第八百八十七話「皐月、百合のお傍仕えになる?」
一月も末が近づいてきたある土曜日、皐月は百合と一緒に街を歩いていた。
「皐月!これは何ですの?」
「これは百円均一で売っているねこじゃらしです……」
「皐月!これはこれは?」
「はぁ……。それは……」
皐月は深い溜息を吐きながらもしっかり百合に付き合ってあげていた。冬休みに咲耶が家族旅行で不在の時に百合がやってきて二人で一緒に街を散策して以来、百合は時々こうして皐月を訪ねては一緒に街に繰り出して連れ回していた。
皐月の方は毎回毎回百合に振り回されてうんざりしているが、咲耶に百合を注意して見ておいて欲しいと頼まれたこともあって可能な限り百合に付き合っている。何より実際に百合を間近で見て、一緒に街を回った皐月の感想は咲耶と同じだった。
百合は放っておいたら何を仕出かすかわからない。
一条家のご令嬢だというのにまったくご令嬢らしくなく、落ち着きもなく子供のように興味がすぐにあちこちに移ってしまう。その上これまで身の危険を感じたことがないのかあまりに無防備すぎた。
SPを連れて高級店街や高級ホテルに居れば身の危険などまずないだろう。しかし普通の一般庶民がいる街中に護衛も連れずに出歩けば危険は跳ね上がる。一般庶民に対して『自分は一条家の娘だ!』と主張しても牽制にもならない。それどころか下手をすればかえって身代金目的の誘拐に遭う可能性が高まる。
今まで百合は周囲の様々な人々の働きによって安全に過ごしてきた。その自覚がないままに今の年齢まで育ってしまった百合は外への危機感がまったく足りない。その上本人の性格もかなり天然なので咲耶が言う通り放っておいたらどんなことになるかわからず無視出来ない。
「一条様……、せめて目に見える形で護衛くらいはお連れください……」
皐月は何度目になるかの忠告を行った。一条家も百合にまったく護衛をつけていないわけではないだろう。周囲に溶け込むようにして護衛達がいるとは思う。しかし他人を牽制する場合には露骨なくらいに目に見える形で護衛を連れておいた方が良い。
いくら裏で護衛がついてきているとしても、相手がそれを認識していなければ先日の瓜生高校の不良達のように絡んでくる者も出てくる。あの時もあからさまな形で百合が護衛を連れていればあんなことにはならなかったはずだ。
しかし皐月がいくら正論で忠告をしても百合はまったく聞き入れなかった。
「わたくしはもう高等科生のお姉さんですのよ!これくらい一人で出来ますの!」
「はぁ……」
恐らく百合は一条家の者達にも同じように言っているのだろう。そして忠告を聞き入れてもらえないから止むを得ず表向きの護衛はつけずに裏から護衛に徹しているのだと思う。だがそれでは絡んでくる不良やナンパは止められない。実際こうして皐月が百合と一緒に街を出歩くようになってから何度もそんなことがあった。
裕福そうな格好をして金髪に脱色してドリル……、縦ロールを装備している百合が目立たないはずがない。藤花学園や高級店街ならばまだしも、一般庶民がいる普通の街中でこんな格好をして偉そうに練り歩いている少女がいれば悪目立ちするのは当然のことだった。
「はぁ……。躑躅は何をしていたのでしょう……」
躑躅はただ百合の取り巻きとして周囲にいるだけの存在ではない。恐らくは一条家や西園寺家から百合の世話係としてだけではなく教育係としての役割も与えられていたはずだ。
百合や咲耶ほどの身分になると簡単に注意出来る者はいない。そこで一条派閥の中でも最上位格の一つである西園寺家から百合の世話係と教育係として躑躅がつけられたはずだ。他の家の者ならば言えないことも注意して百合を導くことを期待されての配置だったはずなのだ。それなのにその躑躅がまったく機能していなかったとしか思えない。
留学先での百合や躑躅の生活がどのようなものであったのかはわからない。ただ現状の二人の関係を見る限りでは躑躅はまともに注意も教育もせずに百合のわがままを許してきたのだろう。こちらに帰ってきてからも躑躅が百合のすることに口を挟んだり注意したりしているのは見たことがない。
そんな百合のすることを全て肯定して放置する躑躅に甘やかされて育ってきた百合は今こんな困ったことになってしまっている。誰の注意も聞かず、自らが思った通りにしか行動しない。ご令嬢にあるまじき……、とかそんなレベルではなく人として大事なことが欠けているとすら言える。
他に一緒に留学していた朝顔もそうだ。そもそも一条派閥ではない三条朝顔が一条百合に注意したりする根拠はなかっただろう。しかしそれだけではなくあの誰も彼も甘やかしまくって駄目人間にしてしまう朝顔が傍にいては、百合の駄目っぷりがますます加速したことは想像に難くない。
