レタヴィア王國が首都、ナムネテスに在したるリゲル宮殿にて、王妃メリンダは、夫君ガリンテルよりの使ひの者から、『異國より、高貴なる客人、來訪す』との先觸れが報せを受け、速やかに家中の召使ひ達を悉く呼び集めて、「聞けや、皆の者。此れより吾が殿が、異邦の君を伴ひて歸城せり。早急に大廣閒を絢爛豪華に飾り立て、宴會の支度を設けさせよ」と宣ひて、指示を下す。
而して暫しの後、會場の手筈が調へ終りて、母娘と臣下達が、國王を出迎へんが爲に、門前にて待ち構へたりし折、貮人の王が、今宵の醼が肴物を引提げて、リゲル城へと辿り着く。
ガリンテル王はペリオン王に、「貴殿に、余の家族を紹介致す」とて、己が妻子を引き合はせて大廣閒へと赴き、上座の食卓にはガリンテルとペリオンの兩王が、次に夫々の隣が席には、妻たるメリンダ妃と娘たるエリセナ姫が坐り、然して、渠等の尊高富貴なる身分に相應しき饗宴款待が催されり。
宴も酣と爲りし折、ふと御互ひに視線を交して、昵と見詰め合ふや否や、忽ちエリセナ姫は、己が生涯初めての、決して逃るる縡適はぬ戀と謂ふ名の病に罹り、得も言はれぬ感情の虜と成り果てれば、迚も折り目貞しく、愼ましやかなる彼女が是迄の生活で積み重ねたる行德は、既に水沫の如く無へと帰して、最早神への敬虔なる信仰の祷りを以てしても、其の胸が熱き鼓動の昂りを、躬らの意思のみにて抑へ込む事能はざりき。
而して、假令何程見目麗しくとも、是迄如何なる女性にも斷じて精神を開く縡をせず、若し幾度とも無く相手方より、閨を同じうして、生涯を共にせん事を烈しく請ひ求められ樣とも、何人たりとて、其の身を構へて束縛さるる事も無かりしペリオン王なれど、胸の内では、『よもや自分は然に非ず』と頑なに否まうとも、詮ずる所、彼も又、エリセナ姫と同じく、戀の疾を患ひたれば、畢竟兩名は、晩餐の最中、終始上の空、心は焉に在らずと言ひし具合で、御互ひに口數の少なき儘、時を過ごせり。
斯うして貮人の憂ひ人は、畢竟料理には殆ど口を付ける縡無く、軈て晩餐は終りを迎へ、食卓は片附けられ、ガリンテル王は政務に、メリンダ妃は部屋へと戻る旨を傳へて、各々席を離る。
エリセナ姫も又、母親君に續き伴ひて立ち上がらば、衣の裾より、煌びやかなる指環が袰と落ちつ。
厥は、斯の時得體の知れぬ、陶然としたる困惑に囚はれし彼女が、食前の洗滌が際に、己が指先より外し置きたる縡を失念したるが故の物なり。
エリセナ姫は、即座に腰を屈めて指環を采らんとするも、其所にペリオン王が來りて、「予が御取り申す」とて腕を伸ばしたれば、貮人の指が同時に觸れ重なり合ふや否や、唐突にペリオン王が彼女の手を摑みて、岌と強く握り締めり。
ペリオン王が此の慮外なる行爲に、エリセナ姫は思はず頬や耳鼻を眞赤に染め擧げ、羞恥と恍惚が交叉する色を湛へし瞳をペリオン王に向けて纔かに眺めけるも、撥と我に返りて、彼から顏を背き、エリセナ姫は、漸く己の小細き聲を振り絞りて、「御無體を。貴方樣程の御方は、斯樣なる輕擧は愼むべきかと存じ上げます」と呟き宣へり。
「噫、我が君」とペリオン王はエリセナ姫の手を握り締めたる儘、彼女の耳元へと囁き宣はくに、「今日の吾等が出會ひを、此れを限りに終幕と爲す事勿れ。予は己が全生涯を賭して、御身に仕へん縡を茲に誓はんぞ」とて、宛ら婚約の誓ひが如くに、指環を填めつ。
