部屋の真ん中には、ちゃぶ台一つ。
メラーは、端に寄せてあった座布団を二つ、ちゃぶ台の周りに据える。
水屋から、ポットと急須とお茶っ葉入れを出し、湯呑みを二つ出す。
急須に茶葉を入れ、急須にお湯を注ぎ、数秒待つ。
急須から湯呑みに、お茶を注ぐ。
一つをラバネッリの前に、一つを自分の前に置く。
部屋に、お茶の香りが流れる。
部屋に、お茶の香りの雰囲気が、醸し出される。
『ああ、これは』
ラバネッリは、思い付く。
『三人衆の部屋と、おんなじ感じやな』
「いただきます」
「どうぞ」
思い付いて、お茶を啜る。
メラーも、啜る。
ほっこり。
ラバネッリは、しゃべり出す。
「メラーさん、ここ、長いんですか?」
メラーは、答える。
「そやな。
ビアッリ・リラックス立ち上げた当初からの付き合いやから、
それなりに長いな」
「彫師に保養業の組み合わせ、って、あんまり想像できないんですけど、
どんなこと、やらはるんですか?」
「一言で言うと、痛みの癒やし」
「痛みの癒やし、ですか」
「そう。
刺青を入れるってことは、
皮膚を切り裂いて、そこに色入れるってことやから、
多かれ少なかれ、痛みを伴うやん」
「はい」
「刺青入れる箇所によっては、むっちゃ痛いわけや」
「はい」
「痛みに耐えられなくて、叫んだり、泣く人もいる」
「はい」
「そんな人に、俺の翼を見てもらって、
『ひと時の癒やしを、得てもらおう』、ってわけ」
「はい」
「ひと時の癒やしを得て、
刺青入れ作業の間だけでも、作業の邪魔にならんように、
『叫ばんように、泣かんようにしてもらおう』、と云うわけ」
「なるほど」
ラバネッリは、頭の中をまさぐる。
なんか、どっかで、似たような事例に出会ったような。
なんか、デジャヴュ。
あれは、滋賀県やったか。
‥ ああ!
「近江商人!」
「はっ?」
メラーが、聞き直す。
「近江商人、です」
「で、それがなんや?」
「近江商人共通の家訓みたいなものに」
「おお」
「《三方よし》、ってのがあるんですよ」
「おお」
「ザックリ言うと、
『売り手OK、買い手OK、世間もOKで、
みんなハッピーの商売をしようぜ』、
ってことなんですが」
「おお」
「それが、『ここにも当て嵌まるな』、と」
「そうか?」
メラーは、怪訝な顔。
違い過ぎるような気がする。
想定できない。
「例えると、彫師さんが、買い手。
メラーさんがお客さんを癒やしてくれることで、
作業がスムーズに運んでハッピー」
「ふむ」
「メラーさんが、売り手。
癒やしの仕事をすることで、
彫師さんからお金をもらえてハッピー」
「ふむ」
「世間が、刺青入れるお客さん。
彫師さんに綺麗な刺青入れてもらい、
刺青入れの痛みは、メラーさんの翼に癒やしてもらい、かなりハッピー」
「ふむ」
「彫師さん、メラーさん、お客さん。
金銭の介在する商行為とは云え、三方みんなハッピー」
「おお、なるほど」
「今で言うと、Win‐win‐winの関係です」
「お前、ええこと言うな」
メラーは、にんまり顔である。
こう云うとこ、ラバネッリは、そつがない。
ラバネッリとメラーが、にこやかに談笑していると、そこに彫華が来る。
「前のお客さん終わったから、こっち来といて」
「へい」
「はい」
二人は、彫華に続く。
続いて、彫りを入れる作業場に入る。
作業場の中央には、ダブルサイズと思しき、掛け布団が広げられている。
洗い立てのような、真っ白なシーツにくるまれている。
お客さんが替わる毎に、シーツも取り替えているのだろう。
置かれている物を見ると、なんかイメージが違う。
もっと、アンダーグラウンドっぽいと云うか、秘かな医療行為っぽいと云うか、そう云うものを想像していた。
雰囲気は、明るい。
陰影したものは、無い。
まるで、町工場の一画。
思った以上に、メカニカル。
『これは、みんな入れるわ』
思った以上に、抵抗感が無い。
しかも、部屋内の色彩は、暖色系に統一されている。
クリーム色の壁、淡い黄色のカーテン。
そこらかしこの備品は、緑と木地色が基本になっている。
流れる音楽は、もの静かな環境音楽。
窓からカーテン越しに差し込む光は、柔らかく優しい。
これで、タトゥーマシンが無ければ、どこかのリラクゼーション・ルームと間違えるだろう。
町工場の一画とリラクゼーション・ルームが入り混じった空間に、三人は腰を落ち着ける。
ギャップの激しい空間だが、不思議と和む。
やはり部屋の雰囲気、音楽等のせいか。
三人がひと息ついたところで、彫華は話し出す。
「今日のお客さんのことなんやけど」
「はい」
メラーが、うなずく。
ラバネッリは、無言で聞き入る。
「ちょっと訳あり、で」
「はい」
「犯罪性があるとか反社会的とかそんなんやなくて、
お客さんの個人的な事情で」
「あんまり、『大げさにはしたくない』、ってことなんですか」
「うん。
お客さんの背中見てもろたら、分かるんやけど」
「はい」
「背中に、ためらい傷が、たんとあんねん」
「「翼が生えようとしたけど、結局生えなかった」ってやつ、ですか」
「そう。
それがたんとあるから、
『翼が生えようとして生えなかったと云うことは、
この人は、大きくも無く小さくも無く、
中途半端に心を傷付けて来たんやなー』、と」
「はい」
「そのためらい傷を目立たんようにする為に、
俺のところへ、刺青を入れに来てるねん」
「はい」
それが、どうして、メラーの出番になるのだろう。
メラーもラバネッリも、解せない顔を浮かべる。
「一度この前、来てもらったんやけどな」
「はい」
「いざ作業始めたら、痛がって痛がって。
今まで、いろんな人に刺青入れたけど、
あんなに痛がる人は、初めてやった」
「はい」
「でも、女性の背中と云うこともあって、
背中の傷をなんとか見栄え良くしてあげたいねん」
「右に同じ、です」
「そこで、『なんとか痛みを、まぎらわせてもらおう』と思って、
メラー君に来てもろてん」
「ああ、なるほど」
合点した。
疑問は、解けた。
が、そこで、メラーはツッコむ。
「あの~」
「うん?」
「サラッと流さはりましたけど」
「おお」
「何点か、ツッコミ入れたいんですけど」
「おお、ええよ」
「まず ‥ 女性なんですか?」
「そう、女性」
「それは、まずくないですか?」
「なんで?」
「いや、女の人が素肌見せてる時に、野郎二人同席すんのは、
さすがにアカンでしょ」
「ああ、君のことは、前回話してある。
「痛みを和らげてくれる翼を、見せてくれる人」、とかゆうて。
院生さんも、なんとかなるやろ」
軽っ!
