第八十三話「押収」
伊吹は視線を逸らせることなく真っ直ぐ俺を見詰めている。ここで伊吹と争うことになったら面倒だな。そうは思うけど俺にはどうしようもない。ただ俺も伊吹を真っ直ぐに見詰めることしか出来なかった。
「そうか……。わかった……」
伊吹がボソリと呟く。何がどうわかったのか俺にはわからない。でも伊吹はすぐに動いた。
「ここに書かれていることは全て誤りだ!この嘘を書いた者は徹底的に調べ上げる!それから今後も嘘を広めようとする奴は俺が相手になる!よく覚えておけ!」
そう言って伊吹は壁新聞に近づき、破こうとしていた。俺は慌てて伊吹の手を掴んで止める。このまま破かれたら困る。
「ちょっと待ってください。破かないで……」
「何でだよ!こんなものビリビリに破って捨ててやる!」
興奮している伊吹は暴れようとする。いくら相手が一年生とはいえ下手に暴れられたら面倒だ。後ろに回って密着し左手で体を押さえつつ右手は伸ばした伊吹の手を掴んで押さえる。
「だから待ってくださいと言っているでしょう。これは重要な証拠です。こちらから証拠を処分してどうするつもりですか」
「あっ、うん……。えっと……、わかった」
俺が後ろから押さえ込むと伊吹は急に大人しくなった。何だ。今日は随分素直だな。
「わかったのなら良いです」
伊吹が大人しくなったから俺が手を放して離れようとすると……。
「あっ!待て!わからない!わかってない!まだ俺はわかってないぞ!」
またいきなり暴れ出す。一体何なんだ?伊吹が何をしたいのか全然わからない。ただわかることはこのまま伊吹を放っていて証拠を破り捨てられたら困るということだ。
「もう!何がしたいのですか!大人しくしてください!」
「うん……。もうちょっと……、こう……、密着が……」
暴れ出した伊吹を再び後ろから押さえ込むとまた大人しくなった。何なんだ?押さえられたら振り解ける自信がないから大人しくしているのか?でもまた離して暴れられたら面倒だしな……。かといっていつまでも後ろから押さえているわけにもいかないし……。こいつは一体何がしたいんだ……。
「大人しくしてください。もう暴れてはいけませんよ?」
「あっ!あっ!待て!まだ早い!今離れたらまた暴れるぞ!もうちょっと!もうちょっと待て!」
「はぁ?」
全然意味がわからない。何を待つというのか……。伊吹が納得して大人しくすればいいだけの話だろう?全然話がかみ合わない。こいつは何を言っているんだ。いっそ失神させるか?KOして失神させれば大人しくなるんじゃないかな?そうだ。そうしよう。顎先を綺麗に狙えば……。
「俺の名前を呼んでみろ!」
「はぁ?」
何だこいつ?いきなり何を言い出すんだ?全然意味がわからない。胸に七つの傷がある男の偽者か?
「早く!」
「…………近衛伊吹」
あまりうるさいからお望み通り呼んでやる。でも伊吹はそれで満足しなかった。
「もっとこう……、耳元でささやくように!それに苗字はいらない!名前だけだ!」
一体何なんだ?もうわけがわからないよ……。でもそれで大人しくなるならそうするか。名前を呼ぶだけだし……。
「……伊吹」
「はうっ!」
「うわっ!」
名前を呼んだ瞬間、伊吹はビクンと跳ねた。何なんだ?もう全然意味がわからない。ただ一つわかることは気持ち悪いということだ。もうこんな奴放っておこう。
俺が手を離すと伊吹はふにゃふにゃとその場に崩れ落ちた。本当に気持ち悪い……。何なんだ一体……。
「え~っと……、九条さん……、伊吹と遊んでるところ悪いんだけど……、こんなもの置いていて証拠になるの?」
崩れ落ちて座り込んだ伊吹を見ながら槐が話しかけてきた。どうやら槐達もどうしたらいいかわからず遠巻きに様子を窺っていたようだ。槐も伊吹の親友ならもっと前に助けに入れよ……。
「こんな場所に貼られていたものでは大勢の指紋がついていて証拠にはならないのでは?」
ようやくこちらに近づいてきた皐月ちゃんもそんなことを言う。どうやら伊吹が気持ち悪いから皆離れて見ていたようだ。どうしてもっと前に来て助けてくれなかったのか……。
「確かに指紋は証拠にはならないでしょう。もし犯人の指紋が残っていたとしてもここで掲示されてからついた指紋だと言い張るでしょうしね」
「じゃあ……」
薊ちゃんが不安そうな顔で壁新聞を見る。これには証拠としての価値はないと思っているんだろう。でもそれは大間違いだ。
「表面はそうですが、裏面についている指紋なら、これを貼った後でついたという可能性は極めて低いです。完全なる証拠とは言えないまでも証拠を補完する傍証には成りえます。そして何より私がこれが証拠になると言ったのは指紋についてではありません」
「え?」
「それは……?」
皆は単純に壁新聞についた指紋が証拠だ!とか思っているんだろう。でもそれは大間違いだ。実はこの壁新聞そのものが証拠そのものになっている。
「咲耶ちゃんはよく知ってるんだね」
