第八百八十四話「杏とデート」
三学期が始まって一月もそれなりの日になった。今日は杏とデートの日だ。
「ふふん♪ふふっふふん♪ふんふんふん♪」
姿見の前であれにしようかこれにしようかと服を引っ張り出しては自分の体に当てて確認していく。
「随分ご機嫌ですね、咲耶様」
「えぇ~?そんなことはありませんよ~?うふふっ!」
杏にデートしたいと言われた時は驚いたけどこれはただ友達と一緒にお買い物とかお出掛けをするだけのことだ。杏は『デート』なんて言葉を使ったけど、例えば男同士や女同士の友達で出掛ける時も『デート』という言葉を使うことはある。
『本来の意味は~』とか『こういう場合には使う、あるいは使わない』とかそんな細かい話じゃない。恋人関係ではない同性と出掛ける時でも冗談で『デート』と言う場合もあるという話だ。そして杏はそういうつもりで言ったわけではないことはわかっている。だからこれは恋人とする『デート』という意味ではないことは重々承知だ。
普通なら俺達くらいの家の子女は少し前に話をしたからといってこんなに早く予定を決めることは難しい。偶然、たまたま、早い段階で予定の都合がついて決まることは有り得る。ただそんなことは稀な話だ。
俺やグループメンバーの子達の家格にもなってくると毎日の予定は年単位で決まっている。思いつきで『今月中に遊びに行こうよ』なんて突然言っても予定が合わずに話が流れてしまう。あるいは両者の都合のつく日にすると何ヶ月も先になってしまったりするものだ。
でも今回は杏がもうすぐ卒業ということでこちらの予定に合わせてくれた。
何故杏が卒業だったらこっちに合わせられるのかと言うと、杏は内部進学で藤花学園の大学に進学する。だからもう進学先は決まっており受験もない。だけど学園では今三年生達は受験の真っ最中であり受験生のために色々と便宜が図られている。
授業の時間や日程、それどころか学園の定期試験まで受験のために特別な日程が組まれている。他の大学を受験するつもりの生徒達にとってはそれでも大変な日程だけど、もう進学先が決まっている生徒達にとっては今や学園なんてとりあえず通っているだけで特に意味のないものになっている。
杏は内部進学で藤花学園の大学に進学することはすでに決まっているので今はもう学園に来ても遊んでいるだけのようなものだ。これはある程度以上の進学校で高校三年生を経験したことがある人なら誰でも似たような覚えがあるだろう。
それならそれで今大路家が杏の予定を色々入れているかと言うとそんなことはなく、一応受験シーズンということで杏の予定はかなり空きがあったらしい。なのでこちらが指定する日時のほとんどに対応可能だと言ってきていた。
グループの子達と日程の都合をつけようと思ったら双方の予定が丁度空いている日にしなければならない。でも俺達だって年中無休で予定が入っているわけじゃない。自分だけが空いている日、あるいは予定をずらせば空けられる日はそれなりにある。ただそれに相手も合わせてもらおうと思ったら中々難しいというだけのことだ。
今回の杏のように片方はいつでも対応可能であり、こちらの都合の空いている日ならいつでも合わせてくれるというのならこうして比較的すぐに予定を立てることが出来る。俺も元々は今日暇だったわけじゃない。ただ習い事とか動かせる予定を動かして今日一日を空けることが出来たというだけだ。
「あっ!これ可愛いですね」
「咲耶様は何をお召しになられても可愛く美しいですが……」
杏には今日は『ご令嬢としてではなくなるべく一般人っぽく見える格好で来て欲しい』と言われている。デートコースもいくらか聞いているけどご令嬢達が行くようなデートコースじゃない。今日の杏とのデートはあくまで『一般の男女や友達同士が遊びに行く場所を体験する』という趣旨だ。
だから俺達の格好もなるべく一般人っぽいものを選び、高級車による送迎も受けず、出来るだけ一般人っぽく楽しもうと言われている。今選んだ服は所謂ファストファッションに近い。
実際の所は今日のファッションだけで前世の俺の月の総支給……、手取りではなく一ヶ月の総支給くらいの金額になっている。でもパッと見た感じは一見ファストファッション風に見える。これはここのデザイナーがあえて『高級ファッションをファストファッション風にデザインしたもの』として売っているものだ。
これなら生地や縫製はしっかりしたものだけど、良く知らない人が遠目に見たくらいだったら全身コーデでまさか四十万近くもするものだとは思わないだろう。
「咲耶様……、本当に送迎はよろしいのですか?」
「はい。杏さんとそういう約束ですから。あと護衛も隠れてついてくるなんてことをさせないでくださいね」
「しかし!」
「良いですね?」
「…………はい」
ちょっと強めに念を押すと椛は頷いてくれた。これで杏とのデートはじっくり楽しめるはずだ。JKお姉さんとの普通の街デート……、楽しみだなぁ……。もしかしてあんなことやこんなことも起こったりして?ぐへへっ!
