第九十一話「放送」
近衛家での話し合いが行なわれた翌日、いつものように咲耶に声をかけられそうになった皐月は胸が潰れる想いだった。
本当は今すぐ返事をしたい。駆け寄り抱き締め慰めたい。しかしそれは出来ない。昨日話し合った通り、今は自分達が周囲にそういう態度を見せるわけにはいかない。何とも言えず視線を逸らした皐月に咲耶は小さな声で謝った。
「ごめんなさい……」
「ぁ……」
皐月の胸がギュッと苦しくなる。涙が出そうになる。こんなに辛いなら……、いっそ話し合いなんて関係なく咲耶に駆け寄ってしまいたくなる。それでもぐっと堪えた皐月はこの件が片付いてもきっと咲耶には許してもらえないだろうと覚悟した。
自分でもこんなに胸が苦しいのだ。それをされている咲耶の苦しみは一体どれほどだろうか。例え事態の解決のためだったとしても……、こんな裏切りをした自分達を咲耶は許してはくれないだろう。
昨日の正親町三条茅の覚悟の意味がようやく実感出来た。あれほど咲耶のことを好きだと憚らない正親町三条茅が、咲耶に嫌われることを覚悟で昨日の話に乗ったのだ。これが今回の件を解決して咲耶のためになるからという言い訳は通用しない。
例え咲耶のためであろうとも……、自分達は許されない罪を犯している。
でも……、今はまだ泣くわけにはいかない。せめて……、せめてこの問題を解決するまでは……、ぐっと堪えて辛抱するのだ。泣くのは咲耶を救った後でいい。その覚悟が出来た皐月は唇を硬く結んだのだった。
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元気なく登校してきた薊は咲耶の横を通り過ぎる。そちらを見ることも出来ない。悲しそうに俯く咲耶の顔を見てしまったらもう耐えられなくなってしまう。心を鬼にして、黙って通り過ぎた。
薊は今すぐ胸を掻き毟りたい衝動に駆られる。この苦しみは筆舌に尽くしがたい。何故こんな想いをしなければならないのかと叫びたくなる。
しかしそれはまだだ。まだ早い。
西園寺皐月の先ほどの顔……、悲愴な覚悟を決めた者の顔だった。西園寺皐月がそこまでの覚悟を決めているというのに、自分が、自分だけがこの衝動に負けて皆の、そして咲耶様の足を引っ張るわけにはいかない。ぐっと歯を食いしばり薊は自らすべきことを再び確認したのだった。
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それから六人は休憩時間、お昼休み、放課後ととにかく精力的に動いた。クラスの男子達を呼び出す。
「例の壁新聞の記事……、あんた達が錦織柳をいじめてた写真だって皆の前で名乗り出なさい」
薊が男子達に迫る。男子達は困った顔でお互いに顔を見合わせているだけだった。
「はっきりしなさい!男でしょ!」
「ひぃっ!」
痺れを切らせた薊に怒鳴られて縮み上がる。徳大寺薊は七清家で五北会のメンバーだ。女子の間でも影響力が強い。腕力的には男子複数人を相手に立ち向かえる者ではないとしても、男子達も薊に凄まれたら縮み上がるしかない。
「まぁまぁ徳大寺さん、そんなに怒鳴っては男子達も答えられないではありませんか。ねぇ?」
「うっ……」
そこへ男子達を囲んでいる六人の女子のうちのもう一人のリーダー格、西園寺皐月がニヤリと笑いながら薊と男子達の間に割り込んでくる。しかしそれが救いの手ではないことを男子達も理解している。
「私達は何も脅しているわけではないのですよ。ただ本当のことを告白する機会を貴方がたに持っていただこうと思っているだけです」
皐月はコツコツと周りを歩きながら諭すように口を開く。その声は穏やかで一見するとまるで男子達のためだと言わんばかりだった。
「貴方がたの罪はクラスのほとんどが見ています。そういった周囲の証言や証拠から吊るし上げられるのと、自ら罪を認めて真実を告白するのでは、どちらが罪が軽くなると思いますか?貴方がたは裁判を見たことがありますか?私達は別に良いのですよ。証拠を集めて、貴方がたを断罪するのでも、自発的に罪を告白していただくのでも、どちらでも……、ね?」
「ひいいぃっ!」
こちらも七清家で五北会のメンバーである西園寺皐月にそう言われて、男子達は自ら罪を告白することを約束したのだった。
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男子達よりもっと梃子摺ったのは萩原紫苑の説得だった。萩原紫苑と咲耶の話し合いは密かに行なわれたものだ。だから証人もいなければ証拠もない。そもそも萩原紫苑は自分が悪いことをしたとは今でも思っていない。
壁新聞で色々と書かれたことによりむしろ『やっぱり自分が正しく九条咲耶が悪かったのだ』という思考に凝り固まっていた。
「私は九条咲耶に脅された被害者よ!」
「はぁ……」