多少家格が落ちるとはいえ百合に注意出来るだけの家格や役割を持つ躑躅と朝顔があの様では、百合が甘やかされて過ごしてきたことは間違いないだろう。
「一条様!もう何でも一人で出来る『お姉さん』だと言われるのでしたら周囲の話も忠告もちゃんと聞いてください。何でも自分で決めて行動出来る人が『立派なお姉さん』なのではありませんよ!人の意見にきちんと耳を傾け、自分が間違っていたり、より良い案があるのならば素直に謝ったり、そちらの案を採用出来る人こそが立派な人なんです!」
「え?そっ……、そうなんですの?」
皐月に注意された百合は自信がなさそうにオロオロしていた。今までこのように言われたことはないのかもしれない。あるいは言われても聞き流していて真剣に受け止めたり考えたりしていなったのかもしれない。しかし今回の皐月の言葉には耳を傾け、きちんと考えている。皐月の言った『立派なお姉さん』という言葉が効いたのかもしれない。
「躑躅も三条様も一条様を甘やかすばかりだったかもしれません。ですがそれでは咲耶ちゃんのような立派なレディにはなれませんよ!」
「――ッ!?ガガーンッ!」
皐月の言葉に百合は衝撃を受けた表情を浮かべてヨロヨロと後ずさった。
「どっ、どうすれば良いんですの?皐月!わたくしが咲耶お姉様のような立派で素敵なレディになれるように手伝いなさい!」
「それではこれからは私のことを師匠と思ってちゃんと言うことを聞いていただけますか?」
「良いですわよ!それくらい!咲耶お姉様のようになれるのでしたらその程度のことなど耐えてみせますわ!」
耐えるとかではないし、そんな認識でそんなことを言っている間はまだまだだろうなと思いながらも、一先ず百合の更生の第一歩を踏み出せたかと皐月は胸を撫で下ろした。その時……。
「百合様!――ッ!?どうしてあんたがここにいるのよ!」
「躑躅……」
皐月と百合が二人で街の散策を行っていた所に躑躅が現れた。もしかしたらどこかへいなくなった百合を探していたのかもしれない。そして百合と一緒に居た皐月を見て躑躅がジロリと睨みつけながら問い詰める。
「まさか百合様に何かしようと思ってたんじゃないでしょうね!」
「お~っほっほっほっ!違いますわよ躑躅!皐月はわたくしの散策のお供をしておりますの!お~っほっほっほっ!」
皐月が何と答えたものかと考えているうちに百合が余計なことを言ってしまった。これはややこしいことになるかと皐月がますます頭を悩ませたが躑躅の反応は皐月が予想したものとはまったく違っていた。
「……え?もしかして……、皐月お姉ちゃんもようやく百合様の素晴らしさに気付いたの?ねぇ?そうなんでしょ?九条咲耶なんて捨てて百合様のお傍仕えになるってことよね?私からお爺様に言ってあげるから今から西園寺家に帰りましょう!ね?皐月お姉ちゃん!」
「いや……、あの……」
躑躅の豹変についていけずに理解が追いつかない。ただ躑躅が言うように二人でお爺様に頭を下げたからといって今更西園寺家に戻れるとも思えない。躑躅の見通しはあまりに楽観的すぎる。
「私は西園寺家には戻りませんし、お爺様も私や躑躅に言われたくらいで今更勘当を撤回などしないでしょう。それは躑躅もわかっているでしょう?」
「それはそうかもしれないけど言ってみなきゃわからないでしょ!」
「それに私は一条様の傍仕えになるつもりもありませんし、お爺様に頭を下げて西園寺家に戻してもらおうとも思っておりません」
「――ッ!」
皐月の言葉に躑躅は表情を歪めて俯いた。しばらくブルブル震えていた躑躅が再び顔を上げるとその目にはうっすら涙が溜まっていた。
「皐月お姉ちゃんの馬鹿!分からず屋!本当は私に隠れて百合様と密会するくらい百合様のことが大好きな癖に!お姉ちゃんのバカァァァァァ~~~~~ッ!」
「あっ!躑躅……」
そんな言葉を残して躑躅は走り去って行った。それを皐月と百合はポカンと見送ることしか出来なかった。しかし少ししてから百合がニマニマと変な笑いを浮かべながら皐月の方を見た。
「へぇ~~~?そうでしたのぉ~?皐月がわたくしのことをねぇ~?ムフフ~ッ!それならそうと早く言えばよろしかったのに!わたくしはわたくしを頼ってくる者を見捨てたりはしませんわよ!さぁ西園寺皐月!わたくしの胸に飛び込んできなさい!受け止めて差し上げますわ!お~っほっほっほっ!」
「はぁ……。躑躅が思い込みで余計なことを言うから……」
