第三回 月は世々の形見
先日、十月一日は中秋の名月(お月見、十五夜とも言いますね)でしたが、皆様はお月さまを見上げて楽しんだりされましたでしょうか?
あくまでも暦上のお話なので、名月だからといって必ず満月と決まっているわけではないのですが、今年はほとんど満月といっても差し支えのない、真ん丸なお月さまでした。
実際は、昨日、二日が満月だったようです。
まだ見てない! という方は、今日のお月さまが、ちょうど中秋の名月と同じようなお月さまなので、ぜひお空、見上げてみてくださいね。
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さて、第三回はそんなお月さまに関することわざを紹介いたします。
「月は世々の形見」
聞いたことのある方も少ないかもしれません。(ちなみに、私も、ちょうどこの中秋の名月で、知った言葉です)
なんだか知らないのがもったいないくらい素敵な言葉だったので、せっかくならエッセイに書こうと筆をとった(?)次第です。
意味は、「月ははるか昔から現代に受け継がれた形見のようなもので、月を見れば昔のことがしのばれる」ということなのだそう。
(『春は曙光、夏は短夜―季節のうつろう言葉たち』の著者、岩佐義樹さんの『毎日ことば』というウェブサイトからお借りしました)
世々は、このことわざでは「よよ」と読みます。
単体で使う時は、せぜ、せいせいなどと読まれることが多いですかね。
代々、という意味に近い言葉です。(ちなみに、前回の花信風でお世話になったweblio辞書は、「これまで経過してきたそれぞれの時期、時代」と書いてました。おしゃれ)
そんなわけで、月はまさしく「時」によって、みんなに平等に受け継がれてきた形見のようなもの、ということですね。
そして、形見と考えることで、自然と昔のことを考えてしまうというか……月を見て、思いを馳せる、というのはなんだかそういうつながりがあっても良いのかな、と思います。
「形見」というと「個人」に相続されるもののイメージがどうしてもありますが、「時間」によってこうして受け継がれてきたものも「形見」だと思えば、もっといろんなことが大切にできそうな気がします。
お金に限らず、物、場所……なんでも。
長い年月をかけて今の自分に渡された形見だと考えれば、それだけでなんだかロマンが詰まっている感じがします。
そして、自分が今持っている物や、過ごしている場所、大切な思い出も、時間を経て誰かの「形見」になると考えれば、自然とそれを大切にしようと思えます。
そんな、ロマンチックなことをついつい考えてしまうような、素敵なことわざだな、と思いました。
つい先日知ったばかりなのに、今ではすごく好きな言葉になっています。
このことわざも、過去からの「形見」であり、これから、誰かの「形見」になっていくのかな、と思います。
そしてこのエッセイも、そんな誰かの心を照らす「月」のようなものになっていれば、幸いです。
おあとがよろしいようで……?
それでは、また次回。