第七話「入学前」
今日も今日とて習い事の毎日……。百地師匠は毎日来いっていうけど生憎と百地流に毎日来るのは難しい。
「何故毎日来れないというのだ?」
「えっと……、今はフィットネスクラブで水泳も習っていますし、これから先は塾も増えるので、ここだけに毎日来るということは出来ません」
立ち座り、お辞儀の復習をしながら聞かれたことに答える。結局これもまだ良いとは言われておらずひたすら繰り返しだ。
「ほう……。水練がしたいのか……。ならばそのふぃっとねすくらぶは辞めてここに来るが良い!百地流は武芸十八般!今度から水練もさせてやろう!」
「いえ、大丈夫です。ご心配には及びません」
とんでもない。このクレイジージジイに任せてたら何をやらされるかわからない。それなら古堀先生に水泳教室をしてもらう方が安心だ。
「よし!それでは今日も歩け」
「はい……」
散々立ち座りお辞儀を繰り返した後は歩く。ひたすら歩く。まったく無意味に思えるような訓練をひたすら繰り返す……。
「腰が高い!棒立ちになるな!腰を落とせ!」
「いたっ!」
扇子で足を叩かれる。体罰じゃん……。昨今はちょっと先生が触れただけで体罰だのセクハラだのと言われるこの時代に百地師匠はおかまいなしに叩いてくる。今日は母はいないけど母がいたら怒ると思うだろう?でも生憎母が見ている前でこうして叩かれても母は何も言わない。当然のこととして受け入れている。
教師が叩いたらすぐ社会問題化するのに習い事の先生や師匠が厳しくしたりしても何も言わない。所詮世の中はそんなもんだ。自分にとって都合の良いようにいくらでも解釈を変える。教師がすれば体罰。習い事の先生がすれば指導。そういうダブルスタンダードが罷り通る。
「ボサッとするな!足を上げるな!すり足だ!」
「いたっ!」
また叩かれる。百地師匠はすぐに叩いてくる。
「気を逸らすな!指先、足先まで常に神経を張り巡らせろ!首と手の動きを忘れるな!」
「ひぃっ!」
ただひたすら道場の端から端まで歩く。腰を落としてすり足で、首や手や足の動きに気を配り一切隙を出すことは許されない。
「師匠……。今日は母はいないのですから古武道の方を……」
「口答えするな!言われたことをやり通せ!」
「いたっ!」
実は母はあまり俺について来ない。同行していたのは最初の頃だけで途中からは放ったらかしだ。それなのに俺はまだ一度も古武道を習ったことはない。全てこの立ち座りとか歩くとか手の動きだとか首の動きだとか……。
これが舞踊なのか舞踏なのか何かは知らないけどいつになったら武道を教えてくれるんだろう……。俺が習いたいのは武道なのに……。
「集中せんか!」
「あいたぁっ!」
結局この日もひたすら歩き回っただけで終わってしまったのだった。
~~~~~~~
今日はいつもとやることが違うらしい。着替えろと言われて渡されたものに着替える。何か分厚くて動き難い湯帷子というか道着というか、そんな感じだろうか。
「あの……、百地師匠?着替えましたが?」
「よし!この中に入れ!」
「…………え?」
百地師匠が指差したのは……、いつもの道場の裏手にある池だ。コノナカニハイレ?何?
「さっさと入れ!」
「ひいいーっ!」
池の中に放り込まれる。冷たい!冷たい!まだ水に入って良い時期じゃないだろ!心臓発作で死んじゃうかと思った!このジジイ!クレイジーすぎる!
「師匠!心臓発作を起こしたらどうするつもりですか!寒い!水に入って良い時期じゃありませんよ!」
「何をいう。命がかかった戦で今日は寒いから水に入りませんなどと通用すると思っておるのか!」
いや……、それはそうかもしれないけど……。それは戦の時の話ですよね?私は戦なんてしませんよ?前世でも戦なんてしたこともないし今生でもする予定はありません。
「両手を上げろ!」
「はぁ?」
つい言われた通りに条件反射で手を上げてしまった。
「ちょっ!重い!重いです!沈む!」
「それを濡らさず上に上げたまま一時間姿勢を維持しろ」
「…………は?」
立ち泳ぎの俺は両手を上げて上に重りを乗せられ足だけで浮かんでいる。これを一時間?馬鹿なんですか?沈みますよ?