よく言えば、力強い楽観主義。
悪く言えば、行き当たりばったり。
ラバネッリは少々、いや、かなり不安を感じる。
が、ここまで来たら、腹を括るしかない。
「じゃあ、それは置いといて」
『置いとくんや』
ラバネッリは、思いツッコむ。
そんなラバネッリの思いはさておき、メラーは話を続ける。
「ためらい傷が沢山ある、と云うことでしたけど」
「おお」
「沢山のためらい傷を誤魔化す為に刺青入れようとしたら、
一回や二回の通いじゃ無理なんやないですか?」
「そやなー。
最低、四、五回は通ってもらわなあかんかもしれん」
「それに全て、俺らは基本的に同席しろ、と」
「そやな」
「いや、聞いてないですよ」
「言ってへんもん」
『言ってへんから、当たり前やん。それが何か?』の顔を、彫華はする。
メラーは、『ぐっ』とした顔をするが、怯まずに続ける。
「ウチ、聞いてないから、予定組んでませんよ」
「今、言うわ。
組んどいて」
メラーは、目尻を下げ、顔を困らせ、それでも泣き笑いスマイルを作る。
ボソッと、自分にしか聞こえないくらいの声で、つぶやく。
「しょーがねーなー」
カスタマーファースト、お客様第一主義。
ビアッリ・リラックスの会社方針の一つは、メラーにもしっかり息づいているらしい。
三人衆は、ある意味、社内アンタッチャブルなので、そこらへんはアバウトだと思っていた。
が、創業の一員であるので、そう云うとこは、そこらへんの社員より自分に厳しいかもしれない。
ラバネッリは、メラーを見る目が、ちょっと変わったかもしれない。
「ほな、お客さん来るまで、ちょっと休憩しよか」
彫華自ら、お茶を入れてくれる。
ザーッと、急須から湯呑みに、お茶を注ぐ。
湯呑みを、メラーの前、ラバネッリの前、自分の前に置く。
三人、一様に啜る。
ほこほこ
ほこほこ
「「「ふう」」」と息をつき、しばらく間を置いて、また茶を啜る。
ほこほこ
ほこほこ
音がしそうな、まったりゆったりした雰囲気に浸る。
三人とも、無言で浸る。
『こんな状態が常態になったら、人間ダメになるなー』
ラバネッリは、『ちょっと上手く言いました』と、満更でもなく思う。
ガラガラ
そこに、引き戸開ける音がする。
「こんにちはー」
女性の声が、挨拶する。
「来はったで」
彫華の声が、仕事の開始を告げる。
「「はい」」
彫華が、玄関口まで、お客さんを迎えに行く。
ラバネッリとメラーは、その場で待機する。
数分して、部屋の引き戸が開けられる。
彫華と共に、お客さんが入って来る。
ショートカットにジーンズ、ロンT姿の、女の人が入って来る。
化粧っ気は、無い。
『あー』
一目、女生を見て、ラバネッリは思う。
『このパターンかあ』
メラーも、思う。
カッコと姿形からして、男にとって親しみ易そう。
男受け、が良さそうだ。
化粧っ気が無いところも、なにげなくプラスポイントだろう。
でも、相撲に例えると、合口の良い水入り相撲みたいな。
立会い、がっぷり四つに組めるけど、お互い動かず動かせず、勝負が長引いて水入りになる、みたいな。
早い話、人当たり良いし話し易いし、ある程度まではすぐに仲良くなれる。
でも、それ以上は、『デンとして進まん』みたいな。
友達以上恋人未満の状態が、ズルズル何年も続いてしまうような。
そんな典型なタイプを感じさせてしまう女性が、次のお客さん。
おそらく、好きな人に対して、『友達に過ぎない』態度をずっと取っているんやろなー。
て、いざその人に恋人や婚約者ができたら、ひっそりと大きく傷付くタイプなんやろなー。
二人の結婚式とか呼ばれて、にこやかに応対してても、心の中ではむっちゃグルグルしてるタイプなんやろなー。
目に見える様。
奇しくも、ラバネッリとメラーの感想は、一致をみる。
二人は、部屋の外に出される。
この後、女性は、服を脱いで下着姿になって、布団にうつ伏せに寝転んで、下着のストラップを外して、下半身にバスタオルを掛けてとかでスタンバイする。
それが済むまで、ラバネッリとメラーは、外に出される。
外で待ちながら、小声で二人は話す。
「このパターンやったな」
メラーが、言う。
「このパターンでしたね」
ラバネッリも、言う。
「まさしく、想定内ど真ん中やったわ」
「僕も、そうでした」
「本人も知らん内に、傷付いてるんやろなー」
「はい」
「知らんうちに、傷付けられてるんやろなー」
「はい」
「怖いな」
「はい」
「俺らもな」
「はい?」
ラバネッリは、メラーに聞き直す。
「いや、俺らも、知らんうちに意識しないで、
人、傷つけてるかもしれんやん」
「ああ」
「女とか男とか、年上とか年下とか関係無く」
「そうですね」
「そう思うと、『怖いな~』って」
「はい」
二人が沈思黙考して、自分のこれまでの行動を振り返っていると、部屋の中から声が掛かる。
「ええで」
準備OKらしい。
引き戸を開け、中に入る。
布団にうつ伏せに伏せた、女性の背中を見る。
大きなためらい傷がだけでも、六つある。
左右二つ一対とするならば、三対。
その三対の合い間合い間もにも、目立たないが、幾つかのためらい傷がある。
この人の、人生過程(恋愛遍歴か?)を見るようだ。
前回は、背中を綺麗に整える作業に費やしたらしく、背中には色の無いデッサン画しか見受けられない。
本格的な色付け・絵入れは、これかららしい。
「どうするんですか?」
メラーが、彫華に尋ねる。
女性の手前もあり、三人の会話は小声になる。
「『「背中が美しい」と言えば浮かぶ、ある写真のようにしよう』、と
思てる」
「背中が美しい写真?」
「おそらく『世界で一番有名な、背中が美しい写真』、やろな」
メラーは、考える。
考えを巡らす、巡らす。
が、思い付いた顔をしない。
「分からんか?」
「はい」
「あの~」
ラバネッリが、おずおずと右手を挙げる。
「一つ、思い付いたんですけど」
「おお、言ってみ」
彫華に、ラバネッリは、当てられる。
「《アングルのバイオリン》やないですか、マン・レイの」
彫華は、『ほお!』と云う顔をする。
「正解。
よう当てた」
メラーは、まだ怪訝な顔をしている。
「マン・レイの《アングルのバイオリン》?」
「女性の背中をバイオリンに見立てて、
女性の背中にバイオリンによくある記号を描いて、撮った写真です」
「見たことがあるような無いような」
ラバネッリはメラーに説明するが、明確な心当たりはもらえない。
「実物見たら、分かりますよ」
「そうか」
「その《アングルのバイオリン》みたく、しはるんですか?」
ラバネッリは、メラーから彫華に、話を振る。
「ああ。
そのものズバリやないけれど、こっちは背中を華に見立てて、
絵を入れようと思ってる。
それに ‥ 」
「はい」
彫華は、自然体で毅然と続ける。
ラバネッリは、相槌を打つ。
「今後、彼女にはおそらく、『幾つか翼が生える』ことと思う」
「はい」
「その翼は、ためらい傷の部分から生えることが多い」
「そうですね」
ためらい傷を持っている人は、そのためらい傷から翼が生えることが多い。
と云うか、ほぼ、ためらい傷痕から生える。
ためらい傷の皮膚下には、翼の作成に適した環境が残されているのだろう。
「だから」
「はい」
「現状のためらい傷だけでなく、
ためらい傷から翼が生えることも見越して、
背中に、『可憐で綺麗な華を入れよう』と思ってる」
「それは、いいですね」
ラバネッリは、彫華の案に、即賛意を表わす。
見ると、メラーも『ええやん』の顔をしている。
布団に寝そべる女性にも、聞こえているのだろうか。
よくは分からないが、ピクッと動いたような気がする。
「ほな、始めるか」
彫華が、マシンを女性の肌に当てる。
マシンの音に合わせて、マシンの動きに合わせて、女性の顔が歪む。
