今茲に、ガウラ國王ペリオンと其の后エリセナが嫡男にして、勇猛果悍且つ高尚潔白の偉大なる騎士アマディスの、壯大なる物語の幕が上がる。
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是は、當世より遼く遙か彼方の大昔、我等人類の救世主にして贖罪人たる神の子が、父なる天より授かりし任務を全うせんとするも、志中途で、受難に遭ひて其の尊き生涯を畢へし時より、未だ幾許の歳月も經たぬ時代の話なり。
エレシア大陸が西部の、レタヴィアと呼ばるる國に、最も折目正しく、温厚篤實の資性にて、神への敬虔なる信徒と周圍の諸國に廣く知れ渡りし、ガリンテルと言ふ名の王有りけり。
彼の御仁は、神聖なる眞理の教訓に基づく規範や律法を以ゐて國を統べ、遍く善政を施し、人民に對して、多大なる獻身を盡せり。
其故に、ガリンテル王の德行は、然樣な評判に仍て、彼の名聲が高まる事を快く思はぬ者達すら、不請不請に認めざるを得ぬ物と成りぬ。
扨、ガリンテル王と、其の妻にして、伴侶と等しく、仁愛に溢れし、高貴なる婦人メリンダ妃との閒には、大層見目麗しき貮人の娘有りき。
壹の姫ベラドリアは、本來レタヴィア國に於ける後継ながらも、エスコシア國のランギネス王より強く請ひ望まれて、正室として彼の許へ嫁ぎ、後に彼の主より、〈英環の君〉と呼ばれり。
其の理由は、ランギネス王が、『妃ベラドリアこそは世界最高の麗人なり』と斷言して憚らず、取分け彼女の御細髮を甚だ氣に入り、英を環にして造りたる、非常に豪勢なる冠が他には、妻の髪を覆ひ隱さんとする縡を許さぬ處なり。
然樣にしてランギネス國王は、時折隙を見繕うては、愛するベラドリア妃が金色の卷毛を壹束、己が指先へと手繰寄せつつ搦め遊びて、屢々愉悦に入り漬れり盡せりとの有樣と成りぬ。
軈て夫妻は、男女貮人の、珠玉の如くに最も愛らしき、王子と王女を儲けて、嫡嗣たる兄君をアグラヘス、肆つ下の妹君をマビリアと名付く。
後に雙方共、長ずるに及んで、實にも美事なる騎士と、甚だ見目麗しき若婦へと成るも、渠等兄妹に關しては、孰れは此の長き物語が中にて明かされん縡と想ひて、今は敢へて何も語らずに擱く。
壹方で、ベラドリアが伍つ下の妹御たる貮の姫エリセナは、姉君と比しては勝るとも劣らぬか、或いは遙かに優れたる美貌の持ち主と頌へられ、幼稚き時分より、内外や老若を問はず、數多の公達や諸侯から、引きも切らずに緣組を請ひ望まるるも、姫は兩親以上の、大層信仰篤き心の持ち主なれば、決して何者にも靡かず、誰壹人として彼女の意には適はずして、求婚を絶えず拒み續けり。
エリセナ姫の、神への奉仕が爲に、敢へて鄙俗なる世閒よりの衆人が耳目を忍ばんとする、爾の慎ましき日々の營みを知る人々は皆、擧りて彼女を〈芳しの聖女〉と呼び頌へるも、而して極壹部の、心無き輩は、〈惑はしの烈婦〉と密かに誹謗せり。
何となれば、『レタヴィア王國に於ける最も気高き血筋の出にして、其の容姿が端麗なる縡は比類無く、又、絢爛にして優雅なる事は群を拔きて、平生より殿輩が心胸を大いに想ひ煩はせながら、其れ等を壹顧だにせずして、猶も愛を其の身に受けしエリセナ姫が、可惜然樣な暮し向きでは、其の美貌が無慚と損なふやも知れぬ』と云ひし具合の風聞を、殊更姫君から齒牙にも掛けられざる、氣位許り高き者共が、口の端を揃へて、巷で噂したる縡を發端とせしも、斯樣な毀誉褒貶を己の耳に入れんとも、依然エリセナは、我関せずの姿勢を聊かも崩さず。
