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回想続きです。
マリアは目立たない色に囲まれた少女だった。
肩につくかどうかの髪は濃い茶色。小動物のような丸い瞳も同じ色をしている。肌も白くなく、健康的に焼けた様は市井の者のようだ。初めて顔を合わせた時はあまりの意外さに唖然としてしまった。
「彼女の父親は侯爵家の人間だ。しかし第二夫人である母親と共に家を出てからは、長く郊外の農村で暮らしていたそうだ」
オルランド様は傍らのマリアを眺めながら語る。その内容のみで説明には十分だった。丈夫な子を産める存在を手に入れられるだけでなく、侯爵家に恩をかけることも出来るのだ。利を考えればこれ以上ない選択だろう。
「あの、何卒よろしくお願いいたします…っ」
目の前に立つ女性は小柄な体を折り、礼儀正しく挨拶をする。彼女はつむじが私から見下ろせるほど小さかった。その様子を眺めるオルランド様の目は幼子を見るように穏やかで、私は胸の奥がざわつくのを感じた。これが良くない感情だということは知っている。私はざわめきを無視し微笑んだ。
「私はアザレアといいますの。マリアさん、こちらこそよろしくお願いしますね」
───邸の二階窓から地上を見下ろすと、中庭で仲睦まじげに語らう男女の姿が目に入る。男性は長身の黒髪。女性はとても小柄だが、快活な笑顔は生命の力強さを感じさせた。背の半ばまで伸びた茶の髪が風になびいている。
長時間日に当たることすら出来ない虚弱な私はそれを眺めているしかなかった。身ぶり手ぶりをつけて話すマリアへ向け、オルランド様は可笑しそうに口角をあげる。アイスブルーの瞳には温かみのある光が宿っていた。
無視したはずのざわめきはしだいに大きくなる。
いや、初めから無視など出来ていなかったのだ。
それは醜い感情を叫ぶ怪物の声であり、怪物とは私自身に他ならないのだから。
私はそこから急速に狂っていった。
出会す度マリアをなじり、メイドを使い嫌がらせを働いた。すぐにオルランド様が止めに入るもヒステリックに喚き立てる始末だ。やがて私は療養と称し再び別邸へ送られることとなった。しかし本邸に愛する人と邪魔な女を二人にしておくことなど、理性を失っていた私に堪えられるはずもない。狂気を露にする第一夫人は別邸を抜け出し、秘密裏に雇った馬車で本邸へと駆け戻った。買収したメイドの手引きを受け、誰にも気づかれずに邸へ入る。
何故女主人である自身が盗人のような真似をしなくてはならないのか。このような苛立ちは廊下の焦がれた姿を視界に入れた途端にかき消えた。私よりも頭ひとつ以上高い身の丈。広く頼もしい背中。後ろへ撫で付けられた艶やかな黒髪。オルランド様はこちらへ背を向け廊下を歩いていた。その姿は角を曲がったことで見えなくなる。メイドが止めるのも構わず、私は彼の後を追った。見つかろうとした訳ではない。雇ったばかりのメイドとは違い、私はこの先にあるのが普段使われることのない部屋だと知っていたのだ。
一言だけでも声を聞きたい。
願いはただそれだけだった。
重厚な木の扉をほんのわずかに開け、その隙間へ耳を押し当てる。求めていた音が鼓膜を震わせた時の歓喜は例えようもなかった。既に相手が居たらしく、低く硬質だが耳に心地よい声は言葉を紡いでいる。
「マリアが来てからというものアザレアの様子は悪くなる一方だ。マリアは萎縮してしまうし、何より彼女の体に障ってしまう」
「それは困りものだ。万が一侯爵家に睨まれてしまえば色々と面倒だろう」
話し相手が答える。その声には聞き覚えがあった。以前紹介をされたオルランド様のご友人のものだ。軽薄そうだが美しいと言われるだろう顔立ちと金の髪が脳裏によぎる。ご友人はオルランド様よりもやや高い声で話を続けた。
「それならば早いところ第一夫人を手放したらどうだ。子を産めないとなれば伯爵家も納得するだろう。孫に婿を取らせればあちらの家の損失もない」
オルランド様は黙りこんだ。誘惑を前に葛藤をしているように思える。私は体を硬直させその場に立っていた。呼吸がごく浅いものになるが、耳をふさぐことすらかなわなかった。軽薄な声は無情に続く。
「何を迷うことがあるんだオルランド。大体にして第一夫人を娶ったのは、悪女の再来が王の目に止まらないようにするためだろう。その目的はとうに果たされた。お前がこれ以上重荷を背負うことはない」
完全に息が止まった。この瞬間に死んでいないのがおかしいほど、私の肉体は全ての動きを止める。否、この時私に残る人間の部分が死んだのだ。生き残ったのは狂った怪物だけ。
邪魔な女は私だった。
愛されていなかったのも、義務で娶られていたのも。
あの方はこの目を忌まわしいと思いながら褒めていたのだ。
私は覚束ない足取りで階段をのぼる。どこをどう進めば人と出会わないかは熟知していた。私はこの邸の女主人だったのだから。やがて目的の部屋へと辿り着く。ノックをすることなく部屋を開け、中へと滑りこんだ。
背に鈍い光を放つ短剣を忍ばせ…。