砂の丘
風紋を踏み散らしながら、走っていた。素足に刺さる小枝にたまに呻き声を上げながら。砂は軽く纏いつき、だんだんと私の体力を奪って行った。
後ろからどこまでも追いかけて来る男は、顔が見えなかった。知らない男だ。松林が、流れるように横へ動き、音もなく私達を見ていた。それは鳥のように遠くから、確実に私よりも、この砂の丘の全体像が見えている隠者のように感じられた。
温泉のように鉱物臭い風が鼻をつく。逃げなければ、逃げなければ。捕まってしまったら、もう二度と平穏な日常には戻れないような気がして、私は男から逃げた。
海はあんなに近くに見えるのに、走り続けても一向に近づけなかった。
誰もいない。誰かいてほしかった。私に辿り着く別の場所を与えてほしかった。
見渡す限り砂に風紋の描かれただけの上で、私は遂に力尽き、前へ倒れた。
「矢があるわよ!」
私は身を翻しながら、呪文の言葉を叫んだ。
「私は体中、どこからでも吹き矢を飛ばせるんだから!」
追って来た男の顔が見えた。知らない男だ。心配そうに私を見ながら、私の名前を呼ぶと、言った、
「落ち着こう」と。
「矢が! 矢が! 矢が飛ぶわよ!」
私は泣き叫んだ。
「本当なんだから! 近寄ると死ぬんだから!」
「帰ろう」
見知らぬ男は言った。
「こんな吹きっさらしの中にいたら君のようになって当然だ」
男が私を抱いた。私は抱き起こされた。私は自分の涙の温度を彼の固いセーターに感じた。
これでもう日常には戻れないだろう。私の日常はこの砂の丘。
果てしなく受け止めてくれる砂の大地に、幻の矢を自由に飛ばして遊ぶことの出来た、何もない日々にさよならを告げた。