ペリオン王の言行に、エリセナ姫は激しく動搖し、礑と彼の方へと顏を向けるも、思はず尓の握られし隨の手を振り払ひ、振り返る縡無く、恰も逃げ去るが如くに、直ぐ樣母メリンダの後を追ひたるも、精の裡で吹き荒びし暴風雨に因て、既に其の眼には何も他もが映らざりき。
エリセナは、曾て躬らが懐きし古き了見を最も容易く、粉微塵に搏ち碎きたる、未知の眞新しき思考より起りし、斯の胸が苦痛に堪へ兼ねたり。
其處で、自身が尤も信頼せし腹心の侍女ダリオレータに、己が意中を打ち明かさん事を思ひ立つ。
然る程に、生涯初めての戀に惱み苦しみたるエリセナ姫は、己が寝室へと辿り着き、中に入りて扉を閉むるや否や、側に控へし侍女のダリオレータに詰め寄り、厥の手を取りて宣はくには、「嗚呼、ダリオレータ!我が魂の姉妹にして、唯壹無貮なる腹心の友よ!陛下には、ペリオン樣には、若しや何處か他所にて懸想せし婦人抔が居らんかや!?妾が感じ得たりし斯の胸が内の、言ひ知れぬ激情が昂りと均しき物が、彼の御方が心の中にも在らんかや!?ダリオレータよ、妾は如何に爲すべきかや!?」とて大いに精神を搔き亂しながら懇願して、其の瞳に憂ひの色を滲ませつつ、意の奧にも多くの涙を溜め湛へて、ダリオレータからの口添へを請ひ求めり。
侍女ダリオレータは、己が主人の瞭らかに常軌を逸したる、未だ嘗て無き突然の變り具合に思はず驚き、エリセナ姫の潸々と流るる大量の泪を察るや否や、非常なる憐れみを覺えて曰く、「姫樣、先ずは爾の兩眼より落ちし涙を御拭きなされませ。貴女樣に泣顏は、そぐはんや。愛と云ふ名の暴君に詰め寄られ、情熱の趣く儘に衝き動かされては、最早周圍よりの適格なる助言や勸告さへも、承け容るる術や餘地は莫き物と御見受け致しまする。其れ故に、單なる側女の義務では無く、自らの忠誠心から稟し上ぐるには、不肖、這の私奴が有らん限りの淺慮と、必ずや姫樣の御役に立たんとする心意氣に賭けまして、是が非でも手段を觀付けて、仰せの通りに致しますれば」
眞友が此の言を聞いて、エリセナは漸く冷静を取り戻し、而してダリオレータは、姫の心が落ち着きたる縡を確と認め、許しを貰いて彼女の御前を退出す。
直ちにペリオン王が御在す寢室へと赴くと、王の從士ユスティーノがペリオンが代への召し物を持ちて、扉の邊りで待機せる所を見つけ、彼に近寄りて曰く、「此方殿。ペリオン樣は斯の私奴が抜かり無く世話する故、汝は爰とは他の用事を濟ませ給へ」
從士ユスティーノは、『然も有りなんや。姫君の腰元たる此の者ならば、吾よりも主樣の御用に立たんか』と倩々考へて、腕に抱へたる召し物をダリオレータへと手渡し、自身は其處より退去す。
然して、ダリオレータが戸板を叩いて部屋へと入ると、寢臺ではペリオン王が横と成れり。
『はてな、ユスティーノかや?壹體何事ぞ?』と思ひて、扉が開きし音の方へとペリオン王が顏を向けると、厥所に壹人の婦女が姿を認む。
ペリオン王は、其の者がエリセナ姫が最も信頼せし腹心の侍女、ダリオレータで有る事を悟る。
