4 終焉委任
国立終焉支援センターには毎日、多数の終焉支援希望者が訪れる。しかし時折、それ以外の希望者が困惑した表情でやってくる。
受付事務員、志藤朱音の次の担当はその特殊な人物だった。60歳前後の女性だ。見るからに疲れた表情を浮かべていた。
「あの、すみません、母の終焉支援をお願いしたいのですが……」
顔を背け、声がだんだんと弱くなる。後ろめたさもあってよく現れる仕草である。
「委任状はお持ちでしょうか?」
志藤は心もち高めの声で訊ねた。事務的すぎもせず、かといって明るく話す内容でもない。けれど相手の緊張を少しでも和らげたかった。
「委任状はありません。母は長く認知症を患っておりまして、もう自己判断ができないんです」
「そうですか……」
志藤は多くない経験からすでに察した。彼女は介護に疲れたのだ。金銭や生活の問題、そして精神面、そういったものに疲れ果ててやってきたのだろう。
「委任状、もしくは認知症の診断がされる以前の遺言書や健康管理に関する代理人証明書などがない場合、終焉支援は行えません」
今度は事務的に志藤は伝えた。
「そう、なんですか……? そう……」
彼女の顔は蒼白になり、手が震えていた。国が頼れないならば、と覚悟でもしているかのようだった。
「ですが、専門医師の診断書と保健所の調査書、それにご本人様と申告されるご家族の身分証明書をお持ちいただければ、支援審査は受けられます」
「……本当ですか?」
女性の顔が上がった。
「はい。こういったケースを専門とする弁護士もおりますので、ご相談されてはいかがでしょうか」
志藤はデスクの引き出しからモノクロのパンフレットと弁護士のリストを出した。
「はい、そうします。ありがとうございます」
彼女は何度も頭を下げて足早に去っていった。
志藤は席を立ち、洗面所に向かった。
洗面台に手をつき体を支える。危うく泣き出すところだった。
なんとか堪え、落ち着いたと感じると洗面所を出た。そこに総務部課長の倉家敦夫と出くわした。
「……どうした?」
志藤の顔を見て、倉家は訊ねた。彼女は自分が平常だと思ったのだが、他人からはそうは見えなかったのだろう。
「実は……」
彼女は素直に話した。話せたことで助かった気がした。
「そうか。そういうケースは少なくないからな。今や高齢者介護を高齢者が行うなど当たり前になってきている。しかもそういった介護側は未婚であったり、家族からの支援が得られなかったりと負担も大きい」
「はい。でもわたしが自分をイヤになったのは、支援を勧めたことと、あの人が助かってよかったと感じたことです。これってあの人のお母さんが死ぬのを勧めているわけですよね? 理由があるのはわかるんです。でも、他人に『死ね』って言ってるわけじゃないですか。それを喜んでしまったのがとても、なんか、情けないというか、腹立たしいというか、よくわかんないんですっ」
志藤は顔が熱くなり、鼻水がではじめたのを感じた。泣き出す寸前だった。
倉家は手近な空き会議室に志藤を連れていった。いったん部屋を出て、紙コップのコーヒーを二つ持って戻る。
志藤は鼻をすすっていた。
「すみません、課長。ご迷惑おかけして申し訳ありません……」
「みんな通る道だよ。わたしだって経験がある。この仕事は人の心を救う。けれどそれ以上に人を悲しませているかもしれないんだ。去る者と残る者、どっちが幸せなのかもわからんよ。だから仕事と割り切る者もいるし、良いほうへと考える者もいる。無関心になったり、心を病む人だっていた。本当に辛いと思ったら、迷わず相談に来なさい」
「はい、ありがとうございます……」
差し出された紙コップを、志藤は両手で受け取ったまま口をつけなかった。
「うちの母も認知症だったんだ。最後には家族の顔も覚えていないくらいだった。まだ終焉支援制度はなかったから、何もわからないまま、徐々に体力がなくなって命が削られていく母をずっと見続けていたよ。あれは辛い日々だった。そんな母も、認知症初期のころは自分の物忘れの酷さをとても悔しがっていた。よく言っていたよ。『家族にこんな迷惑をかけるくらいならさっさと死んでしまいたい』とね。それを言うのも、聞かされるのも、イヤな気分だよ。でも、当人はそれだけ自分が悔しかったんだろうね。もしかしたら、その女性も同じ言葉を何度も聞いていたのかもしれない。それが母親の願いだって知っていたのかもしれない。だとしたら、二人はたがいの願いを叶えあったんだよ。そう勝手に解釈しても、わたしは許されると思うよ」
「……はい……」
志藤の紙コップに、小さな水滴の波紋が広がった。