5 マイナス1のジジョウ
冬の朝、白い息が駅のホームに充満する。週の始まりに誰もが下を向いている。
彼、布川真もその一人だった。
仕事に行かないですめばどんなにいいだろう。このところ疲れもとれないし、気持ちも日々沈んでいく。こうまで我慢して生きていかなければいけないのだろうか。いっそ死んでしまえば楽になるだろうか。両親は他界し、兄弟もいない。結婚の見込みどころか相手もいない。仕事場でも必要とされているわけでもない。小さな替えのきく歯車みたいなものだ。
悪いイメージに捕らわれたまま、ふと視線を上げると線路がある。転落防止ゲートはあるが、乗り越えられない高さではない。
「一番線、電車が来ます」
そのアナウンスは彼の背中を押した。
一歩踏み出したとき、視界に映ったのは自分ではない影がゲートをよじ登ろうとする姿だった。まるで自分の数秒未来を観せているかのようだった。
「おい、何やってんだ!」
怒号がとび、その影は数人の手で引きずりおろされた。
「こんなとこで自殺すんな!」
「迷惑なんだよ!」
「電車が止まったら間に合わないだろうが!」
引きずり下ろされた女性は囲まれたまま呆然としていた。
そのうちに電車が到着し、駅員も駆けつけてきた。
彼女を囲んでいた人々は不満と憤りを抱えて電車に乗っていく。
「そんなに死にたいなら自殺支援でも受けろ! 誰も迷惑しないだろうに」
そんな声が最後に聞こえた。
駅員が人の流れをとめないように彼女をかばい、「立ち止まらないでください」と誘導している。彼女はまだ、身じろぎ一つせずに座り込んでいた。
その中で布川はただ立っていた。自分の影を見るかのように。
ホームが空くと、駅員の一人が布川に近づいた。
「すみません、あなたは彼女が柵を越えようとしていたところを目撃されましたか?」
「え? あ、はい……」
「でしたら申し訳ありませんが、少々お話をうかがわせていただけないでしょうか? 他に目撃者がおりませんのでどうか……」
「あー、はい、いいですよ」
布川は何も考えずに返事をしていた。駅員に促され、彼女とともに駅員室へ向かう。
「ちょっと会社に遅刻すると電話しますね」
「お手数をおかけします」
駅員が丁寧に応えると布川は電話をした。運悪く、イヤな上司に当たった。
事情説明が終わる前に上司の怒鳴り声が返ってくる。
「遅刻するだと? 大した仕事もできないくせに態度だけは一人前か?」
「ですから事情がありまして」
「知るかそんなの! いいからタクシーを使ってでもさっさと来い! もちろん自前だぞ!」
「それならいっそ今日は休みますよ。有給もたまってますし」
「ふざけるな、有給申請してないだろうが! 甘ったれたこと言ってないでとにかく来い!」
布川は腹が立つよりもゲンナリとした。こうまで話が通じない大人がいるのが信じられなかった。
「あの、私のほうからご説明させていただきますので、お電話かわります」
会話が筒抜けだったようで、見かねた駅員が布川に手を差し伸べた。
布川は数瞬だけ呆然とし、それから電話を切った。
「いえ、いいです。大丈夫ですよ」
「ですが、こちらが無理をお願いしているのですから、ご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「本当に大丈夫です。あの人、口が悪いだけですから。あとできちんと説明します」
布川は微笑んでみせた。
「本当に申し訳ありません」
その駅員の姿に、布川のほうが申し訳なく感じた。
駅員室で現場状況を聴かれ、布川は見たままを伝えた。話が済むと、当事者のほうが気になった。
彼女は女性駅員と、警官らしい人間に話を聴かれていた。
ところどころ聴こえた内容は、男にフられた末の自暴自棄だったらしい。長い同棲生活から結婚話まで進んでいたのが、つい先日、男がいなくなり、たった一通のメールですべて終わったのだった。
「好きな女ができたって何よ! 今までありがとうって何よ! 自分だけ気持ちよく終わろうってなんなの! わたしのこれまでってなんなのよ! がんばってきた結果がこれなの!? わたし、何のために生きてるのよぉ!!」
彼女はすべてを吐き出すように叫び、号泣した。
布川は他人事のようには思えなかった。
「ご協力ありがとうございました。お帰りくださって結構です」
駅員が慌てたように布川に告げた。さすがにこうした場に第三者を置いておくのは悪いと思ったのだろう。
布川は駅員室を出た。重いため息も出た。
布川は会社に行かず家へ帰った。会社からの電話がうるさかったので着信拒否をして、放置している。
「何のために生きてる、か」
あの女性の言葉が離れない。それは彼自身の言葉でもあったから。
ふと思い立ち、自己終焉支援制度を調べはじめる。電車に飛び込むよりは気楽に死ねそうだった。
「オレ一人が死んだって数十億のたかがマイナス1。あの彼女を合わせてもマイナス2。世界に何の影響もないカスみたいな数字だ」
そう思うと人間一人の命なんて価値がないのではないかと本気で考えてしまう。
一晩考えて、布川は結論を出した。
翌日朝も空気は冷え切っていた。いつもと違う駅に降り、初めての道を歩く。
目の前に終焉支援センターがあった。
建物を見上げて数秒たたずむ。おじけづくかと思ったが、落ち着いたままだった。どうやら覚悟はできているらしい。そんな自分に驚きつつも可笑しかった。
自動ドアに近づいたとき、隣にいた女性に気づいた。
「あ」
互いに相手を知っていた。昨日、自殺未遂をしたもの同士だった。
「……あなたも、支援を?」
女性は驚いている。自分を助けた――と彼女は思っている――相手がまさか自殺志願者とは考えつかない。
「ええ、まぁ。あなたが先に踏み出したおかげでオレも失敗しました」
「それは……すみませんでした」
女性が律儀に頭を下げたので、布川はまた可笑しくなった。
「行きますか?」
「はい」
二人は並んで建物へ入った。
そして出るときも並んでいた。
「死ぬのもけっこうめんどくさいんですね。財産整理もしておかないと」
「国に半分持っていかれるとは思いませんでした。もっともわたしは男に貢いでほとんど残ってないんですけど」
「ウチはどうするかな。最期だしパーッと使うか」
「最期の晩餐ですね」
「そうだ、よかったら付合ってもらえませんか? 物は処分に困るだけだし、食事や遊ぶくらいじゃ使えきれないし、友人を誘う状況でもない。死ぬ者同士なら気兼ねなく遊べると思うんですよ。もちろん、全額もちます」
「この状況で遊ぶ気分になります?」
「今日明日死ねるわけじゃないですから。最期だと思えば、楽しんでもいいんじゃないですか。自分にご褒美でもあげないと、本当に報われない人生で終わりです。体がマイナス1になるなら、気持ちくらいはプラスにしてやりたい」
「なんです、それ? ……でも、乗りますか。どうせ最期なんですから」
「ありがとうございます。自己紹介まだでしたね。布川真です」
「わたしは――」
一年後、二つのマイナス1はプラス1となった。