第九百十一話「おばさん?」
修了式が終わった後、九条様と話をした向日葵と花梨は車で帰る皆様を見送ってから歩いて花寮へと向かっていた。
「藤原さんは春休みにご実家に帰られるんですか?」
暫く入院していたが特に問題もなくとっくに退院していた花梨は向日葵にそう尋ねた。冬休みは実家に帰ると言っていたが夏休みは帰っていない。春休みは普通実家に帰って家族と過ごすかと思う所だが向日葵の反応は違った。
「いえ。九条様のマナー講習に出ますので家に帰ってもゆっくり出来ませんし、こちらで暮らしていれば全て援助してもらえますけど家に帰れば全て自費ですから……。それに交通費ももったいないですし!」
「そうですか……」
花梨は何とも言えない表情でそれを聞いていた。普通なら長期休暇の度に実家に帰りたいと思うものじゃないかと思う。花梨は実家から通っているので実感があるわけではないが、一般的な高等科生ならばそういうものじゃないかという漠然としたイメージがある。しかし向日葵は帰らないという。
九条様のマナー講習云々という話も嘘やこじつけではないだろう。半分はそれも本当だと思う。しかし向日葵が実家に帰らないのは後で言った事情の方が大きいのではないかと思えた。
向日葵の家はあまり裕福ではなく家族も多いと聞いている。子供が一人増えれば食費だけでなく光熱水道費全て一人分増える。家から寮までの往復の交通費など知れているような気もするが、寮にいれば食事も光熱水道費も全てタダだ。特待生にはそれだけの優遇がある。
九条様のマナー講習のことも考えれば結局実家に帰っても数日しか滞在出来ない。そんなことのために往復分の交通費を払い、実家の食費や光熱水道費に負担をかけてまで帰る必要はないと思っているのかもしれない。
藤原家の家族はきっと向日葵が帰ってきてくれたら喜んで迎え入れてくれるだろう。向日葵の両親が娘が帰ってきたから食費がかかるなんて顔を顰める親であるはずもない。むしろ両親も兄弟も皆が向日葵を温かく迎えてくれるような家庭のはずだ。
しかし向日葵はそんな家族だからこそ自分のために負担をかけたくないと思っているのだろう。それは他人である花梨がとやかく言うことではないし、『交通費を出してやるから帰りなよ』なんて失礼なことを言うつもりもない。
「いつか藤原さんのご家族とお会いしてみたいですね」
「えっ!?うっ、うちはやめておいた方が良いですよ!弟妹達がうるさくて落ち着きませんから!それに部屋も一緒になりますから!弟達に裸とか見られたら困りますよね?」
「え……?あ~……、私のブヨブヨのお腹とかをお見せしたら逆に申し訳ないくらいですけどね……」
そう言って花梨は自分のお腹を少しだけつまんでから深い溜息を吐いた。少しくらいダイエットしなければとは思うが思うだけで中々痩せられない。それに九条様がこのお腹を気に入ってくださっているのか、時々プニプニしてくださる。口では駄目だと言いながらも九条様に直接触られて、スキンシップを取れる数少ない機会なので実は少し期待もしていた。
「そんなことありませんよ!年頃の弟達もいるから絶対に吉田さんのことをやらしい目で見ますから!吉田さんは可愛いんですから気をつけてくださいね!」
「う~ん……。クラスでもデブスとかよく言われてますし……」
自分で言っていて少し悲しくなるが花梨はよくデブやブス、あるいはデブスと陰口を言われている。普段は聞こえていないような顔をして無視しているが聞こえていないはずがないのだ。ムキになると余計にからかわれるから無視しているに過ぎない。
「あれは半分はやっかみですよ!吉田さんは少しぽっちゃりはしていますけど太ってるっていうほどじゃないです!それにブスなんかじゃないですよ!とっても可愛いって九条様も言われてます!」
「う~ん……」
向日葵がそう言ってくれることはうれしいしありがたいが、客観的に考えてそれはないだろうと花梨は信じていなかった。そんな話をしながら歩いている二人の前に高級車が停まった。一瞬また何者かに襲われるのかと思って身構えた向日葵と花梨だったが、降りてきた人物を見て緊張を緩めた。しかし別の緊張はある。
「えっと……、ごきげんよう?正親町三条様」
「御機嫌よう正親町三条様」
「ええ、御機嫌よう。藤原さん……、いつまでもそんな自信がないような態度は良くないわね」
