第八十八話「解散」
運動会が終わり、日曜日を挟んだあとの月曜日の学園が終わった後、西園寺皐月は祖父の前で頭を下げていた。
「あの壁新聞というものはお爺様の手によるものでしょうか?」
「壁新聞?何のことだ?詳しく話してみろ」
「はい……」
てっきり祖父の差し金かと思っていた皐月は頭に疑問符を浮かべる。聞かれた通りに今日あった出来事をそのまま伝えた。皐月の言葉を聞いた祖父は目を瞑って顎を触っていた。そして目を開けて口を開く。
「なるほどな……。くっくっ!九条が苦しむのは愉快だ。……しかし皐月、他家に遅れを取るとはどういうことだ?お前の役目を忘れたわけではあるまい?」
「――ッ!もっ、申し訳ありません……」
ジロリと睨まれた皐月は慌てて頭を下げた。祖父の言葉や態度からどうやら今回のことに関しては祖父は関係ないらしい。そして本来ならそれを利用して九条家を貶めるのは自分がやらなければならなかった。それを祖父に指摘されるまで忘れていた。皐月はただ頭を下げる。
「ふん……。まぁよい……。その件がどうなるかこれから楽しみというものだ。くっくっくっ」
「…………」
不気味に笑う祖父を皐月はただ黙って頭を下げたままやりすごしたのだった。
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壁新聞が貼られて以来、薊たちはグループを超えて他のグループの子達にも丁寧に説明を広げていった。特に教室での錦織柳を取り囲んでの出来事はクラスの大半が見ている。だからこれが間違いで記事が嘘であったと説明するだけでも、壁新聞の記事全体に対する疑問が生まれ、信用性を下げることが出来る。
薊たちに出来ることは少ない。表立ってもっと徹底的に犯人を捜し、関係者、つまり男子生徒達や萩原紫苑の悪事を広めればもっと簡単に嘘を撤回出来る。そうは思うが咲耶自身がそれを嫌がるのでこうして地道に説明を続けるしかない。
「でもどうして咲耶ちゃんはもっとはっきり説明しないのかな~?」
「譲葉……、あんたね……。咲耶様の優しさがわからないの?もし記事を大々的に否定するってことは、あの馬鹿な男子達のことも全部広げることになるのよ?そうなったら誰が困ると思う?」
「それは男子達でしょ?でも自業自得じゃないかな?」
薊の言葉に譲葉も答える。譲葉もそれくらいはわかっている。でもそれは本人達に原因があることだ。だったらそれを広めて何が悪い、と思っていた。
「確かにそうよ。でも……、そんなことをしたらクラスも滅茶苦茶になるわ。だから咲耶様はなるべく穏便に済むように……、今ご自身が謂れ無き批判を受けていても我慢しておられるのよ」
「そっか……」
薊の説明に皆も押し黙る。確かに薊の言ったことも咲耶の行動の理由に含まれているが、咲耶自身はそれよりも他のことを考えていた。
ここで自らの潔白を証明するために他の者を貶めたら、それはそれで結局評判が下がる可能性が高い。またこのようなことを企んでいる相手だ。そうすればそうしたでそれをまた利用されるかもしれない。そう思って慎重に事を運んでいる。ただ無条件に相手のことを思ってというわけではない。
しかし薊たちにとっては咲耶はまるで自分を犠牲にしてでも男子生徒達や萩原紫苑を気遣っている天使、いや、女神のように思えていた。
強く、気高く、美しい。
何があろうと動じることなく、どんな困難にも負けない。常に一切の隙なく完璧なる振る舞いが崩れることはない。まさに理想のご令嬢。
そしてだからこそきっと敵も多いのだろう。自分達だって羨望と同時に僅かながら嫉妬も持っている。自分達ですらその嫉妬が消せないのだから、咲耶と触れ合ったことがない者の持つ妬み嫉みは一体どれほどのものになるだろうか。
ただ……、自分達が咲耶の敵になることはあり得ない。確かについついあまりの完璧さに嫉妬もしてしまうけれど……、それでもその優しき心に直接触れたことがある者達が咲耶を裏切ることは絶対にあり得ない。
自分達に出来ることは小さなことであっても……、それでも咲耶のために……、せめて出来ることはしたい。薊たちはそう思って少しでも咲耶の嘘の噂を払拭しようと奮闘していたのだった。
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壁新聞が貼られてから数日が経ち、犯人も捕まり噂もかなり下火になりつつあった。まだ完全に払拭出来たわけではないが、それでも幾分マシにはなってきた。このまま地道に活動を続ければやがて噂も消えるだろう。そう思っていたのに……。
「おはよう!」
「アザミ様おはようございます」
「ごきげんようアザミ様」
