記憶喪失の若き伯爵夫人を追い込むのは記憶を失う前の自分でした
契約結婚について互いの署名が記された契約書が一枚。
そしてこれまた同じく互いの署名のある離婚届が一枚。
物騒極まりない書類二枚を目の前にした時の適切な対応を答えよ。
そんな問題を読み上げる声が聞こえた、ような気がした。
「いやあ無理でしょうこれ」
思わず漏れた声にフェリシアは自ら口を覆った。目の前の青年が怪訝そうな、そして若干青ざめた顔でこちらを見る。
美貌の若き青騎士、とこの青年が呼ばれているのをフェリシアも知っている。同じ伯爵家、ではあるけれど、第二王子の専属護衛も務める社交界でも今一番人気と言われるグレン・ハンフリーズ伯爵。それに比べてこちらはなんとか伯爵家の体面を保っているだけの貧乏伯爵。到底こうやって豪華なテーブルを挟んで差し向かいで座っていられる関係性などないはずであったのだが、驚く事にフェリシアは彼の妻であるそうだ。
そうだ、という伝聞系なのはフェリシア自身にその記憶が無いからである。彼と結婚したというこの三年間の記憶を、彼女は一週間前に失ってしまった。いわゆる記憶喪失状態だ。
屋敷の裏庭で倒れていたフェリシアはすぐに医者に掛かったがそれから丸二日目を覚まさず、三日目にしてやっと起きた時には綺麗さっぱりと彼の事を忘れていた。
タイミングの悪い事に王子の護衛として隣国に出ていたグレンが急いで戻って来たのは四日目。妻の症状を知った時の彼の心境は想像に難くない。あげくその妻に
「社交界きってのイケメンって大騒ぎされてる伯爵様と私が結婚してるなんて嘘でしょー! ありえませんって!」
などと医者は元より伯爵家の従者、果ては心配して見舞いにまで来てくれた王子のいる前でそんな事を告げられたのだから余計に酷い。そんな冬山よろしく凍り付くその場で
「政略結婚にしたって差がありすぎ……あ、もしかしてこれ契約結婚みたいなものなのでは?」
無邪気に追い打ちをかけたのも今となっては遠い昔の様だ。つい最近の話だけども。
「それにしてもやっぱり契約結婚だったんじゃないですか」
手元の書類に手を伸ばしフェリシアは改めて文面に目を通す。
これが契約上の婚姻であるという一文を筆頭に、細やかな契約内容が綴られている。
「最初に訊いた時に言ってくれたらよかったのに」
「……言えるわけがないだろう」
地を這う様な低い声に、フェリシアは言われたら確かにまあそうだなと思い直す。少なくとも、第三者がいる場でできる話題ではない。
「でもその後にも私訊きましたけど?」
ぐ、とグレンが言葉を飲み込む音がする。尋ねこそすれ、特に答えを求めていたわけではないのでフェリシアは話を続ける。
「これ契約期間は一年で終了って書いてますけど、今が結婚して三年目ってことは契約更新したんですか?」
契約結婚は一年間の限定。但し双方に延長せざるを得ない理由がある場合は一年ごとの更新とする。
「二回も更新しないといけないような事情があった……ん、ですねわかるわかります伯爵様モテるけど女運悪そうですもんね」
二人が契約結婚に至ったのは至極簡単である。フェリシアは没落寸前の実家を救うための言ってしまえば金目当て。グレンの方は次から次へと舞い込む縁談やらすり寄ってくるご令嬢方に辟易しすぎての虫除け目当て。
「だからってこんな八つも年下の貧乏伯爵令嬢にその役が担えるかって話ですけど」
「それは……待て、今君はなんと?」
「え、私に虫除けが」
そうじゃない、とグレンは頭を振る。
「分かる、とやけに感情が籠もっていたが……何か思い出したのか?」
「ああ、それはですね、昨日王宮にお見舞いのお礼に行った帰りに、やたら気の強そうなご令嬢に会いまして」
フェリシアはその令嬢を覚えてはいなかったが、相手の方はフェリシアを知っていた。グレンとの結婚に際しての顔見知りか、はたまた一方的に知られていたのか。どちらにせよ彼女は「記憶喪失の伯爵夫人」と声を掛けてきたのだ。
「心お優しいグレン様のご厚意に図々しくいつまでもあぐらを掻いて居座っているだけでもとんでもないのに、今度はそれ自体を忘れてしまっただなんて無礼にもほどがありましてよ!? 自ら頭を下げて即刻消え去るのがせめてもの礼儀ではなくて!?」