確かに百合のことは放っておけない子だとは思っているが、躑躅が言うような類の感情は持っていない。しかしそれを真に受けた百合に『さぁさぁ!』と両手を広げて待ち受けられながら、皐月は今日何度目になるかの溜息をまた吐いたのだった。
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ある日の放課後にとある空き教室に女子生徒達が集まっていた。その中心に座っているのは西村三つ葉と藤原向日葵、吉田花梨の三人だった。その三人を囲うように非公式ファンクラブのメンバー達が集まっている。
「それでどうなったの?」
「はい。九条様に助けていただいて……」
向日葵と花梨の話に非公式ファンクラブのメンバー達は聞き入っていた。自分達が見ているのは九条様のほんの僅かな時間でしかない。こうして実際に九条様の取り巻きをしている者達の口から直接あったことを聞けるのは非常に貴重な体験だ。
「はぁ~~~っ!今日も藤原さんと吉田さんのお話が聞けてよかったわ!」
「さぁさぁ!そろそろお開きにしましょう!」
「「「はぁ~い」」」
三つ葉がパンパンと手を叩いて皆に帰るように促す。非公式ファンクラブは放課後に空き教室に集まってお茶会と称して向日葵や花梨から九条様グループの裏話などを聞いていた。社交をすることは学園の方針でもあるのでお茶会をしていても問題はないが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
この場のリーダーである三つ葉が片付けて帰るように促したのでファンクラブメンバー達はお茶やお菓子を片付け始めた。
「それじゃ藤原さんと吉田さんを表まで送っていくわね」
「「「はーい」」」
他のメンバー達が後片付けをしている間に向日葵と花梨を三つ葉が表まで送っていく。これはこの集まりの時のいつものことになっていた。
「あの……、やっぱり私達も後片付けを手伝った方が……」
「良いのよ。お二人には貴重なお話を聞かせてもらっているし、これは私達の接待なんだから」
「そう……、ですか……。すみません。ありがとうございます。皆さんもご馳走様でした」
「いいのいいの!」
「また九条様のお話を聞かせてね!」
向日葵と花梨はファンクラブメンバー達にお礼を述べてから空き教室を出た。いつも後片付けを手伝うと言っているのだがこうして断られて帰されてしまう。確かにファンクラブ側が向日葵と花梨をお茶会に招待しているという形なら、ゲストである二人が後片付けをするのはおかしい。そう言われたら引き下がって帰るしかない。
「今日も素敵なお話が聞けてよかったわ。また何か新しいお話があったら聞かせてちょうだいね」
「はい!是非!」
三つ葉に送られて向日葵と花梨の三人で廊下を歩きながらそんな話をしていると、ちょうど特別校舎と普通校舎の通路が交差している場所でばったり思わぬ相手と出くわした。その相手を見て三つ葉が固まる。
「あら?ひまりちゃん、りんちゃん、御機嫌よう。今から帰りかしら?」
「あっ!九条様!御機嫌よう!」
「はい!私達もこれから帰るところなんです!」
西園寺皐月様と徳大寺薊様を左右に従えた九条咲耶様が目の前でしゃべっている。それだけで三つ葉は意識を失いそうになってた。こんな間近で九条様を見られるだけでも幸せすぎて死んでしまいそうな錯覚に陥る。
「貴女は確か西村三つ葉様?西村様はひまりちゃんとりんちゃんと親しいのですか?」
「うぇっ!?どっ、どうして私の名前を!?」
まだ名乗ってもいないのにいきなり名前を呼ばれてドキッとした。あの九条様の可憐な唇が自分の名前を呼んだと思うだけで天にも昇りそうだった。
「あぁ……、自己紹介も受けていないのに気安く呼んでしまってごめんなさい。でも初等科の頃からご一緒でしたもの。もちろん西村様のことは存じておりますよ」
「――ッ!――ッ!」
それを聞いた瞬間三つ葉は体をビクンビクンさせて鼻から血を噴き出した。九条様がこんな木っ端地下家の一人でしかない自分のことを知ってくれていた。そう思うだけで興奮が止まらない。
「えっ!?ちょっ!?西村様!?大丈夫ですか?」
「だっ……、大丈夫れふ……。九条様はお気になさらず……」
いきなり鼻血を噴き出されて気にするなという方が無理な話だろうが、三つ葉はとにかく大丈夫だと言い張って九条様には簡単な挨拶だけして先に帰っていただいた。あのまま九条様に心配され続けては本当に昇天してしまいかねない。
「私……、今日のこと一生ファンクラブの皆に自慢するわ!」
「「あはは……」」
咲耶様達が帰り、また向日葵と花梨と三人になった時三つ葉はそんなことを言った。それを聞いて向日葵と花梨は苦笑いしか出来なかったのだった。