『やっぱりアカンか』の表情を浮かべ、彫華は、メラーを見る。
表情を、『ほな、お願いするわ』に切り換え、メラーを眼で促す。
「はい」
声と共に、重々しく、それでいて優しく、メラーは腰を下ろす。
女性の顔の前に、腰を下ろす。
痛みに歪んでいた女性の顔が、不可思議に揺れる。
メラーは、黄色の翼格納リュックを開く。
開くと同時に、縮こまっていた翼が、広がる。
途端、青龍がのたうつ、くねる。
翼の動きに合わせて、青い龍が息づく動く。
『うわっ』とばかりに、女性は口の形を作る。
メラーの翼に、見入る。
青龍に、魅せられる。
マシンが再び、音を出して動いているのに、気付くかない。
自分の肌を背中を、マシンが滑っているのにも気付かないようだ。
いや、時折、顔を歪めているから、痛点は働いているのだろう。
涙も眼から自然にこぼれ、顔に筋を作っている。
が、痛みより、メラーの翼のインパクトが断然勝っているらしい。
刺青入れ施術中、女性は何度も涙をこぼし、何度も顔を歪める。
涙の筋は乾く間が無く、時には大きく顔を歪める。
が、施術中止や休憩を、求めない。
女性の涙がこぼれる度、顔を歪める度、メラーが翼を羽ばたかせたから。
メラーが翼を羽ばたかせる度、翼の青龍も息づき動く。
のたうつ青龍に励まされるように、くねる青龍に勇気付けられるように、その度、女性は、眼に光を宿し直す。
施術が、終わる。
さすがに女性は、大きく息を吐き、両腕両脚両手両足を伸ばし、布団に深々と沈む。
「よう頑張った。
どやった?」
彫華が、感心した優しい眼で、女性に尋ねる。
「ギリ大丈夫、でした。
ヤバそうな時はいつも、翼動かしてくれはったから。
タイミング、バッチリでした」
女性は、枕に顔を埋めたまま、答える。
「やて」
彫華は、メラーに視線を向ける。
「ええ仕事やった、ってことですか?」
おもむろに、布団に伏せたままの女性が、その状態のまま、右腕を少し上げる。
右手を握って、右手の親指を立ち上げる。
「グッジョブ、です」
「それは、よかった」
女性の評価に、メラーも安心する。
メラーは、彫華に話を向ける。
「あと、何回くらいするんですか?」
「次も、絵入れ色入れして、その次は、体裁整えと後始末」
「はい」
「で、一週間後くらいに一回、施術後の様子見させてもらわなあかんから、
正味少なくとも、あと三回来てもらわんとあかん」
「はい。
ほな俺も、あと三回、同席するようにすれば、ええんですね」
「頼むわ」
「はい」
メラーは彫華に、快活に答える。
返した刀で、ラバネッリには、『だとよ』と苦笑する。
それを聞いていた女性が、枕から顔を上げる。
顔に、朱が差し、先程の薄幸そうなイメージは薄まっている。
「これからも、来てくれはるんですか?」
女性がメラーに、眼に力を込めて訊く。
「はい」
メラーは、少し照れ臭そうに答える。
女性の顔が、綻ぶ。
綻み笑んで、言う。
「ハッピージョブ、です」
「それは、どうも」
メラーは、俯き加減で後頭部に手を遣り、返答する。
ラバネッリは、女性の涙の筋、涙の跡をつくづく見つめる。
『そこまでして、刺青までして、
自分のためらい傷を誤魔化したいんやなー。
自分の背中を、綺麗にしておきたいんやなー』
見つめて、女性の覚悟に感心する。
感心の様子を彫華に気付かれ、質問される。
ラバネッリは彫華に、このように説明する。
その様子を見て聞いていた女性は、ラバネッリに向かってつぶやく。
「No Pain No Gain」
ラバネッリは、筋道を見る。
頬を辿る、涙の筋道を見る。
そして、言葉を返す。
「No Tears No Gain 、ですね」
彫華も、言う。
「違いない」
メラーの仕事を一日密着体験した、次の日。
今度は、コーラーの仕事に、付き添うことになる。
ラバネッリは、コーラーに訊く。
「今日は、どこに行くんですか?」
「株式会社 殿与商事、やな」
「は?」
「だから、 株式会社 殿与商事」
「一般企業ですか?」
「まあ実際は、その一般企業のOLさん達やな」
「OLさん達、ですか」
ラバネッリは、その取り合わせを、ちょっと意外に感じる。
ビアッリ・リラックスと、利益追求企業 ‥ 。
「会社の社員福利厚生策の一つで、
『社員の女性を、癒やそう』、と云うことらしい」
「ああ、それで」
「まあ、ていのいい、
『ルーチン業務ばっかりやらされているOLのガス抜き』、やな」
「そんな、ハッキリと」
ラバネッリは、遠慮気味に下手から、コーラーをたしなめる。
「だからと言っても、俺は手ぇ抜かんし、ちゃんとやるで」
「はい」
ウィン
自動ドアが、静かな音と共に開く。
入り口奥の、受付に向かう。
受付には、化粧・髪型・その他キメキメの女性が二人、待ち構えている。
コーラーは、二人に頭を下げる。
「ビアッリ・リラックスの ‥ 」
「あ、コーラーさん」
女性の片方が、声を上げる。
「今日は、《ツバサの日》、ですか?」
「はい」
「「私達もいつも、お世話になっています」」
二人揃って、言う。
「それは、どうも」
「総務の風間ですね。
すぐお呼びします」
「はい、お願いします」
コーラーはこの会社では、ほとんど顔パスらしい。
しかも、かなり好かれてもいるらしい。
総務の風間がやって来て、二人を、いつもの部屋に案内する。
部屋と云っても、最上階をワンフロアにして、フロア全て使ったホール。
全面ガラス張りで、眺めがいい。
と云っても、ここら辺りはオフィス街なので、風光明媚と云うわけにはいかない。
「じゃあ、就業時間終了の三十分後から開始で、お願いします」
「いつもとおんなじ、ですね」
「はい」
「今日は、何人くらい来はりそうですか?」
「いつも通り、女子社員のほとんどが来るんじゃないですかね」
「老若取り混ぜ?」
「はい」
「分かりました」
「じゃ、お願いします」
コーラーとの会話を打ち切り、風間が出て行く。
風間が出て行って数分後、風間の声で、社内アナウンスがある。
[本日は、ツバサの日です。
午後五時三十分から、多目的ホールで、
コーラーさんの施術が開催されます。
時間のある女性社員の方は、是非ご参加ください。
よろしくお願いします。]
「女性社員限定なんですか?」
ラバネッリは、訊く、続ける。
「女性の方が、自由になる金があるから、
ファッションとかグルメとかその他諸々、気晴らしがあって、
『癒やしの必要性が無いような』気がするが、するんですけどねー」
「そうでもない」
「そうでもないんですか?」
「雑誌とかテレビで、そう云う気晴らしを紹介してくれてるけど、
その対象は、二十代中頃から三十代前半までがほとんどやねん」
「はあ」
「それ以降の気晴らし情報は、途端、皆無になる。
それか、えらい年齢飛んで、
中年のカルチャー教室まがいへの参加情報とかになってしまう」
「そう云うもんですか?」
「そう云うもんや」
コーラーは、シッカリうなずいて、答える、続ける。
「男は何歳になっても、案外、手軽に様々な気晴らしができるけど、
女の人は、そうは行かんみたいやな」
「はあ」
「今日も多分、この部屋、いっぱいになるで」
「ホンマですか?!」
「ホンマに」
就業時間終了のチャイムが、鳴る。
あと、三十分。
基本的に準備することが無いので、二人は手持ち無沙汰に待つ。
ラバネッリが、疑問を発する。
「ちょっと疑問なんですけど」
「なんや?」
「なんで、就業時間終了して、三十分も時間取ってるんですか?」
「そら女の人は、どっか行くとなったら、
着替えて、化粧直して、髪型直して、その他諸々で、時間喰うやん」
「そんなもんですか」
「ほら、お母さんとかおばちゃんとか、出掛けるとなったら、
色々と時間喰ってたやん」
「ああ、そう云えば」
「それの会社員版やろ」
コーラーは、ホンマだった。