突然そう言い放たれたのだと、フェリシアは声真似までしてみせる。
「すごいですよね、こっちが記憶喪失なの知ってる上でコレですよ。性格きっついなこの人! って思いました」
そんな令嬢に今も狙われている目の前の伯爵様がフェリシアは気の毒でならない。
「隙あらば、なのかもしれないですけど、普通言えないですよねこんなこと。それでも構わず言ってくるんだからどれだけよ、って。そりゃ伯爵様も契約結婚の一つや二つしちゃうのも分かります」
「君はそれで大丈夫だったのか? 他になにか酷い事を言われたりは」
「あまりにも見事な悪役っぷりに思わず吹き出しそうになったけど大丈夫! ちゃんと耐えました!」
そうじゃない、とでも言わんばかりにグレンがひどく長い息を吐いて項垂れる。フェリシアはそれに気付かないフリで話を続けた。
「直接言ってきたのはそのご令嬢だけでしたけど、遠巻きになにか言ってるなー、てのはありましたね。やたらチラチラ見てくる人もいたし。もしかしてずっとこんな感じだったんですか?」
「どうだろう……君は……いつも心配ないですとしか言ってくれなかったからな」
けれど、とグレンはもう一度溜め息を吐く。
「だが、それを鵜呑みにして確認しなかったのは間違いだった。おそらく君は、ずっとそうした誹謗中傷を受けていたんじゃないだろうか」
だから記憶を失ったのだ。辛い目に遭い始めた結婚してからの三年もの記憶を。その原因となったグレンと、少しでも関わりのある者全てを根刮ぎ。
「どうですかねー? あれくらいのは別に気にするだけ無駄って言うか、どちらかというとわくわくする感じでしたけど」
そんなグレンの思考をフェリシアはあっさりと切り捨てる。
「前の私と今の私とでは全くの別人では? ってくらい違うっていうのはもう耳にたこができちゃうくらい聞きましたが、でもこれって多分元々あった性格が表に出てきただけだと思うんですよね」
記憶を失う前のフェリシアはとても静かで大人しい性格をしていた。ところが今はこんなにも――
「……明るいな」
「言葉を選んでくれる伯爵様の優しさに涙が出るけど、同時に若干心抉られるのでお気遣いは結構です。なににおいても大雑把なのが本当の私なんだと思います!」
良く言えば明るく朗らか、悪く言えば脳天気で雑。それが自分なのだとフェリシアは思う。そうでなければ、妻が記憶喪失となった夫を相手に
「よっぽど忘れたいくらいイヤだったんですかね!」
だなんて言えるはずがない。顔面蒼白となった美貌の騎士の顔はきっと何があっても忘れないだろう。それこそもう一度記憶を失ったとしても。あれは心臓に悪すぎた。
「でも君はそんな顔をこれまで見せてくれたことはなかった」
「そんな顔って今のこののほほんとした顔ってことですか? そんなの猫被ってたからじゃないです?」
「どうしてわざわざ猫を被る必要が? 夫婦であればそんな必要は」
「夫婦って言っても契約上の、ってのもあります! ありますけど!!」
途端に沈痛な面持ちになるグレンを前にフェリシアは慌てる。どうやらこの伯爵様は相当に傷付きやすいらしい。契約結婚の相手なのだから、お互い割り切っていたのではないのだろうかとフェリシアは思うのだが、とにかく夫婦間の情は特に無かったのではと言った話題は地雷のようだ。
「猫を被るのなんてつまりは相手に嫌われたくないとか、少しでも自分を良く見せたいってことだろうから、まあほら、伯爵様にもそんな風に思われたかったんじゃないですか? 契約結婚打ち切られても困るし!」
最後の言葉はなんとか飲み込んでその直前までを口にする。「繊細っぽい伯爵様が面倒くさくなったのかもですね」とも言いそうになったが、それはどうにか腹の奥底に封印した。
「嫌われてはいなかったんだろうか……」
「そうじゃないですか? 少なくとも私の家族? よりは好きだったと思いますよ」
娘が記憶喪失になったとの連絡を受け、急ぎ駆けつけたフェリシアの両親は真っ先にグレンに詰め寄った。これを機に離婚するんじゃないか、それと同時に支援金も打ち切るつもりじゃないのか、と。
扉を隔てた内と外。
ベッドの上でその声を聞いたフェリシアは率直にこう思った――私の両親わりと屑なのではなかろうか?