朝、いつものように教室に入ってみれば、いつもいるはずの咲耶の姿がない。何か……、嫌な予感がする。
「アザミちゃんおはよ……」
「譲葉、咲耶様は?」
いつもは元気に挨拶を返してくれるはずの譲葉が妙に元気がない。そして薊の問いかけにただ眉尻を下げて首を振る。誰も何故咲耶がここにいないのかわからない。
今朝、咲耶は桑原桂の襲撃に遭って今は事情聴取されている最中だ。朝の騒動を知る者もいるがまだその数は限られており、その場にいなかった薊たちはまだ何も知らなかった。
先に来ていた者は放送での咲耶と桑原のやり取りを知っているが、薊たちにそれを教えてくれる者は誰一人いない。何がどうなっているのかわからないまま、授業開始ギリギリほど、恐らくほぼ全ての生徒が集まっているであろう時に、突然学園中のモニターに今朝の出来事の編集された映像が流された。
「なっ!」
「これは……」
映像は意図的に余計な部分を削り悪意のある編集に仕上がっている。桑原から殴りかかった場面はカットされ、この映像を観ただけではどういう経緯でこうなったのかはさっぱりわからない。
ただ咲耶が桑原桂を転ばせ、跨り、取り押さえて、髪を掴んで顔を持ち上げる。その後で九条家の兄、良実と邪悪に笑い合う。あたかも二人が無抵抗の桑原を嬲り者にしてそれを嘲笑っているかのような編集だった。その上それを目撃していた生徒達に怒鳴り散らす。
その映像を観ただけでは……、どう考えても咲耶が悪いようにしか見えない。薊たちはそれを素直に信じてはいないが……、もともとこれまで何度となく悪評が流れている咲耶にとってその映像は致命的だった。
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金曜日に教室に戻ってきた咲耶は、それでも気丈だった。まるで自分達を安心させるかのように、あんなことがあってもまだ柔らかく微笑んでいた。
自分だったら絶対にあんな態度は取れない。泣き、喚き、暴れ散らして、相当な癇癪を起こしているだろう。それなのに咲耶は一切騒ぐこともなく、冷静に、落ち着いて、それどころかうろたえる自分達を落ち着かせるような気遣いまで出来る。
「はぁ~~~っ!咲耶様……、あ~~~っ!どうしてあんなに素敵なのかしら!」
日曜日の夜、薊は部屋でゴロゴロしながら身悶えていた。憧れの完璧なる咲耶様のことを想うだけでゴロゴロと転げまわってしまう。
「薊、少し来なさい」
「え?はい」
母に呼ばれて部屋を出る。父と母の前に座らされた薊は一体何事かと思って少し緊張していた。
「薊……、あなたよりにもよって九条家の娘と付き合いがあるらしいわね?」
「えっ!?それは……」
驚いた薊はしどろもどろになって視線を彷徨わせる。大人にとってはその態度だけでもう十分だ。
「あんなことをされた九条家の娘と付き合うなんてどういうつもりですか!」
「あっ、あんなことって……!ですからパーティーの時の件は間違いだと!」
母の言葉に薊は反論を試みる。あれは咲耶がドレスを汚したのではない。それは母もわかっているはずだ。それなのに……。
「あの時も言ったはずですよ?実際に誰がドレスを汚したかなど関係ないのです。そもそも九条と徳大寺は敵同士。九条を貶めるのならまだしも仲良くしているなど言語道断です!」
「――ッ!?」
母の怒鳴り声に竦み上がる。小学校一年生程度では両親というのは絶対の権力者だ。どのような理不尽を押し付けられようとも逆らえない。
「それにな薊。昨日藤花学園の保護者会があってな……。その……、言い難いがその九条家の娘さんは色々と難がある子なんじゃないか?良い話は何も聞かなかったぞ?薊とのことが誤解だったとしても学園でも何度も騒ぎを起こしているそうじゃないか。そんな子と付き合うのはパパとしても許可出来ないよ」
「お父様まで!?」
これまで特に薊の交友関係で口を出してこなかった父まで反対してくる。土曜日に何かバタバタしていたのは知っていたが、どうやら藤花学園での保護者会があったらしい。そこで色々と間違った噂を聞かされたのだろう。
「違います!咲耶様は……」
「黙りなさい!薊!あなた……、十一月のおでかけ……、九条家の娘と一緒に行くそうじゃないの」
「ぅ……、それは……」
またしても視線が泳ぐ。確かにその約束は七人揃ってのもの。当然その中には咲耶も含まれている。
「十一月にでかける約束はキャンセルしなさい。九条家の者と出かけるというのであれば許可しません。それから今後九条家の娘と付き合うのも許しません。良いですね?」
「――ッ!お母様!?」
母のあまりに一方的な言葉に薊は食い下がろうとする。しかし……。