いや、コーラーの言っていたことは、ホンマだった。
五時十五分までは、音沙汰も無かった。
十五分を過ぎる頃から、徐々に人が集い出す。
二十分過ぎから、ホールのドアが閉まる間も無く、ラッシュで集い出す。
五時三十分の五分前くらいには、ホールは溢れる。
老若の女子社員達(と云っても、三十代前半から四十代後半までくらいだが)で、満員御礼になる。
「皆さん、時間に正確ですねー」
ラバネッリが、感心する。
「俺が、『自分の怠けで遅刻するやつ、大嫌い』やから、
一度、ブッチしたってん」
「はい?」
「時間通りに来ず、いつまでもダラダラと来よったことがあったから、
その日の施術は途中で強制終了してん」
「はあ」
「その場でもブーブー言われたし、会社にもクレームが来た」
「そら、そうでしょう」
「でも俺も、筋道立てて説明して向こうの非を指摘して、後は無視した」
「はあ」
「ビアッリも会社あげて、俺をフォローしてくれた」
「はあ」
「そしたら、向こうから折れて来て、
「ちゃんと時間通りに集合しますから、またお願いします」、
と言って来たんで、今に至る」
「なるほど」
「なんでも、当の女性社員達から、
かなりの突き上げや懇願があったらしい」
「そんだけ、コーラーさんの翼に、皆、癒やされたがってたんでしょ」
「いや、妙齢の女性社員には、
そんだけ気晴らしと云うか『楽しみが無い』んやろ」
コーラーは、『だってリアルに、現実事実はそうやし』と言わんばかりに、サラッと言う。
ラバネッリは、前方に眼を向ける。
『このホールに溢れ返る女性社員が皆、『そう』とは思いたくないが』
むんむん
むんむん
むうむう
むうむう
コーラーは、小声でラバネッリにお願いする。
「ちょっと、窓開けてくれるか。
化粧臭が堪らん」
「ああ、確かに」
ラバネッリも小声で答えて、窓際に行く。
窓を、開ける。
風が、空気を運び入れ、運び出す。
室内の澱んだ空気を出し、室外の爽やかな空気を入れる。
場の、浮き立っていた空気が、落ち着いて来る。
「換気、終了しました」
「ありがとう」
コーラーは、ラバネッリに礼を言うと、おもむろに口を大きく開ける。
「皆さん、こんにちは」
「「「「「こんにちは」」」」」
「「「「「「「「「「 ‥ こんにちは」」」」」」」」」」
「「「「「 ‥‥ こんにちは」」」」」
女性社員達は、三々五々、メラーに返答する。
「そして、お疲れ様です。
今日も早速、始めたいと思います。
いつものように、俺を囲んで半円形になって下さい」
コーラーの言葉を合図に、女性社員達は、わらわら、わらわらと動き出す。
コーラーを中心に、コーラーの前半身を左右から囲むように、半円形を作る。
ラバネッリはコーラーの背中側、女性社員達から見て、コーラーに隠れる位置に立つ。
コーラーの黄色の、翼格納リュックが開く。
翼が、広がる。
白黒の、幾何学模様が広がる。
前から、「「「「「おー!」」」」」と声がする。
コーラーの体越しに、体の端から、広げた翼の一部が見えたらしい。
コーラーは、クルッと踵を返す。
百八十度回転して、翼をとっくり晒す。
「「「「「「「「「「おー!」」」」」」」」」」
「「「「「「「「「「 ‥ おー!」」」」」」」」」
女性社員達の歓声、どよめきに、コーラーは満更でもなく微笑む。
女性社員達からは見えないので、その微笑を知るのは、ラバネッリだけだったが。
微笑みを見られたコーラーは、ラバネッリに苦笑する。
コーラーの翼が、蠢く、たゆとう、くねる。
それらが、羽ばたきに移行する。
羽ばたきが、コーラーの幾何学模様翼に、ベンハムのコマ効果を生み出す。
白と黒のみだった翼に、色が付いてくる。
羽ばけたけば羽ばたく程、色が増えてくる。
羽ばけたけば羽ばたく程、翼から色がこぼれ落ちる。
翼の羽ばたきは、白黒幾何学模様を変容させ、色を生み出す。
その色は、羽ばたきに乗じて、豊かに広がる。
レインボー?
二十四色クレヨン?
四十八色クーピー?
九十六色、色えんぴつ?
それどころ、ではない。
いや、それほど単色ではない。
生み出された色は、その種類の豊富さと、その混じりあった模様で、その場にいた人々を魅了する。
ここに、あるアンケートがある。
コーラーの、初めてのツバサの日の後、参加女性社員全員にアンケートに答えてもらったもの。
アンケートの返答結果を要約すると、「期待していなかったが、思ったより良かった。これからも参加したい」になる。
それらアンケートの返答の中で、幾つか、同じような論調の要旨のアンケート内容があった。
まとめると、次のようになる。
「ここのところ、毎日代わり映えのしないモノトーン調の、
言わば白黒じみた生活を過ごしていた。
やることなすこと、毎日同じ。
仕事もプライベートも、ルーチン業務。
『このまま何年間も過ぎ去るように過ごして、歳を取って行くのか』、
と思っていた。
そこで、ツバサの日に、メラーさんに出会った。
メラーさんの翼は、一見、白黒でヘンな模様が付いている。
正直、見た目は、あまり美しくない。
でも、ひとたび、翼が動き出すと、そこから様々な色が生み出される。
色だけじゃない、色を基調とした模様も生み出される。
翼から生み出された、豊かな色彩、豊かな模様を見るに連れ、
私の心にも毎度、ある思いが生み出された。
『白黒の翼が動くことで、あんなに豊かな色が生み出される。
動けば動くほど、生み出される。
私の白黒の生活も、何かしら動くことで、色合いが付くのだろうか。
正直、物理的に動くことは年齢的に制限があるけれど、
精神的に動くことはできる。
ダラダラと流れゆく毎日に流されて、
心が硬直してたかも、されてたかも。
精神的に、軽やかにフットワーク良く、動ける体勢でいよう。
それが、心の若さ、内面充実に繋がるのかもしれない』
これから、『せめて精神的には、フットワークかるく行こう』、
と思い定めています。
毎日の生活に流されて、このままズルズルと、
精神的老人化するのはまっぴら。 」
ツバサの日に、コーラーの元に集う女性社員は、多かれ少なかれ、このような思いを持っている可能性が高い。
そのことは、コーラーも知っている。
勿論、アンケートの結果も知っている。
ある意味、うまく女性社員を誘導すれば、新宗教の教祖や自己開発セミナーのリーダーみたくなって、金儲けできるかもしれない。
コーラーにも、おそらく、そのスキルはある。
が、興味が無い。
コーラーには、全然興味が無い、アウトオブ。
どころか、時間と手間の無駄で、『あほらしい』、とさえ思っている。
そんな泰然としたところが、コーラーの魅力になっているのだろう。
でなければ、こんな(女性から見ても)チビ助が、ここまで慕われることはないだろう。
「 ‥ ほんじゃ、これで今日は終わります。
次回は多分、また来月の今頃で ‥ 」
コーラーの施術が、あやふやな次回予告と共に終わる。
本日のツバサの日、終了。
ビアッリとコーラーが見守る中、女性社員達は、三々五々、帰って行く。
帰り際、ほとんどの社員が、「さよなら」「ありがとう御座いました」と言うか、頭を下げて、部屋を出て行く。
ラバネッリは、ふと、一人の女性社員と眼が合う。
眼が合って数瞬、お互いに固まる。
その数瞬の為、『何も言わずに目を逸らすのは、気まずい』『相手に悪い』の空気が、二人の間に流れる。
『とりあえず』と云う感じで、彼女から口を開く。
「ありがとう御座いました」
「ああ、いえ。
僕は何も、してないんで」
「何で、しはらなかったんですか?」
「今回、僕は、同席して見学するだけだったんで。
それに、翼、生えてませんし」
「ああ、そうなんですか」
流された。
スッと、流されたぞ。
この歳になって生えていないのは、おかしくないのか?