まるで話し合いにもならず六人は溜息を吐く。ここで近衛家のことを引き合いに出せれば話は簡単だっただろう。近衛家に嫌われ門流から追い出されることを恐れてこれほどのことをしたのだ。
しかし薊達は今それを言うわけにはいかない。どこから情報が漏れるかもわからないからこそ咲耶との接触も絶ち、敵の策がうまくいっているフリをしておけと言われているのだ。それを安易に近衛家と関わりがあると漏らすわけにはいかない。
「貴女たち、何をしているのかしら?」
そこへ……、正親町三条茅が現れた。萩原紫苑を六人で囲んでいる場面だ。それがどういう場面であるのか。それを見た人にどう思われるのか。萩原紫苑は即座にその答えに行き着き正親町三条茅に泣き付いた。
「助けてください正親町三条様!この人達が私をいじめるのです!」
「まぁ……、六人で寄って集って……。萩原家は我が近衛門流なのです。萩原家にこのようなことをするということは……、近衛門流に喧嘩を売るということだとわかっているのですか?」
正親町三条茅の言葉に我が意を得たりと萩原紫苑は茅に近づきその後ろに隠れた。相手も七清家で五北会のメンバーが二人もいるが、同じく五北会のメンバーで六年生の正親町三条家の方がこの場では立場が上だろう。上に媚びることだけは得意な紫苑は得意満面に茅を盾にする。
「それで……、どうしてこのようなことになっているのかしら?」
「え?あっ……、それは……」
実は自分が悪いと自覚している萩原紫苑は茅に問い詰められてしどろもどろになる。しかし囲んでいた六人、徳大寺薊や西園寺皐月が運動会でのことを暴露していく。黙って全てを言わせてはまずいと思い、途中で口を挟んだ萩原紫苑だったが、結局ほとんど全てを正親町三条茅に聞かれてしまった。
これは非常にまずいと思って縮こまる。萩原紫苑も内心では自分が悪いことをしたと思っているのだ。だからこそ強硬に突っぱねて真実を語らないと拒否しているのだから……。
「まぁ!そうだったの。それは素晴らしいわ」
「え?」
しかし、萩原紫苑の予想とは裏腹に正親町三条茅は盛大に誉めそやす。
「近衛家のためにそこまで出来るなんて素晴らしいわ!それならば是非近衛様にお伝えしましょう。今度貴女の素晴らしい行いを近衛様に直接お伝え出来る機会を用意してあげるわ。そこで是非貴女の口から語って頂戴。大丈夫よ。貴女の行いのお陰で萩原家は錦織家と連座されることはないわ。ね?」
「はっ、はい!わかりました!近衛様に全てお伝えします!」
正親町三条家という近衛門流でも相当家格の高い家にそう言われて、萩原紫苑は舞い上がった。本当に自分は近衛家のために良いことをしたのだと錯覚し始めた。それを正親町三条家と一緒になって近衛家に伝えられる。それに正親町三条家が錦織家と萩原家が分家・本家の関係だからと罪が連座しないと確約してくれたのだ。
「ふんっ」
「ふ~……」
薊や皐月達はお互いに顔を見合わせて肩を竦めた。それを見て萩原紫苑は勝ったと確信したのだった。
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一週間が経ち、準備は整った。近衛家の働きかけにより急遽保護者も集めた全校集会が開かれる。近衛夫人が壇上に立ちついに幕が上がった。近衛夫人に紹介されて茅や薊や皐月達は壇上へと上がる。
「それじゃ、ここからは貴女達の成果の見せ所ね」
「はい!」
近衛夫人と交代して壇上に立った薊達は簡単な挨拶やこれまでの経緯を説明した。そして最初に出て来たのは錦織柳だった。
「えっ、え~……、ぼっ、ぼきゅは……」
「はぁ……、落ち着きなさい」
壇上でカチカチに緊張している錦織柳の背中を茅がポンポンと叩いて落ち着かせる。薊辺りだったら頭を叩いていたかもしれないが、さすがにこれだけの人の前でそんなことをさせるわけにはいかない。
「ぅ……、ぼっ、僕は錦織柳と言います。運動会の男女混合リレーで転んだのは僕です……。そして……」
全校生徒と大勢の保護者達の前で、錦織柳は全てを語り出した。後ろのスクリーンには事の発端となった壁新聞の記事がデカデカと載せられており、その説明は茅や薊達によってすでにされている。その記事について当事者の一人である錦織柳が説明しているのだ。
他の証人、男子達や萩原紫苑と違って錦織柳の協力を取り付けるのは簡単だった。少し説明すればすぐに了承してくれたのだ。錦織柳も自分のせいで大変なことになっているという責任を感じていた。そのために咲耶が苦しんでいるならと喜んで協力してくれたのだ。
錦織柳の説明は簡単でありながら説得力があった。近衛伊吹と友人関係でもある錦織柳はリレーで伊吹に勝ちたい、勝とうと決めていた。その中で走順を巡って九条咲耶と対決するに到る。対決で完敗した錦織は第二走者を咲耶に託し、自らは第一走者として役目を果たす決意をしたのだ。
しかし肝心のリレー本番で錦織は転倒……。九条咲耶がかけた言葉は転んだことやチームが負けることへの叱責ではなく、これまで頑張ってきた錦織が転んで諦めそうになっていることへの叱咤激励であったと語って締めくくった。