~~~~~~~
今日はあくまで一般の女の子同士のデートという体なので送迎は断って電車に揺られて待ち合わせ場所へとやってきた。今生でもたまには電車に乗ったことはあるけどそれほど回数は多くないかもしれない。でも前世サラリーマンだった俺だ。通勤電車で嫌というほど揺られてきたので電車に乗ることなど造作もない。
「えっ!?見て見て!あの女の子!すごく可愛くない?」
「芸能人かな?」
「……ん?」
何か芸能人という言葉が聞こえたから周囲を見てみたけどそれらしい人は見当たらなかった。まぁそもそも俺はあまりテレビや芸能人に興味がない。これは前世からなので今流行りの芸能人とかも誰が誰だかわからないし、仮にこの場のどこかに居たとしても顔を見ても気付かない確率の方が高いだろう。
前世でも都内を歩いていたら芸能人なんて結構そこらを歩いていたし、何かのロケをしている場面に出くわしたこともある。大して興味もないし珍しいものでもないので杏との待ち合わせ場所へ急ぐことにした。
「ねぇねぇ?君一人?俺達と遊びに行こうよ」
「いえ……、人と待ち合わせをしているので……」
「あれは……」
杏との待ち合わせ場所に到着すると杏は三人の男にナンパされていた。遠目にも今日の杏が可愛いことはすぐにわかった。学園の制服を着てちょっとおちゃらけた言動をする杏もそれはそれで可愛いんだけど、今日は普通に清楚な感じの私服を着ている。ナンパ男達に絡まれていてもいつもの変な調子ではなく普通の女の子のように対応している。
……あっ!これだと何か杏が普通の女の子じゃないみたいだな……。もちろん普段だって杏は普通の女の子なんだけど、体育祭とかのマイクパフォーマンスを思い出してもらえば俺の言いたいこともわかるだろう。ああいういつもの変な調子や口調が出ていないだけでもまったく印象が違ってみえる。
「ほらほら!いいから行こうよ!」
「ちょっ!放してください!」
「あっ……」
考え事をしている間に杏の腕が掴まれていた。ぼーっと見ていた俺も悪いんだろうけどかなり頭に来る。今日杏は俺の……、俺だけのものだ!それをお前らのような薄汚い男が気軽に触るなんて万死に値する。
「ごめんなさい杏さん。お待たせいたしました」
俺はわざと杏とその腕を掴んでいる男の間に無理やり体をねじ込んで割って入った。まさか女に割り込まれるとは思っていなかった男達はポカンと……。
「うおおっ!?」
「えっ!?何この子!?めっちゃ可愛くね?」
「君、この子の連れなの?じゃあさ!二人ともおいでよ!一緒に遊ぼうよ!」
男共は俺と杏を見ながらさらにしつこくどこかへ連れて行こうとしてきた。そりゃそうか……。向こうからすれば杏一人を連れて行くつもりだったのが、連れて行ける女が二人になったように見えるだけだもんな。まぁ俺の中身は男なんですけどね!