でもそう言ったからといってこの師匠がやめたり手を緩めるはずがない。じっと見られている俺はひたすら足だけで立ち泳ぎを続ける。
重りは重いし湯帷子みたいなのは水を吸って体に張り付いて重いし動き辛い。何でこんな格好で……。せめて水着ならともかく……。
「刀や銃を水につけずに鎧のまま泳いで堀や川を渡れなければ意味がない。この泳法の意味はわかるな?」
わかるな?じゃねぇ!俺は鎧を着て武器を水につけずに堀を渡る予定なんてねぇよ!
「師匠!足が疲れてきました!もう無理です!」
そもそも重りからしてこれ何キロあるんだ?子供に持たせて良い重さじゃないだろ!
「疲れる?それは泳ぎ方を間違えておる!一時間追加だ!」
「えぇーーーっ!溺れます!それに寒い!」
泳げば疲れるのは当たり前だろ!それに泳ぎ方が間違えてるって泳ぎ方を教えてくれてもないし!寒くて体が動かないし!死ぬ!このままでは死んでしまう!
「ふぃっとねすくらぶでも水練をしておるのだろうが?」
「フィットネスクラブは屋内の温水プールです!こんな寒空の下で池になんて入りません!」
このジジイは世の中に出たことがないのか!どこの馬鹿がこんな寒い中池に入るというのか。世の中の寒い時期のプールはみんな屋内温水プールだ!
「それでは鍛錬にならん。あと一時間五十分」
「ひぃ~~~っ!」
十分しか経ってない?それ嘘だろ?向こうの方に見える時計の針はもっと進んでるぞ。このジジイ何気にこっそり時間を増やしていってないか?こんなところにいたら殺されてしまう!
~~~~~~~
今日は初めての蕾萌会の日だ。塾は学校より若干早く進む。始まりも早い。理由は恐らくテスト対策だろう。学校は長期休暇明けから授業が始まりテスト直前まで授業が進む。そしてテストをして長期休暇だ。
それに比べて塾はテストの前には授業を進めることよりもテスト対策に力を入れる。つまりテストの前にはテスト範囲の授業を終わらせておかなければならない。また長期休暇だからと塾が休みになるわけでもない。集中講座なり、○○休み講習なり、学校が休みの間もノンストップで講習が行なわれる。
もちろん長期休暇中はただひたすら先に進めるだけじゃなくて前までの復習もあったり、苦手や間違えた所を集中的にやり直したりもするだろう。でもその間に授業も進む。学校より先行して授業内容を進めてまたテスト前にはテスト対策をするためだ。そういうサイクルで進むから新年度の開講も早い。
それはともかく今日から俺も講習を受けるんだけど……。
「高辻先生……、やっぱり中学一年生からにしましょうよ?ね?」
「え~?駄目ですよ。約束したでしょう?」
俺の担当講師は学力テストを担当したお姉さん。高辻菖蒲先生だ。
高辻先生は俺が小学校の授業なんてやっても意味がないことは理解してくれた。だけどかわりに今から大学受験対策の講習を受けて来年にも大学受験をしろというくらい無茶なことを勧めてくるようになった。
俺の目的はあくまで藤花学園高等科の授業にきちんとついていける基礎力を身につけることだ。とりあえず三流大学でもいいから進むというだけなら難しくはない。目的はきちんと藤花学園に通ってそのレベルについていけるようにすることであって飛び級したいわけじゃない。
「高辻先生、慌てて来年三流大学に入っても意味はないでしょう?私の目的は小学校六年間で中高六年間分の勉強をしっかりしてもっとしっかりした基礎力を身に付け進学することなんです」
「う~ん…………」
先生は滅茶苦茶悩んでいるらしい。でもはっきり言わせてもらえば先生が悩む必要はない。こちらがそう言っているんだからこちらの希望に沿った内容の講習をしてくれたら良いだけのことだ。それなのに何故俺がこんなことで苦労しなければならないんだろう……。
「咲耶ちゃんは藤花学園に通うのよね?」
「はい」
入学はもう決まっている。そもそも面接も出来レースみたいなもんであまり意味はないみたいだけどあと一ヶ月もしたら新年度が始まるんだから、とっくに入学の正式な通知はきている。
「藤花学園のトップから最高の大学にトップ合格……。うん!それも悪くないわね!わかったわ!じゃあどうせならつまらない大学を目指すよりも最高の大学を目指しましょう!」
「はい」
どうやら一応?説得は出来たらしい。俺は別に最高の大学に行きたいとかそんなことは思っていないけどここで余計なことは言うまい。折角高辻先生がその気になったのに余計なことを言ってまた気が変わっても大変だ。
「それじゃ今日から難関中学校一年生の授業から入りましょう」
「わかりました」
いや、よくわかってないけどね?難関中学校一年って何だ?まぁこの塾は幼稚園から大学まで全ての受験に対応しているし、生徒のレベルにも振り幅が相当ある。基本的に有名私立の生徒が通う塾ではあるけどそれでもレベル差はあるし、最終目標、次の受験先のレベルの違いもあるからな。
「それじゃ今日はまず咲耶ちゃんのレベルと苦手箇所を確認するからこれを解いてね」
「えっ!これ全部ですか!?」
そう言って高辻先生が持って来たのはとんでもない量のテキストだった。テキストっていうかこれは実力テスト用の問題集なのかな?何でもいいけどいくら何でも量が多すぎないか?