生徒や保護者達からはザワザワと話し声が聞こえる。この件について詳しくない者はどう判断していいかわからない。ただこの告白は九条咲耶側からされているものであって、転倒した本人である錦織柳が証言したとしても、何らかの圧力や命令があって九条咲耶の不利にならないように証言したという可能性もある。
「続いて壁新聞にある錦織柳を囲む男子生徒達にお話をしてもらいます」
「えっと……、この写真は……」
「記事に書いてある話とは真逆です……」
「僕達が……、優勝出来なかったことを錦織君のせいにして責めていた所を……」
「九条さんに注意された場面です」
「クラス中が見ていたので間違いありません……。この記事の内容こそが嘘です……」
ザワザワとざわつきが大きくなる。壁新聞の記事の内容が全て否定され、事細かにこの時に起こっていたことが当事者達から語られる。また他にも数名のクラスメイト達の証言があり、男子達が錦織を責めていた所を九条咲耶が庇ったのだとの裏付けが取れた。
もちろんこれも九条家によるでっち上げである可能性はある。しかしこれほど多くの証言や証拠が全てでっち上げであるだろうか?そもそも記事にはその情報元、ソースが何も書かれていない。ただ写真に衝撃的な見出しや煽りがつけられているだけだ。実際にその写真がそういう場面を写したものであるという根拠は何もない。
次第に……、状況を知らずただ聞いた情報のみで判断していた大多数の者達は疑問に思い始めた。確かにあまりに出来すぎている。本当にそんな状況だったならもっと騒ぎになっているはずだ。そもそもこの写真の数々は一体誰がいつどこでどうやって撮影したのか。その疑問が次第に大きくなっていく。
「そして……、近衛伊吹様を、一組を妨害するようにと脅されていたとされている萩原紫苑さんの証言もあります」
「私は!錦織柳が近衛門流でありながら近衛様にリレーで勝つと言っていたのでわざと転ばせて近衛様を守ったのです!これにより萩原家は分家筋である錦織家の反乱を未然に防ぎ、その功績を近衛様に認めていただいたのです!」
「「「「「はぁ?」」」」」
突然出て来たテンションの高い女の子に一同は困惑する。話もいまいちわからなかったが、正親町三条茅がうまくコントロールしつつ話を聞きだしていったお陰で全容がわかった。
つまり錦織柳が転倒したのは萩原紫苑がわざと転ばせたからであり、萩原紫苑がそのようなことをしたのは、リレーで近衛伊吹に勝つと豪語していた錦織が近衛門流としてふさわしくないから……。もしリレーで勝ってしまったら近衛門流から叱られたり、場合によっては破門されかねないと危惧した萩原紫苑の暴走によるものだったと本人は嬉々として語った。
さらに写真の場面はわざと錦織を転倒させたことを、九条咲耶に問い詰められていた場面だと本人が胸を張って答えた。
何故萩原紫苑がそんなことをこうも嬉々として、そして胸を張って答えているのかさっぱり意味がわからない。ただ一つわかったことはあの運動会での一連の出来事についての真相だけだ。そしてそれがわかっただけでも十分だった。
もしこの告発や証言が正しいのであれば……、今までの話は全てひっくり返ることになる。詳しい事情もわからなかった者達にとっては一方からの話だけではなく、双方からの話を聞いたことで少なくとも疑念が生まれた。しかし……。
ガガッ……ピッ……
『わかりませんか?ではお聞きしましょう。貴女は何故リレーの時に……突き飛ば……ですか……』
『貴女が……、当家で……公開して公の場で……よろしいですか?』
突然スピーカーから何かの音声が流れ始める。マイクでしゃべろうにも茅達のマイクは切られていた。流れている音声は九条咲耶の声だと思われる。
『近衛様を倒すって……。近衛門流の……、萩原家……。そんなことをして近衛家に……、萩原家だって潰されちゃう!……、うわぁぁ~~~んっ!』
そして萩原紫苑が泣き出す。
『貴女が……レースを妨害……。貴女は近衛門流で……、理解していないのですか?』
音声は途切れ途切れであり話の内容はいまいち判然としない。しかしこの会話内容だけを聞けば確かに壁新聞に書いてあったように、九条咲耶が萩原紫苑にリレーの妨害をするように脅していたとも取れる。
何かをネタにリレーの妨害をするように強要していたのに、妨害を行なわなかったことを責めている。確かにそんな風にも解釈出来なくはない。
その放送が流れて……、ますます生徒や保護者達は混乱に拍車がかかった。どちらの言っていることが正しいのか。やっぱり九条咲耶が悪だと言う者。いや、何かおかしいと言う者。どちらの言い分もはっきりさせることは出来ず、この状況では判断出来ない。
折角茅や薊達が咲耶の冤罪を晴らそうと奮闘してきた努力は、今の放送によって一気に混迷の様相を呈してきたのだった。