「すみません。今日は二人でお出掛けですので……」
未だに杏の腕を掴んでいる男を押し退けるように軽く胸に手を当てる。そう……、周囲から見たら俺が軽く男の胸に手を置いただけに見えるだろう。でもその瞬間に俺は道路のアスファルトを踏み抜くほどの震脚から腰、胸、肩、腕へと回転エネルギーに変換しながら力を伝えた。
「…………」
脚から腕へと伝わってきたエネルギーを勁としてナンパ男の胸に打ち込む。男の方は吹っ飛ぶこともなく一瞬ビクンと体を震わせたかと思うと残る二人に向かって倒れ込んだ。
「うわっ!何だよ?」
「しっかり立てよ!……あれ?おい!大丈夫か?おいっ!」
「それでは私達はこれで……」
「あの……、咲耶たん!?」
困惑している杏の背中を押して男達から離れる。本気で打ち込めば心臓が止まるか内臓破裂くらいはするだろうけど今回はそこまではしていない。あくまで一時的に意識を失う程度の勁を打ち込んだだけだから男の方も大したことはないだろう。ただ杏の腕を掴んだから相応の報いは受けてもらっただけだ。
「ありがとう咲耶たん!助かりました!」
男達は一人が気を失って倒れたことでこちらを追ってくる余裕はなかった。少し離れた所で杏と落ち着いて向かい合うとそんなことを言われた。でも何か物凄い違和感というか何というか……、いつもと違う気がする。
「いえ、私が遅くなったためにあのような目に遭わせてしまって申し訳ありません。杏さんが無事で本当によかったです……。ですが……、杏さんですよね?」
「もちろん見た通り今大路杏ですけど……?」
俺の言葉に杏は自分の格好がおかしいと思ったのか自分の体を触ったり、服やスカートを引っ張って目視で確認していた。
「見た目もいつもと違ってとても可愛いのですがそれだけではなく……」
「あぁ……、もしかしてこの口調っすか?」
「あっ、はい。それです……」
どう切り出したものかと思ってると杏は察したという顔をしていつもの口調で話してくれた。でもそれもその一言だけだった。
「今日は普通の一般の女の子同士っていう設定なんで……、普通っぽく話しても良いですか?それと咲耶たんも『咲耶ちゃん』って呼んで良いですか?」
「――ッ!」
杏が少し上目遣いにそんなことを言ってきた。その姿を見た瞬間俺はまるで雷に打たれたかのように痺れた。可愛い……。
杏は普段がアレだからついつい色物のように思われているかもしれない。でもこうして普通の女の子の格好をして、普通のしゃべり方をしていたら……、普通どころか普通よりかなり可愛い女の子だ。俺が見た時はさっきの三人組にナンパされてた所だったけど、それ以外にもかなりの男共が杏をチラチラ見たり狙ったりしていた。本来はそれくらい可愛い女の子だ。
そんな可愛い杏が『咲耶ちゃん』……。いつものちょっとアレっぽい『咲耶たん』ではなく『咲耶ちゃん』……。それだけでもとんでもない破壊力だ。これはあれか?ギャップ萌えというやつなのか?
「あの……?咲耶ちゃん……、駄目ですか?」
「――!いいえ!駄目だなんてことはありませんよ!可愛い杏さんにそんな風に呼んでいただいたので驚いたのと噛み締めていたのが半々というところです」
「可愛いなんてそんな……、社交辞令でもうれしいです」
いや、ほんとこの美少女誰?まったくいつもの杏と一致しない。いつもの杏のノリはあれはあれで俺としては助かっている部分もある。たまにマイクパフォーマンスでイジられて困る時もあるけど、可愛い女の子相手に話をするだけでも緊張してしまう俺としては、あのちょっとあっち系っぽい杏のしゃべりはとても話しやすい。
だからこそいつもは杏とあんな風にふざけていられるし、気も落ち着いて話すことが出来ていた。でも今日の杏は違う。可愛すぎる!まさに美少女と呼ぶに相応しい!
グループの子達も見た目だけは清楚な子とかが多い。でも清楚の代表のような皐月ちゃんや椿ちゃんも実はちょっと子供っぽいところがあったり、いたずらな所もあったりでその本性を詳しく知っていると単純に大人しくて清楚なだけじゃないことを知っている。
それに比べて普段はあんな風な杏が……、今俺の目の前にいる杏はしおらしくて、大人しくて、清楚で可愛い。こんなん惚れてまうやろ!
「社交辞令などではありませんよ!ナンパしてきたのはあの三人組だけかもしれませんが他の男性達も杏さんに釘付けになっていました!それほど目立つくらい杏さんはあの場で飛び抜けて可愛かったのです!もう少しその辺りのことを自覚して気をつけてください!杏さんは可愛いのですからあまりうかうかしていると男性に強引に連れていかれてしまいますよ!」
「……私が可愛い、自覚がなくて連れていかれるって……、あははっ!それは咲耶ちゃんの方じゃないですか!あはははっ!」
「なっ!?何がおかしいんですか!?」
俺の言葉に杏は笑い出した。でもその笑い方もいつものような感じじゃなくて、本当に可愛いJKお姉さんが自然と笑っているような感じだった。
「は~……。始まる前からナンパされたり、咲耶ちゃんに笑わせてもらったり……。さぁ!それでは行きましょう!」
「ぁ……」
散々笑っていた杏は俺の手を握ってにっこり笑うと歩き始めた。さっきまでは杏に色々言いたいと思っていた俺は……、でも手を引いて前を歩いている可愛いお姉さんに何も言えなくなってただ手を引かれるままに歩き出したのだった。