ラバネッリは、ここ数年、散々言われて来た。
指摘されて、思い知らされて来た。
『この歳で、一つも翼が生えていないのは、おかしい。
と云うことは、全然、挫折を知らん、現実の世の中を知らん、箱入り息子。
むっちゃ、ボンボン』、ってことを。
だから、こんなにすんなりあっさり、手応え無さ過ぎるくらいに流されたことは無かった。
ラバネッリは、軽い驚きと共に、手持ち無沙汰の女性社員に聞く。
「 ‥ あの ‥ 」
「はい」
「この歳で、翼が生えてないって、おかしくないですか?」
「おかしいんですか?」
ラバネッリは、質問を質問で返される。
それだけ、彼女に取って、意外な質問だったのだろう。
「いや、この歳まで翼無しでいると、
《ボンボン》だとか《温室育ち》だとか、まず色々言われるんで」
「あー、そうですよね」
彼女は、共感するも続ける。
「でも、ここではそんなこと、全然珍しく無いですから」
と、彼女は、自分の後方へ、視線を流す。
そこには、三々五々帰る、女性社員達がいる。
そのほとんどが、背中に翼格納リュックを付けていない。
ラバネッリは、施術中の光景も思い起こす。
確かにリュックを背負った女性社員は、一割にも満たなかった。
さすが、老舗呉服問屋。
勤めている女性社員は、お穣様、言い方変えれば、挫折知らずが多いらしい。
確固とした、昔ながらの擬似徒弟制とも云うべきものが、あるのだろう。
確固としたコネ採用ルートが、あるのだろう。
女性であっても、いや男女関係無く、この歳まで翼無しはマイノリティ。
それらの人が、ここには氾濫している。
そう云えば、ラバネッリと話している彼女にも、翼が無い。
「 ‥ でも ‥ 」
「でも」続きで、彼女が更に加える。
「はい」
「ためらい傷は、皆さん、多かれ少なかれ持っておられます」
「全員ですか?」
「社員全員かどうかは分かりませんけど、私が見た中では全員」
「わざわざ確認しはったんですか?」
「いや、わざわざ調べたわけじゃなく、更衣室でチラッと」
「ああ、なるほど」
『更衣室でしか分からない』と云うことは、『あまり公にしていない』と云うことは、その女性社員当人にとって、忘れたい記憶の傷心なのだろう。
勿論、女性社員同士の話題に上ることも、無いだろう。
彼女がよく知らないのも道理だ。
が、お穣様とは云え、これだけの人が傷心してるらしい、ためらい傷を持っているらしい。
ええ生活をしているようでも、人知れず傷付いていることが偲ばれる。
気高いと云うか、ツンツンしていると云うか、そんな風に見えていても、こっそり心は大きく波打っているのだろう。
いや、融通の利かない、自由度の少ない、お穣様と云う立場だからこそ余計かもしれない。
翼が、生えそうで生えない。
そんな、ためらい傷を幾つか持つ。
そして未だに、翼そのものは生えていない。
『ああ!』
もどかしい。
モヤモヤする。
ラバネッリは、身悶えするように、思いくねる。
そんな状態、ラバネッリだったら、『どっちでもええから、なんとかしてくれ!』、と思うと思う。
当に、蛇の生殺し。
この会社には、蛇の生殺し状態の人が、氾濫しているのか。
いや、会社に勤める世の中の女性社員達は、ほとんど、蛇の生殺し状態なのでは。
いや、会社勤めに限らすとも、この年代の女性は、ほとんどが蛇の生殺し状態なのでは。
だから、ビアッリ・リラックス始め、翼の保養業が繁盛しているのでは。
ラバネッリは、ちょっと引く。
少し、背筋が寒くなる。
こっそり、コーラーを目の端で見る。
「どうでした?」
ビアッリが、尋ねる。
ラバネッリは、メラーとコーラーの施術を実際見学して、思ったこと感じたことを述べる。
思いをそのままストレートに口にすることは無いが、オブラートに包んで言葉にする。
ビアッリは、見ているようで見ていない、見ていないようで見ている、そんな視線を向けながら、ビアッリの言葉に聞き入る。
関心が有りそで無さそで、親身になってくれていそうでいなさそうで、そんな空気に乗せられて、ビアッリはとめどなく話す。
話が一段落したところで、ビアッリは、初めて口を挟む。
「そうですか。
じゃあ、最後に ‥ 」
ビアッリは、続ける。
「 ‥ 私の施術を、受けてもらいましょうか」
「へっ?」
ラバネッリは、思わず口から声を漏らす。
見学とかやなく、体験?
俺が、施術受けんの?
俺が、当事者化?
最後に、『ビアッリの施術も、見学できればいいな』とは思っていたラバネッリだtったが、驚き戸惑う。
「じゃあ、こちらへ」
オーナー室の椅子に座っていたビアッリは、立ち上がる。
立ち上がり、机の向こう ‥ 入室ドアの真反対にあたる部屋の奥のドアへ、ラバネッリを促す。
ビアッリが、ドアを開ける。
ドアに繋がる別室へ、一歩踏み出す。
ラバネッリも、遅れて付いて行く。
別室に、一歩踏み出す。
踏み入れる。
暗い。
パチッと、音がする。
明かりが、点く。
室内に、光が入る。
「げっ」
そこは、全面ガラス張りの部屋だった。
前後左右、天井床下、一面のガラス張り。
ご丁寧なことに、ドア裏側もガラス張りになっている。
閉じれば、ガラス張りコンプリート。
驚いたラバネッリは、そこはかとなく、危機感を感じる。
典型的なセオリー通りの物語では、こういう場所は、よからぬ秘密の場所であることが多い。
また、ここで行なわれることも、よからぬアブナいことであることが、往々にしてある。
ガラスに映る自分を見るにつれ、ラバネッリの危機感は、そこはかとなく形になって来る。
形になり、切羽詰まって来そうになった時、ビアッリは口を開く。
「ここは、なんと云うか、《最終手段の地》、です」
「はあ」
想像とはかけ離れたビアッリの言葉に、ラバネッリは毒気を抜かれる。
「「症状が重い」と云うか「頑固」と云うか、
一通りやっても様子が一向に改善されないお客さんに、
最終的に施術する場所です」
「はあ」
「こんな形態になっているのは、
『私の翼の力を、マックスに発揮する為』、です」
「はあ」
『何故、ガラス張りか?』は分からねど、『ガラス張りが、必要である』ことはそれで分かる。
疑問点が一つ浮かんだラバネッリは、それをビアッリに訊く。
「ここで施術受けた人は、何人くらい、いはるんですか?」
「お客さんでは、二人くらいですね」
「どんな人で?」
「ある程度の年齢なのに、翼が生えていなくて、全然ためらい傷も無くて、
背中が綺麗な二人でした」
「はい」
「典型的な、挫折を知らない《ボンボン》と《お嬢様》でした」
「はい」
「冷やかしにウチに来たみたいで、
本人に《七転び八起き》とかの人生経験が無い以上、
幾ら施術しても無駄でしたね」
「はあ」
「案の定、ここの最終手段でもダメでした。
『本人の人生経験に作用して、翼で癒す』のが、ウチの手法ですからね」
「はい」
うなずきながら、ラバネッリは、デジャヴュを覚える。
『どっかで、訊いた話やな ‥
ん、「お客さんでは」?