水木だけ一人で何かわかったような顔をして頷いている。何かそういう態度をとられたらちょっとイラッとするけど……。俺からすればお前の方が子供なわけで……、子供なのに物知りだねぇ、みたいな態度を取られたらちょっとイラッとするのもわかるだろう。まぁそう言ってても埒が明かないから先に進めよう。
「この壁新聞は明らかに相当手の込んだものです。多くのカメラからの映像を集め、パソコンで作られたもので子供が作ったとは思えません」
ただの大きな紙に子供が手書きしたり、写真を貼り付けただけのものじゃない。これは相当パソコンに詳しいものが本格的にデザインして作ったものだ。だから出来がかなり良く、子供が作った壁新聞というよりは本当に何らかの公報とか新聞とか雑誌のように出来ている。煽りのつけ方もうまく明らかのプロの仕事だ。
いくら昨今では子供でもパソコンくらい使える者が増えているとしても、ここまで完成度が高い壁新聞を子供が単独で作ったとは思えない。日曜日を挟んでいたとはいっても、土曜の運動会のことをたった一日でここまで仕上げてきたというのも含めてだ。
「これは編集や操作、写真やカメラの映像のデータ集めなど、本格的な協力者がいなければ出来ないクオリティです。プロの仕事か、少なくともそういう協力者なくしては出来ません」
「なるほど……」
「その協力者を探すってこと?」
ちょっと説明が脱線したから皆首を捻っている。
「印刷用にこれだけ大きな紙を用意し、印刷出来る設備を使用しているのです。今の技術ならこの紙やインクがどこで製造されて、誰が買って、どの設備で印刷したのか。そんなことまでわかるのですよ」
「ええ!」
「そうなの?」
まぁ絶対とは言えない。でもインクや紙がどこの工場で作られて、どこで売られた物か判別出来る場合もある。そしてそれが特殊なものであれば買った者すら特定可能な場合もある。
「この壁新聞はつなぎ合わせたものではなくかなり大きな一枚物の紙に印刷されています。これだけの印刷用紙を使い、印刷出来るプリンターがあるというのはかなり条件が限られるでしょう」
この壁新聞は一枚一枚がかなりの大きさだ。普通の家庭用のパソコンとプリンターでは印刷出来ない。プリンター機能付きのファックスも同じだ。これだけの大きさの紙に印刷しようと思ったらそれなりの設備が必要になる。しかもこれだけ手の込んだものを作っているんだから専門の印刷業者を利用している可能性もある。
「そっか!じゃあこれは大事に置いておいて鑑識にまわさないといけないね!」
「譲葉ちゃん……」
譲葉ちゃんはちょっとテレビドラマか何か観すぎじゃないですかね?鑑識ってね……。まぁいいけど……。
「とにかく汚したり破ったりしないように、指紋も消さないように手袋を着用してから慎重に剥がしましょう。そして……、もしこの話を聞いてから急遽これを処分しようとしたりする者がいれば……」
「あぁ……。その人が犯人か犯人の一味ってことですね!」
俺の言葉を引き継いで薊ちゃんが答える。それを聞いて野次馬達はさらに一歩下がった。自分達が犯人にされたらたまらないという感じだろう。
実は色々それらしく言ったけどそんなに簡単な話じゃない。本当に警察が全力を挙げて捜査するというのならこれだけ証拠があれば見つかる可能性は高い。でも俺達は警察でもないし、この件を警察沙汰にするつもりもない。だからこれを置いてても犯人が捕まるとは限らないだろう。
でも……、もし犯人もこの場にいたならば、あるいは仲間がいてこの話を伝えたならば、結構焦るんじゃないかな。慌てて行動してくれたらボロも出やすい。犯人を捕まえるとか公にするかどうかはともかくこうしてプレッシャーをかけておくのは良いことだ。
「咲耶様!手袋ってこれで良いですか?」
「あ~……、え~……。まぁいいでしょう……」
日焼け止めのUVカット手袋とかサテングローブを持って来た薊ちゃんに曖昧に頷く。本当にそれで大丈夫かどうかはわからない。でもそれほど問題はないだろう。本気で指紋とかを気にしているわけじゃない。そもそも鑑識に出さないし……。
ただ犯人はこれを見ていたら焦るだろう。そういう意図だからそれっぽくしていればいい。ついでに……、万が一、もし、例えば裏面に指紋が一種類しかないとかそういうことが判明したら……、犯人特定の証拠にはならなくても傍証には使えるよね、という話だ。
それにしても一体誰が、いつ、こんなものを貼ったんだ?
俺が朝登校してきた時にはなかった。それは間違いない。その後薊ちゃんグループの子達が来る時にもなかっただろう。あれば誰かが知らせてくれたはずだ。となればこれは俺達が登校した後で貼られたものだと考えるのが筋だろう。
運動会でたまたま俺のことを知った他の学年や、初対面の保護者達がわざわざこんなことをしたとは思いにくい。それに掲示板に貼られた時間を考えれば俺やその周りの者が登校してくる時間を知っていて、それが過ぎてから貼ったということになる。
今回たまたまというよりは、元々俺のことを知っている者の犯行である可能性が極めて高い。そもそもクラスメイト達との写真や、萩原紫苑を呼び出した後の写真を撮っているということは、元々俺を狙っていたんじゃないのか?