「そもそも金策のためにある意味娘を売り飛ばしてるようなものじゃないですか。いくら政略結婚と言ってもですよ。そんな両親に比べたら、伯爵様の方が絶対良いに決まってますもん」
だからこそ謎でならない。どうして記憶を失う前の自分は、離婚届と言うこの場において最も圧を放っている物に署名をしているのだろうかと。
「これって契約の最後にある【妻の自由意志により離婚届は提出可】ってのですよね?」
「ああ、君が私との契約を辞めたい時に即実行できるように、こちらの分は先に記入して渡しておいたものだ」
提出する日付の記入だけが空欄になっているが、そこさえ埋めれば書類としては完了だ。然るべき手続きを終えれば、この結婚も終わりとなる。
グレンと結婚してからの三年間。その記憶が微塵もない現状でどうこう言える物ではないけれども、それでもやはり、わざわざ離婚する利点が無いとフェリシアは思う。離婚してどうするつもりだったのだろうか、自分は。下手をすれば屑の両親から新たな金蔓をと別の相手と再婚させれられるかもしれない。その相手がグレンより格上の可能性は極めて低い。だってここが最上級の位置なのだから。
記憶は無いが、それでも周囲の者への態度、逆に周囲からのグレンへの態度、を見ていれば彼が人格者なのは一目で分かる。もしかしたら、万に一つの可能性としてではあるけれども、フェリシアに限ってだけ、そうではなかったかもしれないが。
「君に対してだけ態度が違ったとか、そんなことはしていない」
「うわ!? なんですか人の考え読まないでくださいよ!」
ボソボソと口に出していた自覚はフェリシアには無い。グレンは眉間に皺を寄せつつこめかみをそっと押さえた。
「伯爵様が私にだけひどい態度だったとかそんなんじゃないなら、あと離婚の理由で考えられるのっていったら……」
「君に……本当に大切な相手ができた、という事か……」
「パッと浮かぶのなんてそれですよねえ」
「――なんであれ、君に私との契約を終わらせたいという意思があったのは分かった」
グレンは重く口を開く。
「君の症状が落ち着かない事には今すぐ、とはいかないが」
「私としては今すぐでも構わないですけど?」
「そうまでしてここから出て行きたいのか」
「ああああ違います、そうじゃなくて! これ以上伯爵様に迷惑かけるのも申し訳ないなって! 多分今の私、って言うかきっと前の私もそうだったと思うんですけど、わりと余裕で一人で生きていける気がするんです」
「その自信はどこからくるんだ」
「勘!」
呆れと腹立たしさともう一度呆れの混ざった特大の溜め息が二人の間に落ちる。
「君が記憶を失ってまだ一週間だ。これからどんな症状が出るかも分からないし、そもそも君が倒れていた理由だって不明なんだぞ。もし誰かに襲われて、それが原因だったとしたら」
「十中八九私が勝手に転んで打ち所が悪かっただけじゃないかと思います」
「そうだったとしても! 記憶喪失の妻と離婚したあげく一人で屋敷から出すなんて簡単にできるわけがない」
「あー……そうか、世間体……」
「……そう思ってくれて構わない」
それ以外に何が? とフェリシアはグレンを見るが、彼が口を開くより先に部屋の扉を叩く音が響く。来客を告げる執事の声に、これ以上この話を続けるわけにもいかず、今日の所はこれで終了となった。
部屋を出る寸前、ソファに腰を下ろしたままのグレンの顔が一瞬だけ泣きそうに見え――それが何故かフェリシアの胸に刺さった。
※※※※