實子は娘が貮人のみにて男子は居らず、姉姫ベラドリアをエスコシア王國へと嫁に送り出し、既に後継者は、妹姫のエリセナ以外に居らぬが故、國王夫妻に於ては、エリセナ姫に婿を取らせて、渠等に位を譲り渡す他には、最早手段は殘らざりき。
然れど、未だ拾代半ばの瑞若きエリセナ姫が、己が操を守らんが爲とは云へ、父親たるガリンテル王以外の男性に至りては、近衛の騎士は疎か家僕すら殆ど寄せ付けず、躬らの側には、乳姉妹にして、最も信頼せし婦人ダリオレータを始めとせし、數人の侍女のみを置き、主要なる行事を除いては、極力俗世を顧みず、直向に神への祈祷を捧げたる有樣を見て、ガリンテル王とメリンダ妃は、娘とレタヴィアの前途に、漠然たる不安を禁じ得ず。
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ガリンテル王は、此の頃既に大相歳齡を積み重ねて、躬らの身軀のみならず、最早氣力迄もが年老いて疲れ果てたる事を辨へらば、心を蝕む日々の鬱積を晴らし、天への信仰以外に、己が精神の安息を得んが爲と憶ひ至りて、義務無き時は、速やかに愛馬の背に跨がり、侍從共を引き連れて、頻繁に山野へと赴き、弓箭を以ゐて、猪鹿抔の獸類を逐ひ驅け回し、禽鳥を射て狩らば、其れ等を心の慰めとす。
と或る春の日、ガリンテル王は、己が居城近くでの、アリマと云ひし名の町へと來たりて、其の邊りで、狩りの獲物を捜し索め、森林の中奧深くへと入り込んで閒し後、礑と周りを觀渡せば、何時しか自らが、供の者たる勢子や獵師達より逸れ、道に迷ひたる事に氣付いて、困り果てる。
ガリンテル王は、已むを得ず孤獨天なる神への默祷を唱へながら、手綱を引いて、暫く周圍を彷徨ひ行きたるも、ふと出し拔けに怒號や罵聲が飛び交ひて、音のせし左の方向へと眼を見遣れば、壹人の騎士が貮人組を相手取るも、怯む事無く、壹歩も引かずに戰ひを挑みし場を目の當りにす。
ガリンテル王は、那の貮人組に覺え有り。
名をポリナス竝びにブレオと云ふ兄弟で、嘆かはしき事に、彼奴等は他ならぬガリンテル王が臣下にして、レタヴィアの王家に連なりし者共なれど、其の性質は傲岸不遜且つ惡逆非道の鼠輩にて、且つガリンテル王が親類たる縡を笠に着て、壹門の忠告さへ顧みず、縱橫無礙に脅威を振り翳し、剰へ娘エリセナとの婚姻に仍て、何れかが王位に即き、更に權勢を専らにせんとする野心を、憚る事無く周圍に吹聽せば、斯の縡に於ては豫てより、ガリンテルは甚だしき忿懣を感ずれども、平生巧みに躱され、意ならずも、今日に至る迄、手を出せずに居たり。
ガリンテル王は、爰に至りて漸く己が、知らぬ閒に賊臣共が領分へと迷ひ入りたる事に氣付いて、更めて件の兄弟が、目の前で亂暴を働きたるのを見定むるも、ガリンテル王は、苟くも武門の出たる那の貮人に對して、臆する縡無く、互角に戰ひを挑みし伊の者が、何處の誰かを存ぜず。