俺に敵対的で、最初から狙っていて、カメラマン達を入れることが出来る運動会の日に俺を狙っていた。壁新聞の編集や作りからして家ぐるみで俺を狙っている相手だろう。
まったく……、面倒臭いことになった……。犯人捜しとか面倒臭いけど、かといってこのまま無実の罪を着せられるわけにもいかない。
この世界は咲耶お嬢様に厳しい。こんなことがあって、それを放っていたらまた咲耶お嬢様の悪評として定着してしまう恐れがある。確実な解決策はないけど、だからって黙っているわけにもいかないよな……。
「咲耶お嬢様、お呼びでしょうか?」
「椛、良い所に来てくれました」
呼び出しておいた椛達が到着したので事情を説明する。椛以外にも複数人で来るように言っていたから、他にも執事とメイドと運転手の四人だ。
四人で慎重に、指紋を消したり、この証拠品が損なわれないように厳重に注意して撮影しつつ扱えと伝えた。犯人にとってはこれは重要な物証だ。さっきの話を聞いた後では何をしてくるかわからない。
「そのようなことが……」
「わかりました!これを鑑識に回せばよいのですね!」
いやいや……、運転手さん……、あなたもテレビドラマの観すぎですか?鑑識ってあーたね……。まぁいいか……。
「それでは任せましたよ」
「はい!お任せください!」
「命にかえても守ります!」
「そして犯人を必ず捕まえます!」
いやいや……、だから……、そんなご大層なものじゃないんだよ……。もういいか……。そう言っておけば犯人も焦るだろう。
「さぁ……、とんだことになってしまいましたがお昼にしましょうか」
「そうですね……」
「それにしても犯人は許せないですよね!」
「絶対とっちめてやります!」
壁新聞も撤去し、証拠品として押収した。すでに執事がカメラを回しながら厳重に管理している。これでこの件は暫く進展はないだろう。すぐにどうこうなるものでもないし食堂でご飯にしよう。皆も俺の言葉に応えて玄関口から離れようとして……。
「えっとね九条さん……。悪いんだけど伊吹を戻すのを手伝ってくれないかな?」
槐に話しかけられて立ち止まる。
「近衛様を戻すというのは?」
槐の言っていることがわからない。伊吹達は伊吹達で勝手に帰ればいいだろう。俺達の知ったことじゃない。
「さっき九条さんにやられてからまだ伊吹が正気に戻らないんだよ。九条さんじゃないと戻せないから手伝ってくれないかな?」
俺は関係ない。知るか。と言いたいところだけど……。チラリと見てみれば伊吹はまださっき崩れ落ちて座った姿勢のままで止まっていた。蹴っ飛ばしてやれば起き上がるんじゃないか?
「そう言われても私にはこのような人を持ち上げるような力はありませんよ?広幡様に担いでいただけばどうですか?」
「いや、担ぐ必要はないよ。九条さんがこう言ってくれたらいいんだよ」
「はぁ?」
そう言って槐はごにょごにょと俺の耳元でふざけたことを言う。
「どうして私がそのようなことを言わなければならないのですか!?」
「でも伊吹をこんなにしたのは九条さんでしょ?」
ぐぬぬっ!知るか!伊吹が勝手にこうなったんだろ!俺のせいじゃない!
でも……、確かに大勢の生徒が見ている前で伊吹はこうなった。このままここにこの状態の伊吹を放っていったらまたさっきの壁新聞みたいなことになりかねない。……止むを得ない。これは仕方がないことなんだ……。
一度きりだ。こんなことを言うのは一度きりだからな!そもそもこれで直らなかったら槐をぶっ飛ばしてやる。弱々しい白雪王子とか関係ない。ぶっ飛ばす。そう心に誓って槐を睨みつけてからそっと伊吹の後ろに近づき耳元で声をかける。
「伊吹様……、昼食をご一緒しましょう?」
「いく!すぐいく!」
「うわっ!」
俺が声をかけると伊吹はビョーンと飛び上がった。こいつさっきまでのは呆けたフリだったんじゃないだろうな?まぁいい。復活したようだからもう放っておこう。
「さぁ、それでは皆さん食堂に向かいましょう」
「おい咲耶!昼食を一緒にするんだろう?今から外へ行くぞ!さぁ!」
はぁ……。面倒臭い……。槐にそう言えと言われただけで本気で伊吹と昼食をするつもりはない。
「近衛様が呆けておられたので、鷹司様がそう言えば戻ると言われたので言っただけです。ご一緒するつもりはありません」
「なっ!ちょっ!まっ!」
まだ伊吹が何か言おうとしているけど、結局それ以上は聞かずにいつもの皆と食堂に向かったのだった。