「時間も測るから、まずはこれからね」
そういって高辻先生は俺の前に置かれたテキストの山から選んだものを出す。それなら最初からやる分ずつ持ってきてくれたらいいのに……。それともこれはたくさん目の前に並べて俺の心を折りにきているのか?
「はい、それじゃ始めて」
「――ッ!」
急に始められたから俺は慌てて出されたテキストを解き始めたのだった。
~~~~~~~
疲れた……。もう当分問題集とかテキストは見たくない。それにしてもやっぱり中学生レベルでも侮れない。小学校低学年向けならともかく高学年向け以上になってくると大人でも中々百点は取れないだろう。ド忘れ、うっかり、勘違い、色々あるけど何よりも長い間その勉強から離れていれば現役世代より解けなくても無理はない。
俺もちょこちょこ取りこぼした問題がある。八十点、九十点なら取れるけど百点は難しい。中学生の問題でもこんなにあれこれ取りこぼすなんて少々自信を失くす。それと同時にやっぱり中学生くらいから勉強をやり直した方が良いということも身に染みた。
「咲耶お嬢様、お待たせして申し訳ありません。お迎えに上がりました」
「椛」
まるでコンシェルジュのような受付が立っている高級感の漂うエントランスで待っていると椛がやってきた。でも椛は何も悪くない。予定より早く終わったのであって迎えが遅れたわけじゃないからだ。
「今日は早く終わったので椛が謝る必要はありませんよ。さぁ、帰りましょう」
迎えの車に乗り込んで家へと向かう。もうすぐ藤花学園が始まる……。まだ初等科だけどここからが正念場だ。まぁ俺が記憶を取り戻してからまだちょっとしか経ってないけど……。
ゲーム『恋に咲く花』では初等科の時点でかなり重要なことが色々と決まってしまっている。近衛伊吹と九条咲耶との関係もそうだし、咲耶の取り巻き達も初等科からのお友達だ。伊吹以外の攻略対象も小中で大半が出てくるし咲耶以外のライバル令嬢達もいる。
今後の俺の立ち回り次第では『恋花』の進行に大きな影響が出てくるだろう。少なくとも俺は咲耶お嬢様みたいに過ごすわけにはいかない。そうなればよくてこの身の破滅、最悪の場合は家族にまで迷惑をかけてしまう。
母はいつも俺にガミガミとうるさい。ゲーム『恋花』に出てくる咲耶の母は咲耶と一緒になって『お~っほっほっほっ!』とか言いながら嫌味を言ったり嫌がらせをしたりするキャラだ。だけどこの世界の母はそんなゲームの嫌なキャラと違ってとても親しみやすい。
大財閥のご夫人だっていうのにそんなにお高くとまってないしそんな立場のご夫人に似合わず声を荒げて俺を怒る。でも……、とても良い母親だ。俺のことを思って怒ってくれていることはわかっている。俺がただの子供だったなら反発したかもしれないけど前世から記憶と意識が続いている俺にはわかる。
父も……、娘には甘い駄目な父だけど……、それでも血の通った普通の父親だ。兄も……、まぁ兄はちょっと何を考えているのかわからないというか、時々得体が知れない時もあるけど……、それでも俺のために母を説得して習い事を選んでくれたりとても良くしてくれている。
俺のせいでそんな家族を巻き込んで不幸にするわけにはいかない。俺は必ずこの『恋に咲く花』の世界でうまく立ち回って結末を変えてやる!