ビアッリさん、「お客さんでは」って言ったよな?』
「あの、質問があるんですが?」
「はい?」
「お客さん以外の人も、ここを利用しはるんですか?」
「はい?」
「いや、
『お客さん以外にも施術してはりそうな言わはり方』やったんで ‥ 」
ビアッリは、『ああ、気付きましたか』の顔をして答える。
「社員も、たまに利用しますよ」
「はい」
「まあ、社員と云っても、メラーとコーラーだけなんですけどね」
「メラーさんとコーラーさん、ですか?」
「はい」
実際に見学してみて、メラーとコーラーは、割りとスンナリと飄々と、施術をこなしているように見えた。
その実、二人の心の中では、ダメージが蓄積されているのだろう。
そのダメージが、一人では自分では処理できなくなった時、ここに来るに違いない。
ビアッリに頼るに、違いない。
そう思えば、『見た目よりハードな仕事内容』なことが、現実的にヒシヒシ伝わって来る。
「じゃあ、始めましょうか」
「ちょっと、待って下さい」
ラバネッリの『ちょっと待った』に、ビアッリは小首をかしげる。
「どうしました?」
「いや、さっき、「お客さん二人、あかんかった」
って言わはりましたよね?」
「はい」
「そのお客さん達と僕と、かなり似ているような気がするんですけど」
ビアッリは、眼を宙に彷徨わせる。
「そう言われれば、そうですね」
「僕に、施術が効かない可能性も ‥ 」
ビアッリは、にこやかに苦笑しながらも、ラバネッリを鋭く見つめる。
「こればっかりは、やってみないと分かりません」
「はあ」
「各人の人生経験に作用するので、
外見からは判断しかねる部分が大きいんです」
「はあ」
「以前のお二人より、ラバネッリさんの方が、
人生経験積んでる可能性は高いし」
「そうですか?」
ビアッリは、口調を少し変える。
「メラーとコーラーに同行して、何か感じるものはありましたか?」
「少しは」
「じゃあ少なくとも、『その分は、効く可能性を積んだ』ってことです。
『効く可能性は高い』、と思います」
「そうですか」
半信半疑ながらも、ラバネッリは、ビアッリの言葉を受け入れる。
腹を括って、施術を受けることに決める。
「じゃあ、改めてお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
お互いに、ペコッ、ペコッと頭を下げる。
ビアッリが、踵を返す。
後ろを、向く、
背中を、見せる
リュックを、開ける。
翼が、広がる。
翼が、四つ。
上下に並んだ、左右の翼二対。
下の翼は、冷寒色系のグラディエーション。
上の翼は、温暖色系のグラディエーション。
上下の翼が近接する部分が中間色になって、翼二対で、下から上へ、あるいは上から下へ、色彩の流れを形作っている。
羽ばたく。
色彩が流れる、うねる、たゆとう。
ガラスに、翼の色彩が映る。
映ったガラスを、他のガラスが映す。
その映ったガラスを、また他のガラスが映す。
部屋全面のガラスに、色彩が映り込む。
部屋中が、色彩で溢れる。
美しい。
眩しい。
いや以上に、これだけ色が氾濫すると、鬼気迫るものがある。
ラバネッリは、色の混沌に包まれ、圧倒されている。
立ち尽くしている。
心はトリップし、思いは時空を越え、存在感は希釈される。
『手も足もでない』とは、当に今の心境だろう。
ラバネッリの頭の中では、走馬灯が廻っている。
これまでの、人生の記憶。
最近では、メラーに付き添った彫師での記憶。
コーラーに付き添った、女性社員達との記憶。
その中で、浮かび上がって来るものがある。
これか。
これなのか。
これが曖昧だから、《挫折知らず》とか《ボンボン》とか言われるのか。
でも、まだイマイチ、しっくり来んな。
まだ本格的な、傷心を経験してないからやろな。
と云うことは、翼が生えるのは、『まだお預け』ってことか。
経験したいようなしたくないような、生えて欲しいような欲しくないような ‥ 。
ラバネッリは割りと冷静に、色の氾濫の中、立ち尽くして思考する。
ビアッリの起こす色彩のうねりが、穏やかになって来る。
色の波が、凪いで来る。
ビアッリの羽ばたきが徐々に治まり、翼のグラディエーションのみに、色の氾濫は収斂される。
ラバネッリは、思考から現実に戻る。
自分の現在の状況、立ち位置、今後のポジショニング等を確認する。
スッと、顔を上げる。
微笑するビアッリと、眼が合う。
眼が、物語る。
『どうでしたか?』
物語る。
『何か、分かりましたか?』
ラバネッリも、視線に言葉を込め、物語る。
『はい』
『それは良かった』とばかりに、ビアッリは口を綻ばせる。
そして、口を開く。
声を、発する。
「もし」
「もし?」
ラバネッリも、鸚鵡返しに声を発する。
「今後、翼が生えることがあって」
「はい」
「その傷心に押し潰されそうな時は」
「はい」
「遠慮無く、来て下さい」
「いいんですか?」
「はい。
いつでも、OKですよ」
「そうさせてもらいます」
「なんなら、傷心がある程度癒されるまで、
癒やされがてら、ウチの仕事を手伝ってもらってもいいですし」
「いや、それはさすがに」
「いや、ラバネッリさんに対する純粋な好意もあるんですけど、
この歳で生える翼は『美しいものになる』可能性が高いから、
半分くらいは、現実的な即戦力確保の為のお願いです」
「そうですか。
なら、ある程度リアルに考えておきます」
「お願いします」
「でも ‥ 」
ラバネッリは、申し訳無さそうに、続ける。
「今回の論文がOKで博士課程が修了したら、
そのまま大学に残るつもりですし、『ご期待に沿えない可能性が高い』、
と思います」
「まあ、それならそれで、諦めます」
ビアッリは、微かに笑みを浮かべて言う。
ラバネッリは、運送業、旅客運輸業、そして保養業と、各仕事を聞き書き調査した時のことを思い起こす。
思い起こし、随時、補足レポートにまとめる。
今まで集めたデータを再確認し、記憶を探りながらも、まとめる。
既に提出した論文と重なる部分も多いが、補足である以上、ある程度は仕方が無い。
補足レポートは、ほぼ論文の半分以上のボリュームとなる。
その為、思った以上に時間がかかったが、ギリギリ一週間以内に仕上げることができる。
疲れ気味ながらも意気揚々と、教授の下へ向かう。
コンコン
教授の部屋を、ノックする。
おそるおそる、ガチャ
ソーッと、ドアを開ける。
教授は、在室している。
いや、在室は外のプレートで確認済だが、来客や、はたまたゼミ、その他諸々の状況である可能性が高い。
が、今は、教授は一人で佇んでいる。
絶好の機会を、迎える。
「ああ、いらっしゃい」
「補足レポートを、提出しに来ました」
ラバネッリは、部屋に入り、部屋の中央にあるミーティング用デスクの前に立つ。
教授に促されるまま、デスクに備え付けの椅子に座る。
コポコポ
コポコポ
教授がコーヒーメイカーから、二つのカップにコーヒーを注ぐ。
カップの一つには教授の名前が書かれ、カップの一つにはラバネッリの名前が書かれている。
ラバネッリは、立ち上がる。
食器棚から、スプーンを出す。
砂糖壺も、出す。
小さい冷蔵庫から、コーヒークリームも出す。
それらをデスクの上に置くと、また食器棚に戻る。
食器棚から、使ったスプーン置き用に、カップのソーサーを出す。
それも、デスクに置く。
デスクの端にあった布巾を、中央に引き寄せる。
教授が、ラバネッリの前と自分の前に、カップを置く。
「ありがとう御座います」
「どうぞ」
ラバネッリは教授に礼を言うと、コーヒークリームを多めに注ぐ。
砂糖は、入れない。
教授は礼に答えると、コーヒークリームを数滴注ぎ、砂糖を数杯入れる。
両者、かき混ぜたコーヒーを啜り、息を吐く。
その動作を繰り返すこと数回、場の空気、雰囲気は一息つく。
おもむろに、ラバネッリはガサガサする。
背負って来たリュックのジッパーを開け、ガサガサする。
A4サイズのクリアファイルを取り出し、デスクの上に置く。
クリアファイルから、紙束を取り出す。
表紙には、補足レポート名、ラバネッリの在籍する博士課程、ラバネッリの名前が書かれている。
「お願いします」
ラバネッリは、少し頭を下げて、うやうやしく、補足レポートを提出する。
「じゃ、ちょっと、拝見します」
教授は、補足レポートを手に取り、開く。
読み始める。
途中何度か『うんうん』とうなずき、読み進める。
軽やかなような重いような、
爽やかなような気詰まりのような、
穏やかなような気が急くような、
やけに、時計の音と外の会話と道路を行く車の音が、耳に障る時が流れる。
時が流れ、教授が補足レポートを読み始めてから、十数分。
教授は、補足レポートを閉じる。
返事をのめって待つラバネッリに、教授は言う。
「駄目だね」
「えっ」
教授の言葉に、条件反射的に、ラバネッリは口が出る。
信じられないか。
信じられないのか。
信じられんわな。
教授の答えは、まさかのNO。
パサッ ‥
放り置かれる。
補足レポートは、デスクの上に、放り置かれる。
静寂に、時が包まれる。
部屋も、包まれる。
車、会話、諸々の音、部屋の外から、遠く聞こえる。
時間はかかったが、ラバネッリは、自分をなんとか立て直す。
「なんでですか?」
立て直して、言う。
納得できない。
ああ、全く納得できない。
教授は、冷静に答え、冷徹に指摘する。
「補足になっていない。
既に提出されている論文と、被っている内容が多い。
これでは、『論文の焼き直し』の印象が強い」
『そんなアホな ‥ 』
ラバネッリは、論文と被らない様、内容を精査した。
補足なので、文の組み立てよりも事例や資料を挙げることを、主にした。
読み直しも、数度した。
なのに、何故 ‥ ?
