1 ワタシノオワリ
2035年夏、一人の死がそのときを待っていた。
その施設では日々、誰かが死んでいく。多い年では五千人を超え、少ない年でも二千を下回らない。そう考えれば、彼の死など流れ作業の一部に過ぎないとも言えた。
「やれやれ、やっと順番が回ってきたな」
ベッドの老人は安堵したように深い息を吐いた。痩せこけ、頭髪もなく、腕には注射針の跡が残っている。長い闘病生活を物語っていた。
「だいたい、申し込みから一月も待たせるなんてとんだ拷問だ。今さらカウンセリングなぞ必要に見えるか?」
彼は脇に座る娘に文句を言った。
中年の女性は苦笑いした。
「仕方ないでしょ、お役所仕事なんだから。カウンセリングも建前上、必要なのよ」
「ふん、考え直すとでも思ってるのか。わたしにどんな未来があると言うんだ」
老人は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。入退院の繰り返し、一人では満足に動けもしない、一人娘が自分の家庭を放置してまで介護して繋ぐ生命にどれほどの価値があるのか。
「……」
娘は答えない。それでも、という気持ちは多分にある。けれど、その逆の気持ちも否定はできなかった。
「そう辛そうな顔をするな。わたしが望んだことだ。おまえはその願いに沿ってくれたんだ」
「お父さん……!」
娘は目頭が熱くなるのを感じた。視界が揺らぐ。
「準備ができました」
扉がノックされ、若い白衣の男性が入って来た。このセンターの職員で、浜口正というネームプレートが胸ポケットに着いていた。
「そうか、ありがとう」
「ではベッドのロックを外しますね」
浜口は手慣れた様子でタイヤ・ロックを解除し、ほんの少しだけベッドを動かしてみた。問題はなさそうだった。
「ご家族の方もどうぞ。施術までご一緒できます」
「はい」
娘は目元を拭いながら父を乗せたベッドのあとについていった。
三人は何も話さず最期の部屋に入った。中には三名の医師がいた。
「最期に何かあればどうぞ。まだ五分ほどお時間があります」
年配の医師がそう告げた。
娘は何か言おうとして、頭が混乱したように何も言えなかった。
そんな娘の手を老人は握り、「ありがとな」と微笑んだ。
「お父さん!」
娘は泣きすがり、父は娘を撫でた。「元気でな」「仲良くな」「皆によろしく」、そんな父の一言ひとことに娘はただうなずいた。
「時間です」
医師の言葉に浜口は反応し、娘をうながして部屋の外へ出た。
彼は待合室に案内し、女性を落ち着かせた。紙コップに水を注いで彼女に前に置いたとき、左耳につけていた電話とつながるイヤホンが鳴った。二、三の相槌で用件は済んだ。
改めて浜口は女性の脇に立った。
「施術が終了いたしました。先日、ご説明させていただきましたが、お父様は提供部位の摘出後、すぐにご火葬されます。ご遺灰のお引渡しは二時間後となりますので、お時間になりましたら案内所へお越し下さい。また、ご相談・ご質問等があれば相談窓口をご利用ください。できるかぎりのお力添えをさせていただきます。お父様のご冥福、心よりお祈り致します」
浜口は何十、何百と繰り返した口上を述べた。
娘はテーブルの紙コップをじっと見つめたままだった。
彼は返事を10秒待った後、背を向けた。
「……父は」
「はい?」
浜口は娘に振り返った。
「父は楽に死ねたのでしょうか?」
「はい。眠るように安らかに。苦痛もなく、穏やかに死を迎えたはずです」
これも幾度となく繰り返された会話だった。多くの家族はそれを気にする。そして、次に訊ねることも彼は知っていた。
「……これで、よかったんでしょうか?」
遺族には罪の意識が芽生えるようだ。大切な家族をこのような形で亡くすのに堪えられないのだ。だから答えを求める。
「わたしにはわかりません。ですが、お父様に後悔はないと思います」
「そう、ですよね。そう……。そう……」
浜口は今度こそ立ち去った。
彼の仕事は対象者の運搬と家族の案内だけである。カウンセリングは専門家に任せればいい。仕事だと割り切れるからできるのである。
「今日はあと四名か……」
浜口は職員用休憩所で疲れたように腰を下ろした。深いため息が出た。
彼が勤める国立終焉支援センターは、2030年に始まった自己終焉支援制度実地施設である。自己終焉支援制度とはその名のとおり自殺を支援する制度であり、希望者を安楽死させるのを目的としている。ただ、その名称を使う者は少なく、よりわかりやすい通称が世間では広まっていた。
『マイエンド』、私の終わりである。