その時の痛みは三日経った今も地味に続いている。またしても彼を傷付けてしまった事への罪悪感かと、ならばどうにかしてそれを払拭しようとフェリシアは今一度自分の部屋を漁っていた。
君に本当に大切な相手ができたという事か――
グレンはそう言い、そしてそれがどうやら正解であると結論付けたようだが、フェリシア本人としてはそれは違うと思う。だってそんな相手の記憶など今この瞬間だって蘇ってこない。綺麗さっぱり失った記憶の中にある。
「そもそもそんな相手がいたのかしらねって話だし」
フェリシアもグレンの意見に同意したようなものではあったが、あれはあくまで一般的な話としては、であったのだ。
「あれから伯爵様も忙しそうでゆっくり話できてないしなー」
傷付いたであろう彼をどうにかしたい。どうにかするには何かを見つけるしかない。その何か、って何よ、と自分で自分に突っ込みをいれつつ、フェリシアは分からない何かを探す手を止めない。
あの契約結婚の紙と離婚届みたいに、もっと変な所に隠しているのがあるはずだ――自分なら、きっと
貴族の令嬢とはとても言えない今の自分があまりにもしっくりときすぎている。ならばこれが本来の、本当の自分だったのだろう。
「だから絶対こんな所に隠してるなんて頭おかしいんじゃないの!? って所にあるはずなのよ! なにかが!!」
そう叫びながら頭と手を動かす事しばし、ようやくフェリシアは見つけた。今度は化粧机の引き出し、の、天板に隠されていた。小さく折りたたまれた便箋が二十。それを一つ一つ広げて中身に目を通し――フェリシアは喜びに身体を震わせた。
これは間違いなく伯爵様を喜ばせることができる!!
綴られていたのは記憶を失う前の自分の素直な想い。彼へ対する、言葉に出来なかった気持ち。
ぶっちゃけ自分面倒くさいな? と思わなくもないけれど、まあ以前の私は静かで大人しかったらしいからしかたないね! と軽く片付けてフェリシアは自室を出た。向かう先は一つ、グレンの部屋しかない。
はたして彼はいるだろうか、と考える事すらせず、フェリシアは重厚な扉を元気に叩いたあげくろくに返事も待たずに中へ飛び込む。
「伯爵様! これ! これ見てください!!」
何事かと驚き駆け寄るグレンの前に、フェリシアは広げた便箋の束を差し出す。
「どうしたんだ一体……それにこの紙は……?」
「もうちょっといやですよ伯爵様の奥様ったらとんだ恥ずかしがり屋さんみたいですよ」
何故か口調が噂好きのどこぞのご婦人の様になっているが、フェリシアはそれに気付いていない。含み笑いまでしているので、グレンの顔付きは怪訝、の一色に染まっているがそれにも気付かず軽く彼の脇を肘で突いてくる始末。
「いいからまあこれを見てくださいって。奥様に他に大切な相手がいるんじゃないかって勘違いして傷付いちゃった伯爵様が元気になれますから」
「な……っ!」
美貌の騎士様の顔が瞬間的に朱色に染まる。伯爵様ったら可愛い! と咄嗟に叫びかけたが「んん゛ッ!」と咳払いで誤魔化し、フェリシアはまずは一枚、と彼の胸元へ便箋を押しつけた。
「奥様から伯爵様への気持ちがわかりますよ」
「……君から、私への?」
「はい――……はい?」
グレンの手が押し付けられた便箋に触れる。それを渡すのが目的であったはずなのに、フェリシアの手も便箋から離れない。
なんだか、とても、これを渡してはいけない気がしている。とてもする。ものすごくする。渡してしまったが最後、過去の自分が発狂して今の自分を殺しに来かねないくらい、渡してはいけないものではないか! この便箋は!!