まだ、不充分と云うのか?
教授は、粛々と淡々と進める。
「今日が提出期限日だから、再度の提出はもう無いね。
再度の提出延期や再度の補足レポート提出等の救済策は、
考えていないから」
‥ と云うことは、
「ラバネッリ君は、『今回、博士課程修了は不可』と云うことで。
また引き続き、頑張って下さい」
えっ、これで終わり?
ハイ、終了?
努力の過程を評価するとか、詳細で丁寧な批評コメントとか、そんなんも一切無し?
それを意味するかのように、教授は踵を返す。
クルッと背中を向け、自分の作業用デスクに向き直る。
作業用デスクに乗ったパソコンの画面を見、キーボードを叩き始める。
部屋に、キーボードを打つ音が響く。
打撃音が、響く。
打撃音が、部屋の静寂を増加する。
増加した静寂は、ラバネッリに重く降り積もる。
やり直し。
こっぴどく、やり直し。
これまでの成果を土台に、また論文を組み立てればいいのだが、同じ論旨では駄目だろう。
と云うことは、早い話、ほとんどイチからやり直し ‥
ラバネッリの感覚では、この一瞬で、博士課程の数年間の努力が水の泡になる。
運送業での聞き書き調査も、無駄になる。
旅客運輸業での聞き書き調査も、無駄になる。
保養業での聞き書き調査も、無駄になる。
全ての成果が否定され、それこそホントにイチから、臨まざるを得ない立場に突き落とされる。
幸か不幸か、今まで挫折らしい挫折も知らず、ここまで順風満帆に来た。
その為、これぐらいの挫折でも、ラバネッリは、天変地異急の挫折に感じる。
風景に、色が無くなる。
色が無くなり、黒いシャッターが下りる。
暗黒の空間に、閉じ込められる。
落下感に、苛まれる。
ヒューーーーーと、際限無く落下する。
ラバネッリは、室内を出て行くこともできず、その場に立ち尽くす。
闇に閉ざされ、落下中であっても、その場に立ち尽くす。
ザクザク
切り刻まれる。
パアーン
割れる。
ガシャン
壊れる。
ドクドク
血が流れる。
心のそこら中から、様々な音が響き渡る。
心の崩壊課程は、絶え間無く続く。
際限無く、続く。
実際の時間は数秒に過ぎなくても、際限無く続く。
フイに、落下感が止まる。
浮遊感に、包まれる。
痛痒い。
ラバネッリは、なんか、ザワザワする。
背中の方、両肩の下辺り、肩甲骨ら辺が、さざめく感じがする。
ブチッブチッ
背中の右の方から、肉の爆ぜる音がする。
心の色んな音が止み、背中の方から音がする。
痛みは、無い。
ブチッブチッ
背中の左の方からも、肉の爆ぜる音がする。
痛みは、無い。
体の中から、肉の中から、生え出ようとしている。
生え出るに従って、服が引っ張られる。
上着内圧力が充満し、ラバネッリの上半身は、パンパン状態になる。
首回りが後ろにひどく引っ張られ、首廻りが絞まる。
息が苦しくなって、ラバネッリが『呼吸困難』を頭に浮かべた途端、服が裂ける。
背中が裂けて、翼が飛び出す。
バサッバサッ
バサッバサッ
背中に感じる重量感と音から、かなり立派な翼と分かる。
羽ばたいてる端が、眼の片隅に入る。
色は、どうも左右で異なる色をしているようだ。
眼の端に入る翼の糸は、左が紫っぽく、右が緑っぽい。
『もしかして、俺、
挫折して傷心して、翼生えて、翼持ち大人の仲間入り?』
ラバネッリは、混乱する頭で、やけに冷静に現状認識する。
「おおっ!」
教授は、打ち震える。
興奮に、打ち震える。
ラバネッリの翼を食い入るように見つめ、打ち震える。
心なしか、体が小刻みに波打っている。
口を、スッポリ空気を取り込むように、開け放っている。
眼は、微動だにせず、翼に釘付けている。
口からは、言葉を漏らす。
つい、漏らす。
「 ‥ これを、待っていた ‥ 」
『あ?』
ラバネッリは、混沌の池の中から龍が立ち昇るように、教授の言葉に反応する。
頭が、心が、瞬時に反応する。
『待ってたんか?
と云うことは、予想していたんか?』
思考は、転がる。
『と云うことは、『こういう結果になるだろう』と、思っていたんか?
と云うことは、
『こういうアプローチをすれば、こういう現象を引き出せる』と、
当たりをつけて行動したってことか?
‥ つまり ‥ つまり、教授は、俺に翼を生やさせたくて、
俺を傷心に陥らせたくて、こんなことをしたんか?』
転がり止まる。
『何、俺、実験台?モルモット?
『この歳で初めて生える翼やから、さぞかし綺麗なものだろう』と、
俺の翼を教授は見たかった、俺を尾究対象にしたかった、ってか?』
そして、憤る。
『なんやそれ!』
ラバネッリは、教授を睨みつける。
心と頭の中に続く混沌と、背中の微かな痛みをものともせず、いや、それを得て一層強く、睨みつける。
教授も、ラバネッリを見ている。
が、ラバネッリを見ていない。
瞳は、ラバネッリをスルーして、ラバネッリの翼に、釘を打ち付けられたままだ。
向かって右側(ラバネッリからは左側)の翼は、漆黒感のある紫。
向かって左側(ラバネッリからは右側)の翼は、透明感のある緑。
これぞ、左右非対称。
まさに、アシンメトリー。
鮮やかな左右色違いの翼に、教授は射竦められる。
ラバネッリは、呆けた顔で微動だにしない教授を見て、息を抜く。
憤っているのが、阿保らしくなる。
《こんなん》に腹て立てんのが、あほらしくなる。
『やれやれだぜ』とばかりに微苦笑して、踵を返す。
教授は、ビクッと動く。
教授に、紫緑の翼を見せ付けて、荷物を持って、ラバネッリはドアを開く。
ドアを開く音がした時、教授は「あっ ‥ 」と、声を漏らす。
教授のつぶやきをスルーして、部屋から出る。
ドアを、閉める。
「ほな、行くか」
ラバネッリの中で、行き先は決まっているらしい。
一瞬の内に、将来設計も組み立てられたらしい。
大体、想像はつく。
そして、一瞬の内に、覚悟も決める、腹を括る。
かなりな傷心を抱えても、現実的対応を練らんとあかん。
傷心抱えて泣き暮らしていても、腹は減る。
飯食わなあかんし、出さなあかんし、寝なあかん。
今の場を放棄しても、何らかの仕事はしなあかんし、掃除とか何やかんやせなあかん。
生きて、生活せなあかん。
日々は続くし、人生も続くからな。
日々の糧、得とかんとな。
日々の生きがい、見つけんとな。
いざと云う時の仲間、心に置いとかんとな。
ラバネッリは、翼を出したまま、往来を行く。
道行く人々は、見とれ、見つめ、二度見する。
翼を畳んでいるにも関わらす、視線が痛い。
翼が四つ、降りて来る。
正確には、上下に並んだ、左右の翼が、二対。
その人は、背中を向けて、翼を見せて、降りて来る。
翼は、それはもう、美しい。
下部の翼は、冷寒色のグラディエーション。
上部の翼は、温暖色のグラディエーション。
ラバネッリは、その光景に見入る。
意志を込めて、翼を微動だにせず見つめる。
痛いほど、見つめる。
‥ と、背中を向けていた人が、サッと振り向く。
振り返った人は、朗らかな微笑みと共に、振り向く。
「おかえりなさい」