自身の破滅へと至る慾望と云ふ名の病魔を取り除きたる療治を齎さんが爲に、ダリオレータが己の許を訪ねし事を、ペリオン王は微塵も疑はざるも、逸る気持ちを抑へつつ、敢へて素知らぬ風を装ひ、身を起こして宣はくに、「姫君の侍女か。何用ぞ?」
ダリオレータが答へらくに、「ペリオン樣。替への御召し物を御持ち致しませり」
ペリオン王が宣はく、「其の衣服は予の體軀では無しに、心魂へと着させよ。此の身が纏ひし樣々なる款喜や愉楽は、醜惡なる魔物が追剥に遇ひて、厥の盡くが褫はれ失へり。夫故に、最早吾が精神の内は、哀れ裸も同然の物と成り果てたり」
ダリオレータが曰く、「其れは又如何にて?」
「此の地を訪ふてより」とペリオン王が答へて宣はく、「我が軀に啻ならぬ事態が及ばんとする恐れの存る冒険が他には、完全なる自由の體たる予なれども、其の方等が主君の城へと入るや否や、忽ち生命に係る傷を負へり。而るに、親愛なる侍女よ。若しも其の方が、斯の疵を醫さんが爲の、何らかの療法を知るならば、有らん限りに直ぐ樣教へよ。然爲れば、汝が而の獻身に對して、予は大ひに報はんぞ」
ペリオン王が斯の返答に對して侍女ダリオレータは、「畏まりませり、ペリオン樣」と應じて謂へらくに、「然爲れば、何卒斯の端奴に厥の詳細を御教へ給へ。而る後に、其の病狀を解しまして、優秀なる騎士竝びに尊高なる王種たる貴方樣の御役に立つならば、此のダリオレータ、最上の慶びに御座いまする」
「假にも其の方が」とペリオン王が宣はく、「吾が愛しのエリセナ姫が忠實なる侍女竝びに心の友として、余の秘密を無闇に餘所へと明かさぬ事を堅く約定するならば、全てを話さん」
「陛下、御案ずる事無く仰せられませ」とダリオレータが曰く、「貴方樣が内々の御話は、是の侍女奴が決して外へと漏らさぬ縡を、天の神に盟って、茲に堅く遵守致しまする」
「然らば、吾が親愛なる淑女よ」とペリオン王が宣はくに、「予は、其方が主人たるエリセナ姫の、純粋無垢なる瞳と視線を交し合ふや否や、得も言はれぬ衝動へと驅られ果てし末に、忽ち激情の俘囚と成り變りたり。若しも是より逃るる方法が見付から無くば、予の生命が盡きし其の時迄、最早此の身は限り無き苦痛と渇望に因る、負の連鎖に終始苛まれ續け、遂には死神が手中へと落つる物なり」
前に述べらき物にては、ダリオレータは此の件に關して、主たるエリセナ姫より豫め其の心意を聞き知り及びければ、ペリオン王が斯の答へを迚も喜び、彼に向かって云へらくに、「我が君。邦家を治むる國主としての身故に、他が衆庶誰にも況して、正義と真實の守護者と成る可き地位に在り、又、非の打ち處莫き最上の騎士たらんと望むが爲に、幾數多の艱難辛苦を堪へ忍びし末に、榮耀英華を勝ち取りし貴方樣が、然る女性の名譽を保らん縡を今直ぐ爰に盟はば、這の侍女奴が、陛下に等しくも増さらぬか、或いは、より壹層胸を煩ふ恙疾に惱み病しめる御仁の思情迄をも、而の時節が來たらば立ち所に安んじ上げ坐する。若しも假に是の誓約を果さずば、伊の想ひ人を己が妻へと迎へ入れて、終には添い遂げんとす希ひは無論叶はず、厥の口嘴より出でたる辭詞が誠神精意より生ぜし物とは、殿が愛しの媛公のみならず茲の私にさへ到底信じさせる事能はじき」