蓋しくは外國の者と思しけれども、よもや那の騎士の方が、より大層なる惡黨で、貮人は其れを成敗せんとしたる丈やも知れぬと云ひし嫌疑を、遂に拭ひ去る事能はずして、已む無くガリンテル王は、渠等に手出しをせずに、斯の遣り合ひより離れし所から、戰鬪の行く末を見届けり。
暫くして後、拾數合にも渡る接戰が終り、到頭逆臣ポリナスとブレオは、異國の騎士に仍て打ちのめされ、揃ひて止めを剳されつ。
騎士は、背後のガリンテル王が氣配に感付き、劍を鞘に収め、踵を廻し、ガリンテル王の方へと向いて歩み寄り、周圍には誰も居らず、彼が唯獨りのみなる事を確と認めて、聲に失望の響きを滲ませながら謂へらくには、「嗟、親愛なる其處な御方よ。若しや貴殿の御國では、道行く騎士や旅人を見出す度に、在らぬ因縁を付けては襲ひ掛かりて、害さんとする法度や習慣なんぞ有らんや?」
騎士が斯の問ひに對して、詮ずる所眼前の有樣を招いたるは、自らの至らなさが故と薄々氣付きしガリンテル王は、内心忸怩たる物を覺えつつも、答へて宣はくには、「おお、貴公よ、然樣に落膽する勿れ。異國の騎士たらんと言ひて、殊更善惡の區別は有らざるが如くに、偶々此の場所、此の時閒に於いて邪曲なる輩と居合はせたるが丈の事。實には貴公が仕留めし彼の者共は、大勢の民許りか、己等が仕へし主君にさへ從はぬ、兇漢なれども、剰へ眷族の威を借りては恣に振る舞ひて、斯かる深綠の生ひ繁る山林が内を根據にして立て篭もるが故に、嘆かはしき縡かな、吾が邦の王は今日に至る迄、彼奴等に正義の鐵鎚を下す縡叶はざりき」
遍歷の騎士が曰く、「然も有りなんや。相心得たり、ならば承知致さん。爾るに、貴殿が先程申せし國王を、予は此處より遠く遙か彼方の、マニカ海峽を越えたる地に居る、彼の尊き友人からの便りを携へて搜しに參りたり。望むらくは、若しも伊の御方が居場所を御存知ならば、何卒予に御教へ給へ」
ガリンテル王が其の詞に應じて宣はくには、「貴公程の勇士が然樣な事を申さば、余は以て斯の縡を傳へ置きて、眞實を語るべきぞ。何を隱さんや、他ならぬ此の余こそが、貴公が搜し求めたる、レタヴィア國が君主、ガリンテルなり」
其の詞を聞きも敢へずに、騎士は兜を脱ぎ外してガリンテル王を抱擁し、向き合ひて曰く、「先の非禮をば、何卒御赦し給へ。我こそはガウラ國の君主にして、名をペリオンと申す者なり。陛下の御高名は遠き異邦の吾等が友の地にも聽え屆き、斯の評判は豫ねてより伺ひ給はりて、常々予は是が非でも壹目逢ひたしと庶幾ひたれば、よもや貴殿こそが彼のガリンテル王とは、些か夢にも想はんや」
ガリンテル王が宣はくに、「其れは此の余としても同樣なり。ガウラのペリオンと云はば、世界最高の、勇壯なる騎士との名聲を以て、広く巷閒に音が鳴り聞こえし智勇兼備の若き王なれば、我が邦の害惡を單獨りで誅伐したるのも宜なるかな。是こそ正しく天命なり。今度の壹期壹會が合緣奇緣を、吾等は俱に神へと感謝せねば爲らんぞよ」
斯くして、ガウラのペリオンとレタヴィアのガリンテルが貮人の君主は、御互ひに今日の邂逅を心の底から喜び祝ひて、夫々に肆方山の事を語らひつつも、漸く無事に森林を通り拔けて、アリマの町へと向かはんとす。其が爲に、豫め決め置きたる、配下の獵師共が待つ場所迄赴きたるも、突如として、勢子共に狩り立てられ、傷付き弱り果てたる壹頭の小牡鹿が、彼等の眼前に姿を現す。