振り向いた人は、声を発する。
翼をかたくなに見つめていた眼に、その人が映る。
ラバネッリは、言いたいことを、伝えたいことを言う。
「ただいま、です。
これから、よろしくお願いします」
ラバネッリは、頭を下げる。
ビアッリは、うなずく。
色彩と光景が、祝福する。
背中を、向ける。
翼を、広げる。
左の紫翼と右の緑翼を、広げる。
「おおっ!」と、声が上がる。
ここは、《オーナー直属遊撃室》。
立って翼を見せるは、ラバネッリ。
ちゃぶ台の周りに座って翼を見るは、ビアッリ、メラー、コーラー。
翼が、羽ばたく。
漆黒感のある紫が、うねる。
透明感のある緑が、うねる。
うねりは、左右の色を明確に区分けするも、激しく親しく共存させる。
紫が、伸びる。
上に伸び、下にも伸びる。
緑も、伸びる。
上に伸び、下にも伸びる。
紫は下が詰まっても、上には伸び上がる。
緑も下が詰まっても、上には伸び上がる。
紫と緑は、グングン伸び上がり、左右に色の付いた縦線を描く。
ある程度まで行くと、伸びは止まる。
色彩の伸びが止まると、左右には色彩の柱が立つ。
左には、漆黒感のある紫の柱。
右には、透明感のある緑の柱。
翼が羽ばたく限り、羽ばたき続ける限り、柱は聳え立つ。
震えて、聳え立つ。
ビアッリ、メラー、コーラー、見とれる。
『これは』
『なかなか』
『ええっスね』
見とれながらも、頭は冷めている。
見とれながらも、冷静に分析する。
『今まで見たこと無いタイプ、ですね』
『色の組み合わせが、斬新やな』
『羽ばたいたら、そんな風になるんスか』
ビアッリとも、メラーとも、コーラーとも異なる翼。
三人各自が持つ翼も、唯一無二と言っていいぐらいの、珍しい翼。
その三人の翼とも異なる、珍しい翼。
それだけでも、翼が持つポテンシャルは期待できる。
ビアッリとも、メラーとも、コーラーとも異なる効果も、期待できる。
ビアッリは、メラーとコーラーに眼を向ける。
メラーは、ビアッリとコーラーに眼を向ける。
コーラーは、ビアッリとメラーに眼を向ける。
三人の視線がぶつかり、眼で相談する。
が、相談する間も無く、意見の一致をみる。
『『『OK』』』
ラバネッリは、踵を返す。
三人の方に、向き直る。
ビアッリ、メラー、コーラーの顔様子を窺う。
『いいですね』
『やってくれたな、おい』
『グッド』
三者三様の顔を浮かべているが、そこには共通して、好意が読み取れる。
ラバネッリは、確信する。
でも、トラウマとなっているわけでは無いが、先程の教授の例もあるので、恐る恐る確認する。
「で、どうですか?」
一時、ゆらりと場を溜めて、ビアッリは言う。
「OK、です」
それに、やや被さるように、メラーとコーラーも言う。
「ようこそ」
「ウェルカム」
ラバネッリは、無事めでたく、ビアッリ・リラックスの一員となる。
湧き出る歓迎ムードの中、ビアッリは沈思黙考する。
ラバネッリとメラーとコーラーがにこやかに話す中、思考に浸る。
『そうしよう』
とばかりに、顔を上げ、眼を上げる。
グルッと、三人を見廻す。
「ラバネッリ君の所属ですが」
『『『もう、そこまで決めてしまうのかい?』』』と、三人は固唾を飲む。
「当面の間、ここにいてもらいます」
「へっ?」
メラーとコーラーは『おおっ!』と喜び驚くも、ラバネッリにはよく分からない。
思わず、訊き直してしまう。
「だから、ここで」
「ここですか?」
「はい」
「ここ?」
「正式名称で言うと、オーナー直属遊撃室、です」
「!」
と云うことはつまり、メラーとコーラーの同僚ということか。
ラバネッリの直属の部下となり、ちゃぶ台仲間に加わると云うことか。
「翼を拝見して、遊撃室員の一人になるポテンシャルがあると思いました」
「はい」
「それに、遊撃室の業務を実地で知ったはるから、
遊撃室の業務に理解があるであろうことも、考慮しました」
「はい」
「業務に付いて行ったことがあると言っても、
実際、従事することになると、分からないことだらけでしょうから、
最初は、メラーかコーラーに付いて励んで下さい」
「はい」
ビアッリは、事務的な言葉を並べる。
ラバネッリも、神妙に返事を続ける。
が、ここで、ビアッリは笑みを浮かべる。
「まあ、しばらくは『戸惑いがち』だと思いますが、
徐々に慣れて行ってくれたらいいですよ。
むっちゃ切実急速な、即戦力は求めていませんから」
ビアッリは、笑みと共に、言葉を掛ける。
「はい」
ラバネッリも、笑みと共に、言葉を返す。
「遊撃室は、二人体制から三人体制になりますが、それで構いませんか?」
ビアッリは、メラーとコーラーに訊く。
「別に、構へんよ」
「異議無し、っス」
発言を、重ねる。
「正直、ここんとこ、二人で手一杯やったから、
人が増えてくれるのは嬉しい。
願ったり叶ったり」
「右に同じ、っス」
コーラーは、同意に重ねて言う。
「でも、三人体制になったら、まとめ役とかいるんちゃいますか?」
「まとめ役、っスか?」
「上司とまでは言わんけど、リーダーとか形ばかりの室長とか」
「ああ、なるほど」
コーラーとビアッリの視線は、メラーに注がれる。
ラバネッリの視線も、自然とメラーに向く。
「うざっ。
俺、やらへんで」
間髪入れず、メラーは拒否する。
拒否するだけでは能が無いので、代替案も提示する。
「どうせ、ビアッリもちょくちょく来るんやから、
ビアッリに兼任してもろたらええやん」
「でも、それって、今のままですやん」
「なら、それでええやん」
メラーの案に、コーラーがツッコミを入れる。
メラーが、開き直る。
そして、ビアッリは苦笑する。
「なら、今と変わらず、で行きますか」
ビアッリは言い終えると、ラバネッリの方を向く。
ラバネッリは、戸惑いながらむ、うなずく。
「ほな、そんなこんなで」
「はい」
「了解っス」
「えと ‥ あ、はい」
メラーの多少強引なまとめを、ビアッリとコーラーとラバネッリは、認める。
「しかし、こうなってみて考えてみるに」
メラーが、苦笑混じりに言う。
「みんな、3人+1とか四天王とかの、チーム男子好きやな」
「そうっスね」
コーラーも、苦笑混じりに答える。
「四人目が、趙雲とかライダーマンとかジョーカーとか、
アウトサイダー的な存在が好きっスね」
ビアッリは、ラバネッリの方へ微笑み掛けて言う。
「まあ、そういうことです。
二人の言葉を意訳すると、「歓迎も歓迎、よう来た」です」
ラバネッリは、ビアッリの言葉、メラーとコーラーの思いを、嬉しく思う。
が、背中の翼をチラッと見て、言う。
「でも、引き換えに翼を手に入れたとは云え、
かなりキツい経験でしたよ」
ビアッリは、ラバネッリの思いに添う。
「まあ、正直、『しなくてもいい経験は、しなくてもいい』、
と思うんですよ」
そして、慈しみの眼差しを向ける。
「でも、どんな経験であれ、糧に成りますからね」
ラバネッリは、うなずく。
その後ろで、メラーとコーラーも、うなずく。
四人の思いが、添う。
{了}