主なき部屋
何事も無く刻は進んで、雨の予感匂う昼下がり。
椅子に腰掛け、よく分からない文字で書かれた物語の本の、よく分からない挿絵ばかり眺めていた俺にキテラが言った。
「ちょっと出掛けてくる」
「森の中にですか?」
「うん。実験材料をとってくる」
「雨が降りそうです。気をつけてください」
言って、窓の外を見る。
太陽が空に上るにつれて、雲の下は暗くなっていった。
いつもは白色の霧が薄青い。今までで最も視界が悪いと言える。まだ雨は降っていないが、いつ降り出してもおかしくない状況だ。
たとえ相手が森の住人でも心配になる。
「忠告どうも。慣れてるから大丈夫だよ」
キテラは玄関に立ち、昨日作った二段ラックの一段目からポーチを掴んだ。そのままコンビニ感覚で外へ出ようとした背中に、俺はキテラのあるものを見たことがなくて、声をかけた。
「傘は持ってますか?」
「いや、持ってないけど」
「だったら折り畳み傘貸しますよ」
それを聞いて、キテラは天啓に打たれたみたいな顔して両手を合わせた。
「その手があった! 結構前に傘が壊れて以降、替えがなくて困ってたんだ。貸してもらえると助かるよ」
俺はキテラのいる玄関に寄ると、ラック上のバックパックを漁って、中から折り畳み傘を取って渡した。
「雨が降ったらどうするつもりだったんです?」
「ずぶ濡れになって帰るしかないね」
「風邪ひきますよ」
「もちろん知ってるとも」
「なぜに自慢げ……?」
キテラは折り畳み傘の入ったポーチを肩にかけて、扉の取っ手を掴んだ。
「それじゃ、留守番よろしく」
「いってらっしゃい」
一度開かれた扉が閉められた。彼女の姿が見えなくなる。
外で木の板を踏む音が聞こえてきたが、いずれ遠くなり聞こえなくなった。
完全に独りきりになってしまった。
ツリーハウスに一人というのは度々あったが、この巨木のどこかにはキテラがいたので、これは案外初めてのことだったりする。
雨が降って熱を冷ましてしまう前に、魔法の練習をした。
棚に写真立てが置いてあったので、入るべき写真が無く、木の裏地が露わになっているそれを拝借する。
テーブルに写真立てを置いて、離れた場所に立って魔法の行使を試みる。
……どれだけ念じても、やはり動かない。
キテラ曰く、失敗するのは雑念が入っているからだそうだ。
複雑な魔法を行使するには、誤差を減らす為に一度意識を空っぽにして、その上で魔法に使う意識だけを想起しなければならない。これができるようになるのに10年はかかると言う。
しかし俺が使おうとしているのは簡単な魔法で、センスに依るところが大きく、練習期間は人によって全く違うそうだ。
気づけば雨音が降っていた。
雨は理由もなく人を感傷的な気分にさせる。
目に追えないほど小さな水が、線を描きながらシトシトと落ちていく。
キテラは大丈夫かな。
今は傘が大いに役立っている頃合いだろう。
呑気に外を見ていた。
雨に呑まれかけた思考が、忘れていたことにハッと気づいた。
「洗濯物!!」
地上への梯子を降りる最中、上の葉々が傘となって雨除けをしてくれる。その代わり、たまに大粒の水滴が頭や肩に落ちてきて弾けた。重く冷たい水を感じた。
巨大な傘はかろうじて雨から洗濯物を守っていた。
けれど乾き切っていないのか、防ぎきれなかった雫に濡らされたのか、洗濯物は若干濡れていた。
物干し竿から籠へと洗濯物を入れて、荷台に乗せて、滑車で上まで運んだ。
踊り場からツリーハウスまではほんの僅かな距離だ。しかし、だいぶ疲れて息が切れたので休憩しなければならなかった。
雨の日は疲れを感じやすい。これには理由があるのだろうか。
籠を室内に持ってきた。
洗濯物を干せる場所を探す。
ロフトにいい感じの出っ張りがあったので、そこにハンガーをかけることにする。
実際にかけてみると、驚くほど丁度良く収納できた。
疲れを自覚しながら椅子に腰掛けた。
熱は冷めてしまっていた。
ラジオでも聴くかと、緩慢に立ち上がって棚付きチェストに寄る。移り気な思考は、何気なく、何が入っているのか気になってチェストの一番上を開けた。
何かの資料や、ただの白紙など、雑多な紙が大量に入っている。
その上に一枚のモノクロ写真があった。劣化して黄色みがかっているが、ツリーハウスで撮られたものだと分かる。
キテラと並んで写る白髪の老人がいた。背が高く、白髭を生やした優しい顔立ちだ。彼は灰色のロングコートを羽織り、片手に杖を持ち、紳士的な服装を着こなしている。高名な方なのだろうか。そう思わせるような威厳ある佇まいだ。
写真立てがあるのに、なぜ写真だけが無造作に置かれているのか疑問に思った。
手に取ると、そのさらに下に、他の紙束と共に埋もれていた日記帳のようなものを見つけた。開いてみると、やはり日記だった。
キテラも日記をつけてたんだ。
同じことをしているのが、なんだか嬉しくなった。
魔が差した。
それもちゃちな悪魔じゃない。一瞬だけ、俺の心に大悪魔を呼び出してしまった。