「はい……。申し訳ありません……」
車から降りてきたのは今大路杏と正親町三条茅だった。本来ならあまり接点のなさそうな両者だが実は意外にもそれなりに親しくしている。
杏とは学園で一緒だった時にいくらか接点があり親しくなったという経緯がある。しかし一度も同じ科に通ったことがなく特に接点のなさそうな向日葵と茅がどこでどう親しくなったのか。それは竜胆が向日葵を茅に紹介したからだった。
以前竜胆が向日葵を助けて以来竜胆や久我家とは多少の縁が出来た。その繋がりで竜胆が『咲耶ちゃん後援会』に向日葵を紹介し茅とも接点が出来たのだ。そして今回向日葵が九条家のパーティーでドレスが必要ないと言ったのもそれが関係していた。
「さぁ!それじゃドレスを見に行くわよ!」
「え?今からですか?」
「今からよ!車に乗りなさい!」
「「はい……」」
これまでも既に何度か茅に連れて行かれてドレスの準備は進められている。強引な茅に車に乗せられて、向日葵と花梨は何度目になるかのドレスの準備に向かったのだった。
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ついに春休みが始まってしまった。夏や冬は百地流の合宿があったりするけど春休みは忙しすぎて合宿をしている時間がない。それでなくとも春休みは短いのに、さらにパーティーに向けたマナー講習などに参加しなければならない。
マナー講習がなければ短い合宿くらいは行けるだろうけど、さすがに蕾萌会の春期講習に、マナー講習に、百地流の合宿というのは無理がある。そんなわけで春休みは大人しく道場で修行をするしかない。
「ところでエモンさん……」
「ん~?にゃにかにゃ~?」
朝練を終えて着替えている時にエモンに話しかけてみた。前に何度も聞いたんだけどやっぱり気になるというか確認しなければ気がすまないというか……。
「どうしてあの日、学園の校舎内におられたのでしょうか?」
「んぇっ!?いやぁ……、だからさぁ……、前にも言ったじゃ~ん?たまたま、たまたま~!」
あの日……、向日葵と花梨が襲われた日に何故かエモンは藤花学園の校舎内に居た。しかも事情も知っているような口ぶりだったし、実際に一年五組の連中が三年五組の教室に向日葵を連れ込んでいたことも知っていた。
どうしてあの日エモンが学園に居たのか、何故事情を知っていたのか、それなのにどうして助けたり連絡をしたりしなかったのか、色々と疑問は尽きない。でもエモンは誤魔化すばかりでちゃんと答えてくれていない。たまたまや間違ってで藤花学園の校舎内になんて居るはずがない。しかも警察が調べたはずなのに防犯カメラなどにはエモンは映っていなかったようだ。
もしかしてエモンは全てのカメラの死角を移動し、誰にも見つかることなく学園の校舎内をウロウロしていたんじゃないのか?直接的な格闘術なら俺の方が出来るかもしれないけど、こと潜入に関しては俺はエモンにまったく敵わない。
「もしかしてエモンさん……、日頃から藤花学園に侵入されているのでは?」
「いやぁ……?そんなことはぁ?ないかなぁ?なんて?あははっ……」
う~ん……、何かとても怪しい……。でもあの時エモンのお陰で助かったのは事実だし、あまり無理に問い詰めるべきではないのだろうか?実際そう思って今まで何やかんやと有耶無耶のままだし……。
「はぁ……。わかりました。それではもう聞きません」
「にゃはは……」
何か苦笑いしているエモンを残して俺は着替えを済ませて一度家へと帰ったのだった。
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朝練を終えた俺は蕾萌会の春期講習に来ていた。塾の講習も真面目にやらないと、怠けているとオール満点からあっという間に陥落してしまう。ある程度の成績の子が点数を伸ばしたり、維持するだけならそれほど難しいことじゃないと思う。でも常にオール満点を維持するというのは中々難しい。いくらもう何度も勉強した所とはいえ手を抜けばすぐに落ちてしまう。
「いらっしゃい咲耶ちゃん」
「御機嫌よう菖蒲先生」
長期休暇以外の時でも蕾萌会の講習は受けているけど……、やっぱり学校が休みの時の集中講座というのは大きな意味がある。さぁ!勉強頑張るぞ!