「それはパパも同意だ。その約束が守られないのなら当分の間は薊の自由もなくすしかないよ?」
「ぁ……」
所詮薊の自由は両親の許可の下での自由でしかない。両親が出かけることを禁止すると言えば出かけられない。母が九条家に良い感情を抱いていないことはわかっていた。しかし相手を隠して黙って行動していたというのに……、それを手助けしてくれていた父まで反対するとあっては薊に取れる選択肢は何もなかった。
薊にはもうどうしようもない。ただ……、両親の言うことに従って咲耶と距離を置き、お出かけをキャンセルする。それしか残された道はなかった。
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月曜日、憂鬱な気持ちで学園へと向かう。少し……、ほんの少し前までは一日が経つのが待ち遠しかった。早く十一月になって欲しかった。それなのに……、今は学園に行くことすら苦痛に感じる。
今日……、学園に行って皆に報告しなければならない。一緒に出かけられなくなったと……。
皆あんなに楽しみにしていたのに……。七人で揃って行こうねって約束していたのに……。
それを考えるとじわじわと目の前が歪みそうになる。でもぐっと我慢して学園へと向かう。せめて……、ちゃんと報告しなければ……。それくらいは果たさなければならない。その気持ちだけで薊は学園へと向かった。
学園の中は異様な雰囲気だった。今までの藤花学園とはまったく違う。いや、本当は変わらないのかもしれない。ただ自分の気持ちが違うから違うように感じてるのかもしれない。学園が何も楽しくない。皆に会うのが辛い。
でも……、どうしたことか。皆も暗かった。そしてそれを見て薊も察した。そうなのだ。そういうことなのだ。皆はお互いに相手を見てそれを察した。土曜日に保護者会があったということは……、皆同じなのだ。
問題はいつ言い出すのか。いつ切り出すか……。それを言うのが怖い。恐ろしい。咲耶は何というだろう。もう自分達のことなど知らないと見捨てられるだろうか。それを思うと胸が苦しい。
異様な雰囲気の中、薊たちは刻一刻と迫るその時が近づくのを苦しい思いをしながら待っていた。
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ゆっくり話し合いの時間が取れるお昼休み。ついにその時が来た。七人で集まって……、いつもなら楽しく食堂へ向かう時間。しかし今日は違っていた。食堂ではなくこの時間には人気がない特別教室などがある付近の廊下の奥に集まる。そして薊が口を開いた。
「咲耶様……、実は……、土曜日に保護者会というのがあったそうで……、両親に咲耶様とのお付き合いのことが知られてしまいました。それに……、両親はあの嘘の噂を信じて……、咲耶様とはもうお付き合いしてはいけないと……。今度のお出かけもキャンセルするように言われてしまいました……」
薊の言葉に、咲耶はただ静かに目を瞑っている。やっぱり……、見捨てられてしまうのだ。両親を説得も出来ない自分などもういらないと言われてしまう。
「咲耶ちゃんごめんなさい!」
「私も……」
他の皆も、自分もそうだと言い始める。茜も椿も譲葉も蓮華も、西園寺皐月でさえ、全員が、土曜日の保護者会で両親にこれまでのことが知られ、九条咲耶と付き合うことは許さないと禁止されてしまった。全員が今度のお出かけをキャンセルするように言われてしまった。もう皆でお出かけすることは出来ない。
きっと咲耶なら、強くて完璧な咲耶ならばいつものようにただゆっくり笑って自分達に心配ないと言うのだろう。そう思っていたのに……。
「咲耶様…………」
薊は信じられないものを見た。つつつーっと、咲耶の頬に一筋の雫が流れる。
「……え?……あれ?」
咲耶は、自分でも驚いたという顔をして頬に触れる。しかし……、それは止まることがなく、一度流れると次々に溢れ出してくる。
「あれ?あれ?」
ポタリポタリと、溢れる涙に戸惑い、その顔は次第に歪み……。
「咲耶様……」
「うっ……、ぐっ……、ああああぁぁぁぁぁ~~~~~っ」
突然、堰を切ったように咲耶が大きな声を上げて泣き出した。あの咲耶様が、強く、美しく、完璧であるはずの咲耶様が、恥も外聞もなく、まるでただの子供のように大きな声を上げて泣いている。
「うぅ……、わあぁ~ん!」
「うぇ~っ、うぐっ、あああぁぁぁ~~~!」
「ひっ……、ぐっ……、びぇぇっ!」
それを合図に皆が一斉に泣き出す。薊も大きな声を上げて泣いた。
「さくやさまぁぁああ~~っ!あああぁぁぁ~~~!」
皆で抱き合って、ただただ泣き続ける。騒ぎを聞きつけて大人達がやってくるまで七人は廊下で泣き続けたのだった。