「私の妻は君だけだ。だからこれは、君から私への」
「あーっっっっ!!」
突然叫ばれては流石の騎士であっても驚くというものだ。それが自分の妻であれば尚更に。
「フェリシア?」
「わーっっ!!」
「フェリシア!?」
ボフン、と頭から湯気が出る。全身真っ赤に染めたフェリシアは叫びを上げ一歩、二歩、と後退し、三歩目で扉に背中が触れた所でクルリと背中を向けて走り去る。
「フェリシア!」
つられてグレンも一歩外へと踏み出した時、ハラリと便箋が床に落ちた。押し付けられたままだったそれを、フェリシアは回収するのも忘れて逃げたのだ。
見てもいいのだろうかと一瞬悩みかけたが、これを見ろと持ってきたのは彼女だったなとグレンは裏返ったまま落ちた便箋を拾い目を落とし――
「フェリシアーっっ!!」
これまた叫びをあげながら逃げた妻を追いかけた。
※※※※
よほど動揺しているのか、点々と便箋が落ちている。それを拾い、時には拾ったメイドから受け取りつつ、ついでに彼女の目撃情報も得つつグレンは中身を読んでは新たな叫びを上げそうになる。
皺だらけの便箋に綴られていたのは、フェリシアからの――記憶を失う前の彼女からの、自分に対する愛の言葉だった。
便箋一枚に書かれている言葉はどれも短いけれど、それが余計に彼女の想いの深さが伝わってくる。
良かった、自分だけではなかった、彼女もきちんと愛してくれていたのだ――
フェリシアが幼い頃に、二度だけグレンは彼女と会っている。彼女の本当の両親がまだ健在だった頃に。
街中で迷子になっていた幼い彼女をたまたま見つけ、保護し、送り届けた事がある。迷子のわりには元気で明るく、泣いたりもせずそれどころか遊び相手ができたとばかりにはしゃいでいた女の子。てっきりこの近くの子供だとばかり思っていたら、まさかの貴族のご令嬢で。その頃のフェリシアの屋敷はグレンの実家よりも見事な美しさと広さを持つ、王都でも屈指の伯爵家だった。
あのお転婆が伯爵家のご令嬢とはね、と別れてからもしばらくは記憶に残る程の存在感。それでも徐々に懐かしい思い出の一つ、となりかけていた時に再びグレンは彼女と出会った。
とある貴族が主催する夜会で、社交界にデビューしたばかりであろうフェリシアの姿を見た瞬間、あの時のお転婆だと気が付いた。屈託なく笑う姿が全く同じで、けれどもあの頃よりは随分と可愛らしく、そして美しく成長した姿にアレがこうなったのか、となんとも愉快な気持ちになった。ほんの一瞬、声をかけようかとも思ったが、どうせ覚えていないだろうし、なにより彼女は想う相手がいるようだと、チラチラと視線が向かう先の男を見てグレンはその場を後にした。
人の恋路を邪魔する趣味はない。しかしあの男はあまりいい噂は聞かないから止めた方がいいぞと、そんな嫉妬ともとれる感情には蓋をして。
たった二度の邂逅。そんな彼女との三度目の出会いとなったのは、かつて大貴族として名を連ねていた伯爵家が今は没落寸前で、そこのご令嬢が起死回生の玉の輿を狙っている、というなんとも下賤な噂が切っ掛けだった。
その伯爵家の名に覚えがあり、それとなく調べてみればまさにあの時の家の事だった。どうしてそんな事に、とさらに詳しく調査をしたところ、彼女の両親が馬車の事故ですでに故人となっており、伯爵の弟が家名を継いだという。そしてこの弟がとんだ屑であり、引き取った兄夫婦の娘、つまりフェリシアが本来得るはずだった遺産までも食い潰し、あげく彼女を使ってなんとか没落を回避しようとしているとの話。
そこまで知って、グレンはすぐに動いた。彼女が参加するという夜会に急遽自分も加わった。会ってどうする、どうするかは会って考えればいいと、普段のグレンであれば絶対に取らない行動。そうしてまで会いたかった彼女は、全くの別人かと思うほどに暗く悲しみに満ちていた。場に合わせて無理矢理笑う姿が痛ましすぎて。そして、すでに彼女がとある公爵家と見合いをするようだとの話を聞いて。
居ても立っても居られず、グレンはその日その場所でフェリシアに結婚を申し込んだ。
驚き固まる彼女を宥め、お互いのための契約だと思えばいいと、その場しのぎででっちあげた嘘が固まりそれに縛られ、結果として二人傍にいるのに心の距離は遠いまま三年という月日だけが流れ、ついには彼女の記憶からも消し去られた。