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「あら?いらっしゃい、咲耶ちゃん、先生」
「御機嫌ようマスター」
……いや、違うんだよ?ちゃんと勉強はしたんだよ?でも時間が余りすぎてしまったから仕方なく菖蒲先生と一緒にマスターの喫茶店に来たんだよ。決してサボりじゃないから!
実際今日の分どころか三日先の分まで講習の内容を終えてしまっている。さすがにこれ以上先の分をするとあとでやることがなくなるからということで、渋々!仕方なく!止むを得ず!菖蒲先生に言われてマスターの喫茶店に来ることになっただけだ。
「あっ!咲耶お姉ちゃん!」
「まぁ!秋桐ちゃん」
今日はすでにこちらに来ていたのか、店の奥から秋桐がひょっこり顔を覗かせた。そして俺を見つけるなりてててーっと走ってきた。いつも通りだろうと思って今日こそはと身構えていたのに……。
「えへへ~!」
「あら?秋桐ちゃん?」
いつも通りタックルしてくると思って備えていたのに、今日の秋桐はタックルすることなく手前で止まって可愛い笑顔を見せてくれている。確かに可愛いんだけど何かいつもと違うから調子が狂う。
「咲耶お姉ちゃ~ん」
「あらあら?秋桐ちゃんは甘えん坊さんですね?」
手前で立ち止まった秋桐はタックルすることなく普通に俺に抱き付いてきた。これくらいだったら俺もダメージを受けることがないし、秋桐は可愛いし、何か最近女の子らしくなってきたのか柔らかいし良い匂いがするし、……あれ?これはそろそろやばいのでは?
「秋桐ももうお姉さんだから咲耶お姉ちゃんにぶつかったりしないんだよ!」
「そうなのですね。それは少し寂しい気もしますが、きっと良い変化なのでしょうね」
俺に抱きつきながら秋桐がそんなことを言ってきた。まぁ来月からは中等科二年生になるわけだし、むしろまだ幼すぎるくらいに思える。でも緋桐さんや小紫に聞いた感じでは秋桐がこんな子供っぽく振る舞うのは俺の前でだけで、普段はもっとちゃんと年齢相応に振る舞っているらしい。
俺は昔から知っているお姉さんみたいに思われているのかもしれない。兄弟のいない秋桐にとっては俺のことは本当のお姉さんのように思ってくれているのだろう。そう思うといつもタックルされていたことも悪いことばかりとも思えなくなってくる。可愛く思えるのだから不思議なものだ。
ただ問題があるとすれば秋桐も中等科二年生にもなればかなり女の子らしくなってきているということだ。膨らむ所はちゃんと膨らんできているし、女性っぽい匂いもしている。女性だって汗をかけば臭いし、何でも良い匂いというわけじゃないんだけど……、ボディソープや香水の匂いだとしても何かフワリと良い匂いがしている。
「秋桐!咲耶ちゃんに迷惑をかけては駄目よ!」
「え~?迷惑なんてかけてないよ~?ね~?咲耶お姉ちゃ~ん?」
「そうですね。秋桐ちゃんが迷惑だなんてことはありませんよ」
「えへへ~!」
また俺にギュッて抱きついてきた!可愛い!もう連れて帰ってしまいたい!何だこの可愛い生き物は!中等科二年生になってもまだこんな可愛いなんて……、秋桐は甘えん坊な妹というものをわかっているのか。わかっていてやっているとすら思える!
「あの~……?咲耶ちゃん?お姉さんのことも忘れないで欲しいな~……、なんて思うんだけど?」
「え?あっ!いえいえ、菖蒲先生のことを忘れてなどおりませんよ!」
危ない、危ない……。危うく秋桐の魅力にメロメロにされるところだった。俺はロリコンじゃないんだからいくら秋桐が可愛いと言っても性的な意味での可愛いじゃない。ただちょっと家に連れて帰って、一緒にお風呂に入って体を洗ってあげて、一緒のベッドに入って、朝まで抱き締めて寝たいだけだ。
「やっぱりアラサーのおばさんじゃ駄目なのね……」
「あ、あ、あぁぁぁっ!菖蒲先生はおばさんではありませんよ!素敵なお姉さんです!」
「本当?」
「はいもちろん!」
菖蒲先生はどれくらい本気で言っていたのかわからない。もしかしたら俺をからかって遊んでいたのかもしれない。でも……、菖蒲先生がおばさんなんてことは絶対にない。それだけは言い切れる。