ペリオンとガリンテルの兩君は、手負ひの小牡鹿を見て、『彼れを今日が饗宴の、肴物と爲さん』と考へ、鞭を揚げ、鐙を合はせて、全速力で馬を驅け入らすも、事態は思ひも寄らぬ展開と成る。
深々としたる茂みの奧底より、不意に壹頭の獅子が跳び上がりて、小牡鹿に襲ひ掛かるや、其の鋭き爪と牙を以て、脾腹を切り裂き、鹿の肉を頓に貪り喰ふも、即座に人の臭ひと氣配を嗅ぎ取りて、彼等の方へと面を向けて、猛々しくも殘忍極まり無き形相にて貮人を睨み付け、大咆哮を以て威嚇す。
ガリンテル王は、荒ぶる獅子が放ちし殺氣に吞み込まれて、心が挫け懸けるも、其れに對してペリオン王は、微塵も怯まず、氣壓さるる縡も無く、冷靜に野獸を見据えて、「おお、獅子よ、矜り高き佰獸の王者よ。何卒落ち着き給へや。汝が獲物の分け前を、余に肉を壹切れも殘さぬ程に、腹を立てる事勿れ」と宣ひて、愛馬より下りつ。
然してペリオンは、兜を被り、己が腰元に佩きし名劍が欛へと手を掛け握り締め、鞘から嚴そかに拔き放ち、後方に控へたる從士ユスティーノより受け取りし、騎士の象徵たる楯を前へと突き出し、同じく、精神たる劍を天へと翳して、勢ひ勇んで、眼前の獅子へと驀地に起ち向かふ。
是れを視るや否や、ガリンテル王は思はず、「おお、神よ!何たる縡ぞ!早まり爲さるな、ペリオン殿!待ち給へ!」と大音聲の絶叫を上げたるも、勇み立つペリオン王は、既に聞く耳を持たずして、斯樣な現狀では、最早彼を制止する事能はざりき。
口には肉片を咥へながらも、未だ血に餓ゑたる獅子は、眼を怒らし、躬らが捕へたる小牡鹿の殘骸を手放し、ペリオン王へと向かひて、其の身を厭と飛び躍らせ、襲ひ掛からば、兩雄は遂に激突す。
此の兇惡なる肆脚は、忽ちペリオン王を組み敷いて、喉元へと嚙み附き、害さんとする勢ひで牙を剝くも、ペリオン王は、殆く此の猛攻を楯にて捍ぐ。
爾れども、最早危急存亡が刻限は閒近。
常人ならば、既に命を奪はれ失ふか、然も無ければ、眼の前に迄迫り來る死を受け入れ、覺悟せねばならぬ情況に陷れど、假初にも、天下無雙の大勇士たる榮譽を誇るペリオン王は、毫末も怖氣付く事無く、己が剛胆を奮ひ起たして、之を壹擧に屠らんと意を決し、喉笛に傾注せし野獸の隙に乘じて、左の脾腹目掛けて、劍を「えいや!」と衝き刺さば、獅子は、ペリオン王から飛び離れ、激痛の餘り、暫しの閒、漆轉捌倒、踠き苦しみが末に、其の堂々たる巨體は、終に地へと頽れ殞つ。
死鬪が果てに、佰獸の王者は、漸く益荒夫ペリオンが足許へと、永久に斃れ臥せり。
茲の有樣が壹部始終を目の当りにせしガリンテル王は、大層仰天し、畏敬の念を込め、ペリオン王に向かひて宣はくには、「よもや是程の物とは!いやはや、何たる快擧ぞ!遉は世界最高の騎士と衢に謳はれし驍名に違はぬ御仁なるかな!」
凄まじき激鬪は終りを迎へ、貮君は手勢の獵師等を呼び集め、ガリンテル王は先ず自らのリゲル城へと、賓客たるペリオン王を歡迎せんが爲の前觸れが使者を遣はし、次に、荷積みの駄馬へと、獲物たる獅子と小牡鹿を、其々載せて運ばしむ。
斯くして貮人の王は、此度の意外なる賜物を得て、喜び勇んで、ナムネテスの都へと歸還せり。