ダリオレータが這の詞語を聞いて、是が非でも厥の先を知りたしとの望みを欲せしペリオンは、若し赦さるるならば、今直ぐにでも凡てを投げ打って神の前に平伏さんとす勢ひの如くに、躬らの側らに添へ置きたる劔を取って目先へと掲げ、尓の欛に刻まれし聖なる象徴に右手を措き、力強く宣はくには、「騎士への叙任を授かりし折に受け賜りたる茲の秘符と御佩刀に賭けて、ガウラ王國の君主たる余、ペリオンは、侍女殿、其方が仕へしエリセナ姫が期待に添ひ坐したる事を、嚮程申されたる通りに悉く成し遂げ致す縡を爰に緊く誓ふ所存なり」と應ず。
「承知仕り申せり、我が君、ペリオン陛下」と侍女ダリオレータが云へらき事には、「貴方樣が仰せの儘に、其の壹切を成就致し坐すれば」
然樣に言ひ殘して、侍女ダリオレータは、ペリオン王の御在し申す閨室を却き、早々に、自分の報せを待ち侘びたる主人の許へと戻り、エリセナ姫に事の經緯を告げ給ひて、彼女の陰り患ひし心を晴らして、最大いなる歡喜を齎せり。
エリセナ姫は、侍女ダリオレータを岌と抱き締めて宣はくに、「嗚呼、妾が真なる心の友よ。如何に成さば、妾が愛しのペリオン樣が彼の逞しき諸腕が許へと、這の身を差し出す事は叶へりや?」
「然らば申し上げます」と侍女ダリオレータがエリセナ姫に答へて謂へらくには、「姫樣。御承知の如く、現在ペリオン樣が御逗留爲さりたる寢室には、貴方樣の御父上たるガリンテル陛下が、嘗ては御養生が爲に、時偶散策や鑑賞等を爲さりける庭園へと通ずる扉有りき。なれども、今と成りては堅く閉ざされ、掛布で覆ひ隱されたるも、實には、豫め其處の鍵を、私奴は所持致せり。然らば、ペリオン樣が何かしらの御用達にて不在の機會を見計らひて、是の私奴が扉の鍵を前以て開けて置かば、而して宮殿の者共が、皆盡く寐靜り返りたる、深き闇夜の中を進み往かば、畢竟我儕は誰にも氣取られず、祕かに忍び行く縡適へり。厥故に、姫樣は何等御心配爲さらずに、閨房へと這入りて、内に秘めたる若の燃え盛る想ひの丈を、愛しのペリオン樣に對して存分御成就し賜りませ。事が終りて皈りの際には、斯の侍女が御呼び致しまして、再び倶に此所の臥床へと戻らば、總ての憂ひは排除されり」
此れを聞いてエリセナ姫は、感激の餘り、暫し呆然と成りて聲を失ふも、漸く我に返りてダリオレータへと宣はくには、「親愛なる我が心の友よ。妾は其方が手腕に壹切を委ぬる心算なれど、ペリオン樣は今、吾が父上とは閨を同じうして居り、若しも妾達の行ひが勘付かるる縡有らば、非常なる危殆へと捲き込まるる事、必定なるぞ?」
エリセナ姫の疑問に對してダリオレータは、「姫樣。其の件に就きましても、貴女樣が御案ずる事は何も有りませぬ」と答へて曰く、「後は此のダリオレータ奴に全てを御任せ頂き下されば、必ずや目的は達成せり」とて、貮人は茲で壹旦話を切り上ぐ。
僅か壹日が内に、己が生き樣を瞬く閒に變ぜし出來事を経験したるエリセナ姫は、精も根も全く疲れ果てて、俄に寢台へと仆れ臥し、恰も死にたるが如くに、其の儘深き眠りに付きて、未だ嘗て無き程迄の、心地良き夢の世界へと誘ひつ。
エリセナ姫の玉體を害はぬ樣、ダリオレータは主人の衣と寢床を整へ、壹禮して退室せり。