全ては自分の独り善がり。それは端から分かっていた。けれど、それでも、せめて彼女がもう一度、幸せそうに笑う姿を見る事ができれば。その助けができればと――その時、隣に立っているのが自分ではない他の男であっても、もうそれでいいと言い聞かせていたのだ。
フェリシアが便箋を持って飛び込んでくるその時までは。
「フェリシア!!」
「あーっ!? 嘘でしょ伯爵様速い!」
貴族のご令嬢にあるまじき足の速さでフェリシアは逃げるが、グレンは騎士だ。お飾りでもなんでもなく、実力の伴った騎士の中の騎士。
「俺から逃げられると思うなよ!」
「それ悪役の台詞ー!!」
あと俺って! 俺って!! とグレンの口調が変わっている事にも驚きながら、それでもフェリシアは止まらない。
「俺だけが君を愛しているとばかり思っていたから、それが重しにならないようにと必死に体面を取り繕っていただけだ!」
「伯爵様の猫被り!」
「そうだ! 君に嫌われたくない一心で猫を被っていたんだよ俺は!」
ダン、とグレンは床を蹴る爪先に力を篭める。
「だけどもう猫を被るのは止める! 君も俺を好きだと想ってくれているのなら、これからは手加減せずに本気でいく!」
「そ、れは、以前の私であって今の私じゃ」
「なら今の君にも俺を好きになってもらえば済む話だな!」
グレンは手を伸ばす。指先がフェリシアの腰のリボンを掴む、寸前。
「そうは問屋が卸しませんからね!!」
フェリシアは階段の手摺りに飛び乗ると、そのまま一気に滑り降りる。騒ぎに駆けつけたメイドが一人、あまりの光景に悲鳴を上げた。
「誰が簡単に捕まるもんですか!」
最早何故逃げているのかフェリシアにも分かっていない。しかし鬼の形相で追われてしまえば誰だって逃げるだろう。それが美形であれば尚更だ。イケメンの圧が怖い。
正面の扉へと走り寄るフェリシアからは勝利の確信が溢れている。外へ出た所でどうなると言うものでもないが、それでもまずは勝ち星一つだと、扉まで残り数メートルの距離で背後から新たな悲鳴と、そしてズドンという地響きが上がった。
そこで振り返ってしまったのがフェリシアの失敗。
目の前に立つのは当然グレンしかいないが、彼は階段の上にいたはずだ。駈け降りたにしてもフェリシアが扉を開けるのが早かったはず、なのだが。
ドン、と耳に痛い音と共に全身に衝撃が走る。しかし音に反して痛みは全くない。反射的に瞳を閉じてしまったフェリシアは、恐る恐る目を開き周囲を確認しようとし――そして固まった。
高さを物ともせず飛び降りてきたグレンに、扉に押し付けられた形で動きを拘束されている。
「誰が簡単に逃がすかよ……!」
口の端を緩く上げて笑う美貌の伯爵騎士様の恐ろしさといったら。
「こわっ! ちょ怖い! 伯爵様怖すぎるしほんとそれ悪役の台詞!!」
「君が俺のことを名前で呼ぶなら少しは手加減するけど?」
「は!? 伯爵様を名前で!? そんな恐れ多くて呼べるわけない!」
「随分と他人行儀だな」
「だって他人じゃないですか!」
思わず吐いて出た言葉であるからこそ、フェリシアの率直な気持ちでもあるわけで、当然それはグレンも充分に理解している。
そして同時にフェリシアも理解した。今の言葉が、とんだ地雷であったという事を。
「ハンス! 俺は今からフェリシアに色々と教え込まなければならないから、すまないがこれから数日、俺への用件は保留かお前の判断で断ってくれ」
遠くから事態を見守っていた老執事にそう伝えると、グレンはフェリシアの身体をあろうことか肩に担いで歩き始めた。
「ちょっとーっ!? 伯爵様!?」
「大丈夫だフェリシア、君は記憶を失っているが、それを補うだけの情報をこれからしっかり、時間をかけて教えていくから安心してくれ」
何一つ安心できる要素がない。何故数日、そして何故グレンの寝室へと向かっているのか考えたくない。
救いを求めたくとも唇はあわあわと虚しく動くだけで言葉は出てこない。故に誰も助けに来る事はなく、フェリシアの姿はグレンと共に寝室へと消えた。
その後、フェリシアは無事記憶を取り戻し、その頃には契約結婚という文字の最初の二文字は消え、ついでに離婚届も消え失せ、王都でも屈指の仲睦まじい夫婦として名を広める事となったが、記憶を取り戻す切っ掛けについては
「その時の記憶を犠牲にして思い出したようなものなので!」
その一点張りで、真実が表に出てくる事は決して無かった。